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初夜に棄てられた花嫁~売られた私を救ったのは、冷徹な黒鉄の侯爵様でした~

作者: 夜音
掲載日:2026/06/19

 目が覚めたのは固い床の上だった。毛布にくるまり縮こまっていた体をゆっくり伸ばす。


 磨きぬかれた床の木目が、窓から差し込む日差しに照らされ白く輝いていた。


 ここは、シュトロハイム侯爵邸。


 私は今、このお屋敷でメイドとして働いている。侯爵のディルク様は、二十六歳という若さで王立図書館の館長として勤める有能な方だと聞かされた。


 侯爵家の使用人は、物静かな執事ジャンさんとふくよかな家政婦ケリーさん。五十歳前後の夫婦が二人だけ。ジャンさんは、私が男性に恐怖心を覚えると知ってから、私を怯えさせないよう一歩引いて、そっと見守ることに徹してくれている。


 ディルク様とはまだお会いできていない。館長としての仕事が忙しい時期で、深夜に帰宅し私が起きる前の早朝に家を出ているからだ。


 庭の手入れや部屋の掃除などで手が足りない時は、その都度古くからの付き合いがある外部の者が呼ばれるのだという。


 働き始めて五日。私はケリーさんたちの配慮で、ひとりになれるリネンの管理や繕い物を任されている。


 静かで平穏な日々に、私の心は落ち着きを取り戻しつつある。


 ――ここで働くことになったのは、あの夜に起きた出来事のせいだった。




 婚約者だったフィッツ男爵家嫡男ヘンリー様との婚姻を済ませた初夜、彼は豹変した。


『純潔の証がない』


 そう激昂した彼から容赦のない暴力を受けたのだ。


『大人しそうな顔をして、とんだふしだらな女だなマリエット!』


『貞淑な女だと思ったから天涯孤独の貴様を見捨てず妻に選んでやったのに!』


 身に覚えのない言葉とともに暴力を振るわれ恐怖と痛みで震える私に、彼は羽ペンを握らせた。そして、私の手を上から強引に掴むと、『私マリエット・ホルトは不貞を働いた故、離縁に同意する』と、無理やり書きなぐらされた。


 そしてヘンリー様は、殴打によって散った血が滲むシーツを意識が朦朧とする私に乱暴に巻き付けた。


 そのまま乱暴に馬車へと放り込まれ、彼は汚いものを見るみたいな目で私を見下ろし、『この娼館がおまえの新しい居場所だ』と告げた。


 両親が事故で亡くなり、顔も知らなかった遠縁の叔父が子爵家の家督を継いだ。居場所を失くし孤独だった私に婚約者のヘンリー様は『これからは二人で幸せになろう』と誓ってくれた。けれど、あの日そう誓った彼は、もう、どこにもいない。


 ――そう、私は初夜に夫に売られてしまったのだ。


 私が売られたのは『闇夜の昴』。館の主は、鉄紺の髪に深い海を思わせる蒼い瞳が印象的な女性で、サムと名乗った。


 一階は酒場。二階には個室が並び、その一室を与えられ傷が癒えるまでの間、サムさんは優しく看病してくれた。


『私もね、昔、義母に疎まれて売られたの。だからわかる。あなたは何も悪くないわ、大丈夫よ』


 彼女の優しい言葉に私は救われた思いがした。




 傷も癒えた私は、少しずつ体力を取り戻すため酒場で働くことに。けれど常連客に『新入りかい。頑張りな』と肩を軽く叩かれた瞬間――


 爪先から血の気が引いていく感覚に、ガタガタと震えだす体。空気を求め開いた唇は、呼吸の仕方を忘れてたかのように情けなく開いたまま固まった。


 怖い。


 あの夜の彼の姿を思い出してしまう。


 ――世界が真っ黒に染まった。


 寝台に横たわれば、怒鳴り声と殴られた衝撃を思い出してしまう。それ以来、私は寝台に横になることもできなくなったのだ。


『ここは、マリエットには辛いみたいね……そうだ、私の知り合いがメイドを探していたわ。一部の貴族からは「冷徹な黒鉄(くろがね)」なんて呼ばれてるけど、ただの本好きで乱暴なこととは無縁の男よ。行ってみる?』


 部屋の隅で頭から毛布を被って怯える私に、サムさんは、新しい居場所を与えてくれた。


 出発の際、サムさんはせめてもの餞別にと最低限の身の回りの物を詰めた小さな鞄を持たせてくれた。着替えも、形見の品も。――あの日、すべてを奪われた私にとってはこの鞄だけが全財産だった。



