ことほぎ町 裏通りにて
人生が変わるきっかけって、些細なことだっていうけれど。でも、こんなにもゴロゴロと転がって来るものではない、よね?
「閉まるドアにご注意ください」
アナウンスが聞こえた瞬間、弾けたように外に飛び出した。大きなスーツケースは引っかかることなく、するりと降りた後にドアがゆっくりと閉まっていく。
カタンカタンと音を立てながら小さくなっていく電車を見送ってから、あたりの景色を確認する。
本当に……ここどこ。行き先も見ずに乗った電車だから、自分がどこにいるのかなんて分からない。けれど次の電車を待つ気分にもならないから、そのまま改札を通り抜ける。
どこかから漂う匂いにつられて目線を向ければ、駅前に商店街があるのが見えた。知らないはずなのに懐かしい気持ちになったのは、あそこのざわめきが届いたからだろうか。
カラカラとスーツケースを引く音が、人のざわめきの中で響いている。周りに薄い壁が一枚あるような空気に引っ張られたのか、目の前の景色がじんわりと滲んでいく。
泣きたくないと思うのは、わたしのつまらないプライド。あんな男とわたしの人生を共にしなくて良かったし、手続きが終わる前だったから短時間で二度も書類を書かなくて良かったじゃない。
あれこれと理由をつけて、良かったのだと、そう思わないと涙があふれて止まらなくなりそうだから。
「お腹すいた~! 今日の夜ごはん、なに?」
「どうしようか。あそこでコロッケ買って帰る?」
「やった! 早く行こ!」
すれ違った親子の会話が耳に入った瞬間、ダメだった。耐えられていると思っていたものは、いとも簡単に崩れ去っていってしまう。
はたから見たら危ない人だろう。花束抱えてスーツケースを引きながら泣いてる大人の女なんて。視線は感じたけれど、声をかけてくるような特異な人はいなかった。
「どこか、人の少ないところ……」
結婚しよう。そう言われて退職をした。家の事を任せたい、自分が頑張って稼ぐから、と笑顔の彼に頷いたのは確かにわたしだ。
まさか退職して同棲を始めるその日に、浮気相手を家に連れ込んでいるなんて、想像できただろうか。この場合は、わたしが浮気相手になるのかも、なんて考えが一瞬よぎったのは、ただの現実逃避。
荷ほどきをしていなかったスーツケースを引っ掴んで、彼にさよならとだけ吐き捨てた。
「なんでっ! 幸せにするなんて、言えたのよ……!」
ぼろぼろと溢れ出したものは、止まることを忘れたようにどんどんと出てくる。涙も、文句も思い出も。
涙は拭いながら、人の少ないほうを目指して足を進めていく。人のざわめきがどんどんと小さくなっていく道は、大通りから逸れているみたいだ。おかげで、拭えないほどに涙を流す顔を見られずに済んだ。
「おや、お客さんなんて珍しい」
わずかな足音と共に姿を見せたのは、線の細い男性。泣いて疲れたのと、足の痛みから立ち止まっていたところは、どうやらお店の入り口だったみたいだ。申し訳ないけれど、気付かなかった。
「ようこそ。ここはまあ、見ての通りのお店だよ」
泣いて赤く腫れた目も、買い物に来るには似つかわしくない荷物も見えているはずなのに、それには触れることなくお店の入り口を開いてくれた男性。ドアの隙間から見えるのは、可愛らしい雑貨。
あ、余計なことをまた一つ思い出してしまった。買い物しているときに可愛い雑貨を見ていたら、わたしの雰囲気には合わないよと小さく笑って足早に通り過ぎようとした彼。あ、もう元カレか。
イラっとした記憶を上書きしたい。もう夜といっても差し支えない時間だけど、お店の人が招いてくれたのだったら、きっとまだ営業時間なのだろう。
「……少し、見て回ってもいいですか」
「もちろん、ごゆっくり」
にこりと笑って静かにドアを開いてくれた男性は、花束とスーツケースを預かるようにそっと手を伸ばしてくれる。小さく、通路は狭いからねなんて言う姿に、厭らしさは全くない。元カレと比べてしまうのも申し訳なくなるくらい、好印象。
ごゆっくり、という言葉も本心なんだろうと思えるくらい、行動がスマートだ。わたしが彼の事を気にしなくてもいいように、お店の奥へと姿を消した。
「かわいい……」