 *



 山積みの決裁書から解放され帰宅したのは、今日も深夜だった。それでも明日からは時間に余裕もできるだろう。


 サムから託された新しいメイド、マリエットの部屋の前に立つ。


 正直なところ、彼女を預かることは躊躇した。だが、かつて同じように売られ、幼かった私には救えなかった姉の姿が頭から離れてくれない。


 ――あの日、届かなかった手を今度こそ。


 私はマリエットを守りたいと思った。


 彼女を起こさぬように、静かに扉を開ける。月明かりが照らす寝台は、乱れ一つなく使われた形跡すらない。


 何かの気配に視線を部屋の隅に移す。


 そこには床の上で毛布にくるまり、小さく丸まって眠るマリエットの姿があった。


「……っ」


 思わず、口から零れそうになった声をなんとか飲み込んだ。


『夫から暴力を受けた上に売りとばされた』


『恐怖に囚われ、寝台で横になることもできない』


『――男という存在そのものに怯えてしまう』


 彼女の事情はサムから聞かされていた。しかし、そこまで深く心が壊されていたとは。彼女にこれほどまでの恐怖を植え付けた者への怒りがこみ上げる。


 私は震える手で、彼女を起こさぬようにそっと扉を閉じた。



 *



 一日の仕事を終えて部屋に戻ると、見慣れぬ光景があった。


 部屋の隅。ちょうど私が夜を明かす場所に、ふかふかとした毛足の長い茶色の絨毯が敷かれていた。その上には若葉色や淡い蜂蜜色の大小さまざまなクッションが重なり合う。


 柔らかく肌触りのよいそれを一つ拾いあげた。


 腕の中のクッションから伝わる優しいぬくもり。


 ふと丸机に視線を移すと一枚の便箋が目に止まった。そこには丁寧だけれど少し癖のある文字。


『床の上では体も休まらないだろう。このクッションであれば、恐怖心も覚えることなく眠れるはずだ。』


 床で寝ていることを知られてしまっている羞恥と、はしたないと咎めずにこうして肯定してもらえた安堵。


 私はたまらずその柔らかな布地に顔を埋める。じんわりと溢れる涙を優しく受けとめてくれた。 


 このお屋敷に来てよかったと心から思う。


 きっと、あのままヘンリー様の妻として暮らせていたとしても、いずれ私たちの関係は壊れてしまっていただろう。


 私を――妻を信用できない夫と、幸せな家庭は築けない。


 両親を亡くし家族と縁遠い私が求めていたのは、互いに思いやり、信頼しあえる関係だ。


 ヘンリー様とは築けなかったものが、このお屋敷にはある。


 肌触りのよいクッションに埋もれながら、私は静かに眠りに落ちた。



 *



 翌朝。春の陽だまりに包まれたような幸せな心地で目覚めた。


 こんなに安らかな気持ちは、いつぶりかしら。体の強張りも嘘みたいに軽いわ。


 身支度を整え食堂へと向かう。


 扉を開けるとそこにはジャンさんとケリーさん。そして――長い黒髪を耳の下で緩く一つに束ねた男性の姿があった。


「おはよう、マリエット。よく眠れたかな?」


 低く響く声は穏やかだ。まるで深い海を思わせる澄んだ蒼い眼差しは、凪いだ水面(みなも)のよう。


 どこか見覚えのある色の瞳。


 この方が、ディルク・シュトロハイム侯爵様。


『冷徹な黒鉄』の二つ名からは想像もしなかった落ち着いた佇まい。


「……は、はじめまして。マリエットでございます。先日よりこのお屋敷で、お世話になっております」


 慌ててお仕着せの裾を摘み頭を下げた。


「私はディルク・シュトロハイムだ。そんなに畏まらなくていいよ。さあ、掛けて。朝食を摂ろう」


 促された私は、ディルク様と向かい合う席に着いた。私のすぐ隣にはケリーさん。ディルク様の隣にはジャンさんがそれぞれ腰を下ろしている。


 このお屋敷ではディルク様の方針で、皆で食卓を囲む。


 ここへ来たその日に、『貴族と使用人よりも、家族に近いのかしらね』そう微笑んだケリーさんの言葉を思い出した。


 この五日間、ジャンさんが常に一歩引いて見守ってくれたことで、不思議と恐怖心や体の震えはなかった。


 このお屋敷に流れる穏やかな空気はディルク様の性格を表している、そう感じられた。この人たちは私を傷つけない。そんな確信が強張った心をふわりと軽くしてくれた。


「あ、あの……絨毯とクッションをありがとうございました」


「サムから君が寝台を使えないと聞いている……だが、あんな固い床では疲れも取れないだろう。クッションの上ならば、いくらか体も休まる」


 この方は、頭ごなしに責めたりしない。それどころか、私の異様ともいえる振る舞いにすら寄り添ってくださる。


 ――なんて優しい人なの。冷徹さなんてどこにも見当たらないわ。


「それからこちらを」


 遠慮がちに告げたジャンさんが卓上に小さな小箱を置いた。


 滑らせるように私の前へと押し出されたその中に並ぶ、見覚えのある裁縫道具と両親が贈ってくれた一冊の詩集。


 それは、たった一つの両親の形見だった。


「どう、して……」


 身一つで追い出されて持ち出すことも、取りに戻ることもできなかった大切な宝物が、ある。


「フィッツ男爵家の執事が主人の目を盗んで『闇夜の昴』に届けたのだ。これだけは捨てられなかった……と。昨日、サムから託された。大切なものだろう?」


 ディルク様の声は、どこまでも穏やかだった。


 胸の奥が熱くなる。


 私の元に戻ってきた詩集の表紙をそっと撫でた。


 ゴミのように捨てられた私を、案じてくれる人がいる。迎え入れてくれる人たちがいる。


 元夫に受け入れられなかった、私を。


「ありがとうございます。あちらの執事様も、そして皆様も……ほんとうにありがとうございます」


「失くしたものは、少しずつ取り戻せばいい。さあ、スープが冷めてしまう。食事にしよう」


 目尻の涙を拭う私に、ディルク様が微笑んだ。



 *



 ある日の昼食後「あら。茶葉が切れていた」とケリーさんが呟いた。


「……私が、買いに行きましょうか?」


「助かるけど、マリエット、ひとりで大丈夫かい?」


 私の申し出にケリーさんは、目を瞬かせた。


 ここ数日、ケリーさんの買い物に付いて街を歩くようになっていた。目当ての店まではそう遠くない。


「はい。すぐ戻りますから」




 夕方、紅茶店でディルク様がお好きな茶葉を購入した帰り道。胸に抱えた紙袋からは燻された薫りが漂う。


 少し前なら考えられなかった、男性店員とのやり取りができたことをきっと皆さん喜んでくれる。そう思うと自然と歩みも速くなった。


 ――突然、背後からものすごい力で肩を掴まれた。


 侯爵邸の門柱は目前だったのに。


「マリエット、おまえを見かけたと聞いて来てみれば、まさかほんとうにいるとはな。娼館で使い物にならずに追い出されでもしたのか?」


 手の力が入らず抱えていた紙袋が、バサリと地面に落ちた。


 力ずくで体の向きを変えられる。


 蔑んだ瞳が、歪んだ笑みを浮かべて私を見下ろす。


 心臓が握りつぶされる感覚に喉が詰まる。


 ――ヘンリー、様。


「その格好、メイドか? 雇い主を出せ。おまえが嘘つきの穢れた女だと教えてやろう」


「……っ」


 怖い。私の居場所を奪われてしまう。あの温かな日々を。


「田舎のホルト家にも不貞を知らせてやったぞ。マリエット」


 なにもかもが絶望に塗り潰され飲み込まれていく。


 その時、ガタンと音を立てて一台の馬車が門柱の前に止まった。と、同時に扉が勢いよく開いた。


 降り立ったのは、王立図書館館長の証である立ち襟に銀糸の月桂樹が刺繍された濃紺の制服を纏ったディルク様だった。迷いのない足取りで近づいた彼の手が、私の肩に食い込む無骨な男の手首を引き剥がした。


「乱暴はやめてもらおうか」


 私を背中に隠した人。


 ああ。ディルク様だ。


「……っ……っは、はあ」


 ひきつった呼吸を整えるように深呼吸を繰り返す。


 震える指でディルク様の上着の裾を掴む。


「なんだ貴様? 俺は親切にもそいつが汚い女だと教えてやろうと――」


「……耳障りだ。フィッツ男爵令息、醜悪な言葉で彼女を蔑むのはやめたまえ」


 喚く声は、いつも日向のように温かなディルク様からは想像も出来ないほどの冷徹な声に掻き消された。


 一瞬の静寂。


「……ぐっ」


 息を呑むあの男の気配。広い背中の向こう側でディルク様はどんな表情(かお)をされているのだろう。


 そこへ、私とディルク様の横を音もなく通り抜ける人影があった。


「……お引き取りを。さもなくば、当家への侮辱罪として憲兵を呼びます」


 硬く冷たい事務的な宣告。声の主はジャンさんだった。


「ふ、ふん。マリエットのような女を雇うなど、どうせ碌でもない主だろ」


 負け惜しみの捨て台詞を残し彼はその場を立ち去った。


「怖い思いをしたな。大丈夫、あの男はもういない。さあ、屋敷に帰ろう」


「……このまま、掴んでいてもいいですか?」


「ああ」


 そのまま裾を掴んで、ディルク様の後ろをついて歩く。


 視界の端でジャンさんが、私が落としてしまった紅茶の袋を拾い上げたのが見えた。


 怖かった。またあの男に殴られるのではないか。そう思うと、指先が凍え全身の震えが止まらなかった。


 でも、ディルク様の姿を見た瞬間。私を背中に庇ってくださったあの瞬間。暗闇に引きずり込まれそうな私の心に一筋の光が射し込んだ。


 ――まるで希望のような、光が。


「今日はもう休みなさい」


 自室の前に辿り着いた私を振り返ったディルク様が微笑む。


 優しい声に我に返り、ぎゅっと握りしめていた裾から指を離した。皺になってしまった上着の生地が申し訳なくて視線を落とす。


「……はい。ご迷惑をお掛けしました」


 離れていく背中に、考えるよりも先に思わず手を伸ばした。


「あの、側に……い、いえ、なんでもありません」


 私のしどろもどろな言葉を、ディルク様は静かに受け止めてくださった。


「君が眠るまで、ここにいよう……さあ、安心しておやすみ」


「……ありがとうございます」


「この詩集を借りてもいいかな?」


 私が小さく頷くと、ディルク様は宝物に触れるみたいに丸机の上に置かれていた、形見の詩集を手に取った。


 そして、彼はクッションの一つに腰を下ろし表紙を開いた。


 私はおずおずとクッションの山に埋もれ、瞳を閉じる。


 ぱらり、ぱらり。


 静かに頁を捲る音を聞きながら、私は深い安らぎの中へと落ちていった。



 *



 あれから数週間。翳りがみえたマリエットの表情も、少しずつ穏やかさを取り戻していた。


『いつも優しく見守ってくださり、ありがとうございます』


 少し頬を朱く染めた彼女は、私に栞を手渡してきた。


 まっさらな白い絹の素朴な栞。そこには青や若草色の細い絹のリボンを糸代わりにした刺繍が施されている。青い小花がふっくらと咲いた意匠は、控えめな彼女を表しているようだった。


 絹を二つに折り、端を丁寧に縫い合わされたその栞は手に取るとしっくりと馴染んだ。


 ――夜、あのクッションに身を預け、ランプの灯りを頼りに白い絹の端切れに細いリボンを刺すマリエットの姿が目に浮かぶようだった。


 選んでくれた青い色は、私の瞳の色だと自惚れてもいいのだろうか?