こじんまりとしたお店。けれど、あの男性のこだわりが詰まっているのは、物の配置だけでなく内装などを見ても良く分かる。これほどのお店だったら、ネットで話題になっていてもおかしくなさそうなのに。というか、知っていたら絶対見に来ている。すごく、わたしの好み。
窓際にあるオブジェ、鉢植えに置いたらすごくかわいくなりそう。レースのランチマットを敷いたブランチは、ゆとりある生活のイメージそのもの。そうしたらカトラリーだって装飾のついたもので揃えたい。
少しだけ持っていた雑貨は、あの家に置いてきてしまった。取りに戻るという思いがよぎるくらいには気に入っていた。けれど、今は手元にあっても、きっとあの光景を思い出してしまう。どうせこれから新居を探さないといけないから、いっそのことスーツケースの荷物以外は全部、新しくしてしまうのもありかもしれない。
親切にしてくれた男性もいることだし、このお店でひとまずの日用品を買ってしまおう。
「やっちゃった。外真っ暗じゃない……!」
この町に着いた時点で夕方、そしてお店のドアを開いてくれたのは夜といえる時間。広くないお店だけど、使い方とか飾る場所とかまで考えながら見ていたから、自分で思っていた以上に滞在してしまったみたいだ。
呆然としたわたしの声が聞こえたのか、ここまでずっと奥にこもったままだった彼がひょっこりと顔を出した。そうして窓を見てからわたしの顔を見る。それだけですべてを理解したみたいに、にこりと笑った。
笑うと目尻に皺が出来るタイプか、ふわっとした雰囲気とよく合うなあ。なんて、そんなことを考えている場合ではないのに。
「よかったら、泊まっていくかい?」
「え、えっと……あの、さすがにそれは、申し訳ないというか。自分でホテルを探しますよ」
「見て分かったと思うけど、この町は小さいからね。ホテルは町はずれまで行かないとないんだ。今からこの荷物を持って行くのは、おススメしないかなあ」
「タクシーも、ないんですね。町はずれって歩いていける距離でも……ないんですか」
会社があるオフィス街だったらこの時間でも明るいし、歩くのに苦労はしない。けれどここは駅前に商店街があったくらいで、お店までの道には他のお店は少なかった。ここだってやっているとは思わなかったし。思い出してみれば、確かにホテルっぽい建物はなかった。今どきはパッと見でそう見えないホテルとか増えたから、ちゃんとに調べないと分からないけれど、地元の人がないと言うのだから、ないのだろう。
それならバスとかタクシーという手段だってあるのに、タクシーと口にしただけで彼は緩く首を振った。わたしの田舎もそうだったな。駅前にタクシープールはあるのに、ある程度の時間になると車がいなくなる。呼べば来るんだけど、その時間で歩いてしまった方が早いのではと思うくらい。
「あ、僕の事なら気にしないで。もちろん鍵のついてる客間を貸すからさ」
「あの、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
にこにこにこ。ずっと笑顔の彼は間違いなく善意で言い出してくれている。土地勘もない、調べたところでスーツケースのガラガラ音を響かせて町を歩くのに、申し訳ないという気持ちもある。
というか、お店の軒先を借りていたのは足の疲れを少しでも取ろうと思っての休憩だった。雑貨にテンション上がって忘れていたけど、思い出したかのように足は痛みを訴えだす。
ぺこり、と頭を下げれば彼の笑みが少しだけ深くなった。
「それじゃあ案内するよ」
スーツケースを軽々と持ち上げた彼は、そのまま店の奥へ向かう。さっきと同じだなと思ったけれど、さっきと違うのはわたしはその背中を追いかけているというところだ。
お店の内装と違って、奥は和風に近い。しばらく嗅いだことなかったのに、畳の香りが届いた瞬間に、緊張が少しずつほぐれていく。最初に客間に通されてから、必要な物だけ出してとスーツケースを広げられるようにしてくれた。アパートを解約するときに最後まで必要だった物を詰め込んだスーツケースだったから、洗面用の道具が入っていて良かった。
「お腹も空いてるだろう? 食べたくなくても、少しだけは入れたほうがいい」