 息を詰めて一針一針小花を咲かせていく彼女の横顔を想い、つい口元が綻んでしまう。彼女のぬくもりが栞を通して伝わり、私の心をじんわりと満たしていく。


 栞をそっと机に置くと、そこに並んだ二通の手紙のうち、一通の封を切った。目を通した瞬間、私の心は冷え切り読み終えると同時にぐしゃりと握りしめていた。


 ホルト家に『マリエットの離縁は不当なものである。彼女はシュトロハイム家で保護している』旨を認めた書状を送っていた。


 その返事が届いたのだが――


『不貞を働き離縁された外聞の悪いマリエットは、我が家とは関係のない娘です。どうぞ侯爵様のお好きなようにお使いください。』


 マリエットを厄介払いしたい。私に恩を売りたいという打算が透けてみえる文言だった。


 遠縁とはいえ、謂れのない疑いをかけられたマリエットをあっさりと切り捨てたホルト家。本来守るべき子爵が、彼女を守ろうともしないことは到底、容認できるものではなかった。


 ……傷ついたマリエットを守れるのは、私しかいないのだ。


 握りしめた書面を机の端へと追いやり、残されたもう一通に視線を落とす。その封蝋に刻まれた紋章は、王弟殿下のものだった。


『……最近の若い連中は、貴族というものを勘違いしている節がある。品位の欠如は目に余る。是非とも、君の冷徹さで取り締まってほしい。一度、その鼻をへし折ってやってくれ。』


 同封された王弟主催の夜会の招待状をうんざりした思いで見やると、ひとつ深いため息が口をついた。


「しっかりと、わからせてやろうではないか」


 誰に聞かせるでもなく呟くと、絹の栞をもう一度手に取り慈しむように唇を寄せた。



 *



「……夜会、ですか?」


 私は、思わずディルク様を見上げた。


「ああ。王弟殿下主催の夜会に参加せねばならなくてな。だが、私にはパートナーと呼べる相手がいないんだ」


 仕事を終え、自室で繕い物をしていた私を訪ねてディルク様が来られた。


 そして、二人並んでクッションの海に少し離れて腰を下ろすと、ディルク様は私と共に夜会に出席したいという思いも寄らないような願いを口にしたのだった。


 穏やかさの奥に切実さを含んだ蒼い瞳。


「……私、傷物で穢らわしい女ですから。ディルク様の隣に立つなんて、きっと、貴方の評判を下げてしまいます……ですから、他の方を、もっと相応しい方を誘ってください」


 膝の上に置いた両手が震えそうになるのを、なんとか押さえ込む。


「……マリエット。君は、自分のことをそのように思っているのか」


 悲しげに目を伏せた彼が、躊躇いがちに口を開いた。


「――私の母は後妻だった。前妻の娘である私の姉を、家督争いの邪魔だと考えたんだろう。言葉巧みに騙して娼館へ売り飛ばしたんだ」


「そ、そんな……」


「まだ十にも満たなかった私は、何が起きたのかも知らずにいた。だが事実を知った後、母をこの手で告発し二度と日の当たらぬ場所へと送った。――そう、汚れているのは、姉を犠牲にしてこの地位にいる私の方だ」


「ディルク様は、何も悪くありません……!」


「君は、理不尽な暴力を受けた被害者だ。あの男がなんと言おうと、君は綺麗だ。私には、君の心もその姿も、美しい女性としか映っていないんだよ」


 溢れ出した涙を、ディルク様の細い指先が壊れ物に触れるかのように優しく拭う。


「……すまない。許可もなく触れて」


「い、いえ……ディルク様のことは、怖くありません」


 震える声で、やっとの思いで告げる。


 彼は一瞬、私の肩へと手を伸ばしかけた。けれども、すぐに思い留まるようにその指先を止めた。代わりに、膝の上で組んでいた私の両手を包み込んだ。


 私の両手を包む白く細い指。その手のひらは、驚くほど大きく温かかった。


「ありがとう、マリエット」


 ふわりと鼻をくすぐる、雨上がりの深い森を思わせる清々しい香り。確かな彼の体温とその香りが、私の凍てついた心をじわりと溶かしていく。


「……私を信じてついてきてくれるだろうか? 君をエスコートする役目を、私に与えてほしい」


 知らない男性たちがいる。そう想像するだけで足が震える。けれど、穢らわしいと棄てられた私を、こんなにも慈しんでくださるディルク様に報いたい。


 この温かなぬくもりがあれば、隣に彼がいてくれるのならば――。


 私は恐怖に打ち勝てる気がした。



「……はい。私でよろしければ、お側にいさせてください」


 私の答えを聞いたディルク様は低く、けれど揺るぎない声で囁いた。


「何があろうと、必ず君を守ると誓う」



 *



 ディルク様が馴染みの仕立て屋をお屋敷に呼び、私のために夜会のドレスを新調してくださることになった。


「……この屋敷でドレスを仕立てるのは、サマンサお嬢様以来だわ。腕が鳴るわね」


 白髪交じりの髪を上品に纏めたマダムは、にこりと笑顔を浮かべながら手際よく採寸を済ませる。


 サマンサ様? ディルク様のお姉様の名前かしら?




 それから数週間後。


 完成したドレスを手に再びマダムがお屋敷を訪れた。


 纏うのは、温かな輝きを放つ琥珀色のシルクドレス。裾から上へと夜を溶かしたような蒼。ところどころに縫い付けられたサファイアが煌めき、瞬く星空を思わせる。


 姿見に映る自分が、自分ではないみたいだった。


「さあ、胸を張って。今のあなたは、とっても輝いているわ。その美しさを夜会で存分に披露してらっしゃい」


「ありがとうございます」


 マダムは、鏡越しににこりと笑顔を浮かべる。そして、私の肩に優しく手を置いて部屋を立ち去った。


 入れ替わり入室してきたディルク様は、王立図書館館長の正装に身を包んでいた。


 立ち襟だけでなく袖口や胸元にまで銀糸の月桂樹が這う濃紺の上衣。その肩からは、同じく銀の縁取りがなされたマントが優雅に踊っている。


 凛々しく高潔な雰囲気を漂わせた彼は、私の姿を目に止めると動かなくなってしまった。


「……どうでしょうか?」


「……ああ。すまない。あまりの美しさに言葉を失ってしまったよ」


 美しさに言葉を失ったのは私の方です。


 言葉にならない想いを、私はそっと呑み込んだ。



 *



「あの女は俺を騙していたが、ケイティは正真正銘『純潔の証』があったのだ。それはそれは鮮やかな赤い証が」


 鼻を膨らませて豪語するヘンリー・フィッツ。彼の隣には再婚したばかりの妻ケイティが引きつった笑顔を浮かべて寄り添っている。


「あのマリエットが、ねえ」


「なるほど、騙されたから離縁したのか。それはそれは……」


「へえ、鮮やかな赤?」


 二人を囲うように三人の友人たちが下卑た笑みを浮かべ、ヘンリーの言葉に相槌を打ち先を促した。


 彼らの間では『乙女』を妻にすることは男としての誉れである。そして、初夜のシーツにその証があることを自慢するのは最高の嗜みとなっていた。


 ――だが、それはあくまでも酒の席での肴。悪趣味な冗談。いわゆる内輪の悪ふざけに過ぎない。そもそも、一昔前ならともかく、今や社交界において妻の純潔を尊ぶのは時代遅れの偏った価値観である。