「え、あの……」
「僕も食べるんだ。せっかくだから、一緒にどうかな?」
お風呂ももらって、これ以上は申し訳ないからと断ろうとしたのに、彼はわたしが断ると分かっているのかなんとも断りづらい理由を挙げてきた。
会社を出る前に、引き出しに残っていたお菓子を少し食べた程度でここまで来た。いろいろあってお腹空いたとは思わなかったのに、意識したとたんにクルクルと小さな音を立てる。現金な自分の体に恥ずかしくなって俯いてしまう。けれど、彼はそんな姿を見ても笑顔を崩さなかった。それどころか、なんだか嬉しそうに笑っているように見える。
「何から何までありがとうございます。本当に、ありがとう」
ここまで来たら、恥はかき捨てる。どうとでもなれという気持ちがなかったとは言えない。
明らかな訳アリなのに、何も言わずに親切にしてくれた彼へわたしの事情を伝えることはしないつもりだ。たぶん、彼は事情を聞いたら優しくしてくれるけれど、わたしは同情が欲しいのではない。というか、正直言って初対面で聞くには重いだろう。
ここまでしてもらって何を言っているのかと自分でも笑ってしまう。あたたかいお風呂に食事、そうしてごゆっくりどうぞと案内された客間。まさか衝動的に乗った電車の先で、こんなにも素敵な出会いがあるなんて思いもしなかった。
捨てる神あれば拾う神ありというのは本当だったんだ、そう思いながらふかふかのお布団に身を預ける。
退職の準備に引っ越し、それから新居の準備に追われてしばらく十分な睡眠を取れていなかったな。いつもだったらあれこれと次の日の段取りを考えていたのに、今日ばかりはそんなもの浮かんですら来なかった。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「はい。ここしばらくゆっくり眠れてなかったのが嘘みたいです」
結論から言おう。がっつり、寝てしまった。知り合って数時間の異性とひとつ屋根の下だったにもかかわらず、だ。
おはようの挨拶をするには少しどころか、かなり遅い時間に起きたわたしは、もしかして相当図太いのではないだろうか。考えたこともなかったけれど、こんなタイミングで知るなんて。
「それはよかった。で、君さえよければなんだけど」
もう遠慮も何もなく共にした食卓、食後のお茶を飲んでいるときに彼がおもむろに切り出した。
さっきまでと少し違う雰囲気に、わたしも姿勢を正す。お金と言われたらもちろん払いますとも。ここまで良くしてもらったのだから。
「ここで働くつもりはない?」
「っ!?」
予想外の方向の問いかけに、飲んでたお茶が喉でぐっと音を立てた。吹き出さなかっただけ、褒めて欲しい。咳き込むわたしが落ち着くまで、彼は静かにお茶を飲みながら待っていてくれた。
そもそも、その目の前の彼の爆弾発言がなければ咳き込むこともなかったんですが。そんな文句とも取れる考えは、お茶と一緒に飲み込んだ。
「だって、君は仕事場を辞めてきたんだろう? これからの生計を立てるのに十分なお給料は出せるつもりだよ」
「はい!? あ、今のは肯定じゃなくて……!」
「どうして分かったのか、だって? ふふ、どうしてだろうねえ。
今、君が気にしなきゃいけなのは、僕への返事だよ。まあ、はい、かイエスしか受け取らないからね」
にこにこにこ。昨日からずっと見せている笑顔に、どこか冷たいものを感じる。
どうして話してもいない退職してきたことを知っているのだろうとか、それ以上の事を理解しているような素振りまで見せるのか、とか。疑問が浮かばないわけじゃない。なのに、拒否しようという気持ちにはならないのが、きっと答えなのだろう。
きっと彼の事を信じてしまったのだ。この短い時間で、わたしのひび割れたような心にするりと入り込んできた笑顔の彼の事を。
「そうそう。言い忘れていたね。僕は綿貫。綿貫悠一だよ。よろしくね」
「南雲結衣と申します。……これから、よろしくお願いします」
不思議な感覚だけど、この答えを即決できた自分がとても誇らしく思えた。
……これから、それ以上の不思議を体験する日々が待っているだなんて、今のわたしは知る術もなかった。
お読みいただき、ありがとうございました!