 友人たちは適当に話を合わせてヘンリーを持ち上げ、彼の滑稽さを陰で笑い者にしているだけだったのだ。


 真実を知らないのはヘンリーただひとり。



 *



 開かれた扉の向こうは、まさに豪華絢爛と呼ぶに相応しかった。


 まばゆい世界から押し寄せる楽団の演奏と人々の喧騒。


「……大丈夫だ、マリエット。前を向いて」


 思わず息を呑んだ私の耳元でディルク様が穏やかに囁いた。緊張に震える指先を彼の腕にそっと重ね直す。


 ディルク様にエスコートされ、私たちは会場の緩やかな人波に身を任せた。交わされる挨拶。向けられる驚きと羨望の入り交じった眼差し。


「これは珍しい、シュトロハイム侯爵ではないか?」


「社交には興味がないと思っていたが……」


「隣の淑女はどなたかしら?」


 滅多に社交の場に現れないディルク様の姿に喧騒に包まれた会場は、ひときわざわめきを増した。


「純潔を偽った女がよくここに来れたな……!」


 背後から粘着質な声が聞こえ、思わず肩が跳ねた。ディルク様は、そんな私の手を強く握りしめてくださった。それだけで、私の心は強くなれる。


 背後から私たちの前へと回り込んだヘンリーの隣には、見知らぬ女性がぴたりと身を寄せている。


「俺の新しい妻だ。最愛のケイティは、『純潔の証』がはっきりとあったぞ。それは鮮やかな赤い証がな! 毎日眺めているが、美しい赤だ」


 ケイティと呼ばれた女性は、わずかに顔色が悪くなった。彼の友人たちは、何かを悟った表情で彼女に視線を送っている。


 シュトロハイム侯爵であるディルク様を前にして、あまりに無礼な彼の振る舞いに、私は呆然とするしかなかった。


 ――この人は、ほんとうに何も知らないのだわ。


 目の前に立つのは、王弟殿下からの信頼も厚い王立図書館館長であり、『冷徹な黒鉄(くろがね)』と恐れられている人物であると。


「――鮮やかな赤? 無知とは恐ろしいな。血液とは時が経てば変色するものだ。例えば、貴殿が元妻を力任せに殴った際に散った血が、時を経てどす黒くなっていくように」


 ディルク様の言葉に、周囲の喧騒が張り詰めた静寂へと変わる。


「は? う、うるさいぞ……! 純潔こそが女の価値だろう! 父上も言っていた。騙すほうが悪いのだ、俺は何も悪くないぞ!」


「どこまでも下劣な男だな。そもそも知らないのか? 王弟妃殿下も一度は他家に嫁ぎ、離縁を経験されたお方だと。王弟殿下が選んだ愛を否定するつもりか?」


 二つ名の通りの冷徹な声。


 数年前、この国を騒がせた王弟殿下の婚姻は、根強く蔓延る古い価値観を根底から打ち破るひとつの転換点となったのだ。


「おい、ヘンリー。おまえが自慢する証だが……偽物だぞ? ()()()の染料はいつまで経っても鮮やかな赤のままなんだ」


「……それに、その、証がない場合もあるんだよ」


 友人たちが遠慮がちに上げた声にヘンリーは、はっとした様子で寄り添う妻と私へと交互に視線を移した。


「染料? まさか。いや、待て。あの夜、ケイティとは違ってマリエットは緊張に震えて――」


 ボソボソと独り言のように呟いている。


「そうだ。体質によっては、貴殿が執着する『証』とやらがない女性もいる。そんな不確かなものを盾に、初夜に妻の純潔を疑い、暴力をふるい娼館に売り飛ばす。このような男が、一瞬でも彼女の夫だったと思うと、虫酸が走る」


 静寂が破られ、「娼館に売り飛ばした?」「なんて酷い」と、あちこちから小さな囁きが聞こえてくる。


「嘘だろ? 『純潔の証』がないから? そんな理由で暴力を?」


「そんな仲間内のちょっとした冗談を真に受けたのかよ?」


「思い込みの激しい奴だと思っていたけど、救いようがないな」


 一斉にヘンリーを非難する友人たち。信じていた足場が崩れ去った衝撃に、彼は立ち尽くすしかできない。


 おそらく彼は友人同士の軽口を本気にしてしまったのだろう。


 私は彼らの軽口の犠牲になったのね。なんの悪気もなく、自分たちの言葉がどれほど私を切り刻んだかすら気がついていない。


 心のどこかで、ずっと自分自身を責めていた。けれど、この瞬間はじめて怒りを覚えた。


 その時、私の肩に大きな手が置かれた。ディルク様の体温が震えそうな体を支えてくれる。


「怒っていいんだ、マリエット。その怒りは君が自分を大切に思い始めた証」


 耳元で低く響く声に、ずっと胸の奥に溜まっていた重い塊が消え去った。


 ヘンリーはぎこちなく腕を上げると、ぴたりと寄り添っていたケイティの肩を掴んで強引に揺さぶり、叫んだ。


「染料なんて嘘だよな? あれは正真正銘『純潔の証』だろう?」


「……もういいかげんにして! 使用済みのシーツを毎日眺めるとか、気持ちが悪いのよ! 女に純潔を求めるなら、男のあんたも純潔を守れっていうのよ!」


 ブンブンと体を揺さぶられながらケイティは嫌悪を爆発させた。


「なんだと? 男は経験を積んでこそなんだ!」


「は? 何が経験よ! 経験を積んだ結果がその程度? 笑わせないでちょうだい!」


 ケイティの容赦のない罵声に反論するヘンリーの怒鳴り声。


 夜会という高貴な社交の場で繰り広げられる、下品極まりない痴話喧嘩。周囲の貴族には顔をしかめる者、引きつった表情でハンカチで口元を隠す者が溢れていた。


 もはや単なる夫婦の修羅場で終わらないことに、ヘンリーはまだ気づいていない。


「盛り上がっているところ悪いが、フィッツ男爵令息。――貴殿はマリエットへの暴行及び人身売買で裁かれることになる」


 醜い言い争いを、会場中を凍てつかせるようなディルク様の声が切り裂いた。


「なんで俺が? 自分の妻をどうしようと勝手だろうが!」


「何か勘違いしているようだが、例え妻であっても、その尊厳を傷つける行為が正当化される道理はない。ましてや、本人の意思を無視して娼館へと売り払う行為は、我が国で禁止されている人身売買であろう?」


 穏やかな声色の中に覗く圧倒的な威圧感。


 貴族たちの憐れみと蔑みの混じった冷ややかな視線が、一斉にヘンリーへと向けられる。


 いつの間にか兵士がヘンリーを取り囲んでいた。


「館の主、サムが証人だ。」


「ふ、ふざけるなよ! 娼館の主ごときの言い分と貴族であるこの俺、どちらが――」


「黙れ。勘違いも甚だしい。そもそもサムの館……『闇夜の昴』は、娼館ではない。国に認められた自立支援所だ。マリエットのような行き場を失った女性たちの自立のためのな……!」


「……え?」


 思わず声が漏れた。ディルク様を見上げると、鋭い視線が私のものとぶつかりふわりと柔らいだ。


「サムから聞いていなかったのか?」


「はい。『闇夜の昴』という館の名だけしか……」


「まったくあの人は、昔から大事なことを話さない」


 そう、私も知らなかった。あの館が自立支援所だったなんて。


 あの時は、ヘンリーに『娼館だ』と言われていたし、サムさんに自立支援所だと聞かされていたとしても心に余裕がなくて覚えていないのかもしれない。


 思い返せば確かに酒場には男性客が集まっていたけれど、派手な化粧や衣装の女性はいなかった。二階の部屋へと男女が連れ添って消えていく姿も見ていない。


「う、嘘だ! 騙されるものか! 友人たちも言っていた、あそこは夜な夜な貴族の馬車が停まると。若い女が出入りしていると……『素晴らしい女性ばかりだった』と!」


 額に汗を浮かべたヘンリーは、必死になって声を荒らげた。


「……どこまでも救いようがない。馬車は支援を申し出る有力者たちのもの。女性たちは自立支援のための教育を受ける入所者だ。そして、『素晴らしい女性』とは、社会へと羽ばたいた彼女らの有能さを讃えたもの」


 ディルク様が、ヘンリーの勝手な妄想を粉々に打ち砕いていく。


「……くそっ。あの女、だからあの時、手切れ金だと思えと金貨を投げてきたのか。蔑んだ目で見やがって……売ったのではなく、俺が追い払われたのか?」


 小刻みに震え立っているのもやっとのヘンリー。


「噂を自分に都合よく繋ぎ合わせ、あろうことか妻を売り飛ばすに至るとは。呆れ果てる」


「あの方に逆らうとは、怖いもの知らずか、余程の阿呆か。まさかシュトロハイム侯爵の顔を知らないのか?」


「詳細は伏せられたままだが、実の母親を告発した上で情け容赦なく追放し、家督を奪い取った……あの『冷徹な黒鉄』だぞ」


 年長の貴族たちが小声で囁きあう声が、うっすらと届いた。


「あの夜、彼女を包んだどす黒く変色したシーツも、既に証拠として提出してある」


「そんな、馬鹿な……」


 ついにヘンリーは膝から崩れ落ちた。しかし、俯いた顔をガバッと上げると私に向かって両手を伸ばしてくる。


 庇うように私を抱き寄せるディルク様。


「あ、ああ、助けてくれ、マリエット」


 縋ろうとするその表情は青ざめ、今にも泣き出しそうだった。あの恐ろしい男と同一人物かと思うほどの変わりよう。


「ヘンリー様。貴方に棄てられたお陰で、私を心から愛してくださる方と出会えました。綺麗じゃない私でも、愛してくれる方と。――だから、ほんとうにありがとうございます」


「無知は罪だ。本を読んで学ぶといい、フィッツ男爵令息。――牢獄で読めるのならば、な」


 兵士たちがヘンリーの両腕を掴み、連行しようとする。その瞬間、彼は周囲を見渡しながら狂ったように声を上げた。


「そ、そんな、だって父上も母上も、俺が正しいって……悪いのはマリエットだって。俺は悪くない、悪くないんだ!」


 その場にいた貴族たちから一斉に冷ややかな失笑が漏れる。


「……親の言いなりかよ。自分の頭で考えたこともないのか?」


「情けない男だな。自らの罪を親のせいにするとは」


 引きずられ会場を出ていくヘンリーを嘲笑う友人たち。彼らに向けてディルク様が声をかけた。


「ルイス子爵令息、ベネット子爵令息、ブラン男爵令息。ひとりの淑女の人生が壊されようとしているのを、君たちはただ娯楽として消費した。その残酷さは罪深い。――『嫡男としての資質を疑う』と、君たちの家に伝えさせてもらう」


 格上の侯爵家からの進言が何を意味するのか。


 その意味を悟った彼らの顔から薄ら笑いが消え、青くなって立ち尽くす。




 いつの間にか会場から姿を消したケイティは、ヘンリーと離縁し『闇夜の昴』に入所したらしい。


 その後、私が侯爵夫人になるのでは? との噂を聞きつけた叔父がシュトロハイム家や私にすり寄ってきた。しかし、ディルク様が『冷徹な黒鉄』の本領を発揮し一蹴した。


 そしてヘンリーは、未開の森林地帯での開拓に従事するという、過酷な強制労働の刑を科された。


 彼の生家であるフィッツ男爵家は社交界から追放され、私への賠償金の支払いや膨れ上がった借金によって、屋敷も財産も差し押さえられたという。一家は逃げるように田舎の親類を頼ったが、そこで冷遇されていると風の噂で聞いた。



 *



 夜会から数日が過ぎた頃、シュトロハイム邸をサムさんが訪れた。


 ジャンさんはまだ王立図書館で勤務中のディルク様に報せに出ていき、ケリーさんはいつもの朗らかさに輪をかけて満面の笑顔でお茶を用意している。


 私たちは客間のテーブルに向かいあって腰かけていた。背筋をまっすぐ伸ばしたサムさんは、気品に溢れている。


「あの日と変わらない空気……懐かしいわ」


 彼女は感慨深げに客間の天井を見上げてから、目の前のティーカップに手を伸ばした。


「ケリーの淹れる紅茶も当時のまま。……ほんとうに美味しい」


 彼女の言葉に、ケリーさんは目尻を赤く染めながら深く一礼する。


「もったいないお言葉です……それでは、ごゆっくり」


 静かに告げたケリーさんがそっと客間の扉を閉めた。


「……あの、不躾だとは思いますが、サムさんはサマンサ様、なのでしょうか?」


 以前サムさんから聞いた過去。マダムの口から出た『サマンサお嬢様』という名。ディルク様のお姉様の話。そして、ケリーさんのあの表情。


 それらが私の頭の中でひとつの形を成していく。


 サムさんは、一瞬だけ目を見開いた。ディルク様によく似た深い海の蒼い瞳を。


「ふふふ。私のことは、あの子から聞いているのね?」


 サムさんの言葉に答えようとしたその時、客間の扉が勢いよく開かれた。


「……姉上! 来るなら来ると前もって知らせてくれればいいのに」


 少し息を切らしたディルク様。サムさんは楽しそうに笑って彼を手招きし、彼は私の隣に腰を下ろした。


「驚かせてすまない、マリエット。以前話したが、私の実の母が姉上を売ったんだ。だが、姉上は計画を逆手に取って隠し持っていた個人資産であの館を買い叩いたんだ……数年後、見つけ出したときには、『闇夜の昴』のサムと名乗っていたよ』


 ディルク様が苦笑い混じりに明かす。


「あのまま家にいたら、いつ毒を盛られるかわからなかったし、堅苦しい社交界にもうんざりしていたの。だから、あの義母の嘘を真実に変えた。サマンサ・シュトロハイムは行方不明となった、とね」


 サムさんは事も無げに言ってのけ、紅茶を一口啜った。


「たったおひとりで……」


 声が震える。


 なんて強い方なのだろう。私には、とても真似できない。


「姉上は昔から貴族らしくなかったけど、まったく、逞しいというか怖いもの知らずというか……」


 肩を竦めるディルク様。その声は姉への尊敬を隠すように、わざと呆れを滲ませていた。


「私はこの生き方、ちっとも後悔してない。だって、あなたみたいな子を救える場所を作れたんだから」


 サムさんは、不敵に笑うと満足そうに頷いてみせる。


「私を、助けてくださって感謝します。こうして、幸せに過ごせるのもサムさんがいたからです」


 お二人は、心の奥深くでかたい絆に結ばれているのだろう。例え堂々と名乗りあえなくても、姉弟だという事実は変わらない。


「マリエット、表情が明るくなってよかったわ。これからもちゃんと支えるのよ? ディルク」


「……もちろんだ」


 ディルク様の力強い返答に、サムさんは満足そうに目を細めた。


「ふふふ。私に妹ができる日も遠くなさそうかしら」


「え……っ」


 思いがけない言葉に、私の頬は一気に熱くなる。隣に座るディルク様もまた、気恥ずかしそうに視線を泳がせた。彼はサムさんの言葉を否定することなく私の手をそっと握りしめてくださった。


 そして、ディルク様はまっすぐサムさんを見据えて口を開いた。


「姉上。たまにはこうしてお茶を飲みに来てくれると嬉しい。私にとっては、たったひとりの家族なのだから」


「気が向いたら、美味しいお菓子でも持ってくるわ」


 サムさんは照れくさそうに笑って立ち上がると、私を見て優しく頷いた。


「……遅くなったが紹介させてくれ、マリエット。彼女が私の姉サマンサだ。」


「よろしく、マリエット。……この子をよろしく頼むわね」


「はい、お姉様」



 *



 毛足の長い茶色の絨毯。その上に重なりあう若葉色や淡い蜂蜜色の大小さまざまなクッションの海。


 ディルク様は、そのひとつに背中を預け、片膝を立てた姿勢で読書に耽っている。そのすぐ隣で私は横向きに寝そべり彼の横顔を眺めていた。


 文字を追う真剣な眼差し、頁を捲る細い指先。何時間でも見ていられると思う。


 ふいにディルク様が顔を上げ、蒼い瞳が私を捉える。


「私の顔に何か付いているかい?」


「い、いいえ。――こうしてディルク様の隣にいられることが、幸せだなと思いまして」


「そうか、私もだマリエット。このクッションも意外と寝心地がいいものだな」


 ディルク様が私の髪を愛おしそうに撫でる。そして、読みかけの本に私が贈った栞を挟みパタンと閉じた。


 一瞬の静寂。私は、彼の手のぬくもりを感じながら、そっと呟いた。


「……でも、ふたりで眠るには少し、狭いですね」


 ディルク様は本を横に置くと、私の手を取る。そのまま横抱きにされ体がふわりと宙に浮く。


「そうだな。では、あちらへ行こうか」


 背中に伝わるディルク様の体温。


 私は、彼の首にそっと腕を回し、そのまま真っ白なシーツの波へと身を預けた。



最後までお読みいただきありがとうございます。


クズ男を登場させたくて書き始めたら、思いのほか長くなりました。

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― 新着の感想 ―
とてもよかったです 暴行+人身売買ですよね
本当に膜があったらたぶん月のものは一体どうなるのかという話ですよね。元夫もそうですが、親やはやし立てて笑っていた友人もざまぁされたのがよかったです。
処女厨きもちわる。後妻にさえそう思われてるし。気持ち悪い思い込みで妻を追い出した夫をろくに調べもせず肯定した両親も一緒に平民落ちだから、親子仲悪く暮らしてそう。
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