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3つの願いを叶えた代償の行方

作者: 江合 花果
掲載日:2026/03/20

 路地裏に、トラックが来た。


 物理的に不可能な路地裏に。


 幅八十センチの、猫しか通れない路地裏に。


 どこからどう見ても通れない場所を、白いトラックが轟音を立てて突進してきた。


 悪魔のヴァルは反射的に壁に張り付いた。


 契約相手の田中ケンジが吹っ飛んだ。


 光が走った。


 トラックも、ケンジも、消えた。


 路地裏に静寂が戻った。


 虫の声。


 どこかで猫が鳴いた。


 ヴァルは壁から離れた。


 空の回収袋を見た。


「…………どこから来たんだあのトラック」


 誰も答えなかった。


     ◇


 田中ケンジという男の三つの願いを、ヴァルは全部叶えた。


 一、元カノを不幸にしてざまぁしたい。


 叶えた。翌月、元カノの職場不倫が全社に暴露されて修羅場になった。


 二、一生働きたくないでござる。


 叶えた。口座に使い切れない額を用意した。


 三、二次元から彼女を連れ出してほしい。


 叶えた。五日かかった。ヴァルの今年の残業時間の大半はこれで消えた。


 三つ全部叶えた。完璧に叶えた。


 そして魂を回収しようとした瞬間に、どこから来たか分からないトラックに全部持っていかれた。


 ヴァルはネクタイを直した。


(女神だ)

(あの気まぐれ女神がまた横から手を突っ込んできた)


 クレームを入れに行く。


     ◇


 天界役所生活科の受付カウンター。


 天使のリリスは今日も笑顔で座っていた。


 白い翼、金の髪、完璧な微笑み。


 笑顔の下で何かが煮えていた。


 今日の受付件数、午前だけで二十四件。

 うち二十件が女神様案件。

 うち十五件がトラック転生の後処理。


 リリスは今朝、出勤してから一度も本当の笑顔を作っていなかった。


「次の方どうぞ」


 黒いスーツの男が入ってきた。


(悪魔だ。オーラで分かる。また女神様案件だ)


「ようこそ天界役所生活科へ」リリスは微笑んだ。「本日はどのようなご用件でしょうか」


「クレームだ」とヴァルは言った。「今夜、正規契約で魂を回収しようとしたら、トラックで持っていかれた」


「まあ」リリスは微笑んだ。「それはそれは、大変でございましたね」


「大変だった」


「心よりお見舞い申し上げます」


「見舞いより対応が必要だ」


「おっしゃる通りでございますね」リリスは微笑んだ。「ただ本日の件は女神様の管轄となりますので、対応には少々——」


「時間がかかると言うつもりか」


「手続き上、いくつか——」


「一つ聞いていいか」ヴァルは遮った。「今日、俺の前に何人来た」


 リリスの笑顔が、一瞬だけ止まった。


「……整理券の番号が二十五番だな。俺が二十五番を取った」ヴァルは続けた。「窓口に貼り出してある本日の女神様案件件数は二十件。つまり今日ここに来た客のほとんどが俺と同じ目に遭っている」


「…………」


「毎日これか」


「……否定はいたしません」


「ならお前も分かっているだろう。手続きでどうにかなる話じゃないと」


 リリスは一瞬、笑顔の下で何かが動いた。


「……おっしゃる通りでございます」と言った。声が、少しだけ平坦だった。


「魂を返せ」


「田中ケンジ様の魂でございますね。現在異世界に転生されておりまして、返還には審査が——」


「審査で六ヶ月と言うつもりだろう」


「よくご存知で」


「そういうシステムだと地獄でも知られている。で、その六ヶ月の間に女神様がまた何件横取りするか、お前も知っているな」


 リリスが書類を持つ手を、止めた。


「……知っております」


「知っていて笑顔で六ヶ月と言えるのか」


「……笑顔で対応するよう指導されておりますので」


「指導した奴の顔が見たい」


「……私もそう思うことが、たまにございます」リリスは微笑んだ。「たまに」


「今、たまにと言ったな」


「言いました」


「本当にたまにか」


「……頻度については回答を控えさせていただきます」


 ヴァルが少し笑った。


「正直な天使だ」


「正直ではございません」リリスは微笑んだ。「笑顔でございます」


「その笑顔、目が死んでいるぞ」


「生きております」


「死んでいる」


「生きて——」リリスは一瞬止まった。「……生きております」


「今、諦めかけたな」


「諦めておりません」


「諦めかけたと言っている」


「……諦めておりません!」


 声が出た。


 後輩天使たちが全員こちらを見た。


 リリスは咳払いをした。


「……失礼いたしました」


「二十四件処理してこれだけ保っているなら、大したものだ」とヴァルは言った。


「……褒めていますか」


「褒めている」


「悪魔に褒められる日が来るとは思っていませんでした」


「光栄に思え」


「……思っておりません」リリスは微笑んだ。「全く」


「正直だな」


「笑顔でございます」


 ヴァルが腕を組んだ。


「女神様に直接言いに行く。俺が。場所を教えろ」


 リリスが固まった。


「……悪魔が、女神様に直接」


「文句があるなら直接言うのが筋だろう。それとも前例がないか」


「……ございません」


「では俺が初めてだ。一緒に来い」


「私が」


「お前も言いたいことがあるだろう。毎日二十件以上処理して、申請書を送り続けて、笑顔を貼り付けて声が出ないようにしている。違うか」


 リリスは少し黙った。


「……よく分かりましたね」


「お前が全部顔に出していた」


「……出しておりません」


「出ていた。笑顔の裏側が、全部」


 リリスは書類を見た。


 今日だけで二十四件。

 午後も来る。

 明日も来る。

 明後日も来る。


 リリスは立ち上がった。


「……少々お待ちください」


 後輩天使を呼んで受付を頼み、カウンターから出た。


「ご案内いたします。ただし」


「なんだ」


「女神様に申し上げたいことは、きちんとございますか」


「三点ある」


「私は二十四点ございます」リリスは微笑んだ。「合計二十七点。よろしいでしょうか」


「多いな」


「集約しました。元は百三十二点でした」


「……相当溜まっているな」


「笑顔で対応するよう指導されておりますので」


「指導した奴を——」


「呪わないでください」


「まだ何も言っていないが」


「言おうとしていたでしょう」


「…………まあそうだが」


 二人は廊下を歩き始めた。


     ◇


 女神様の執務室の扉の前。


 ヴァルとリリスが並んで立った。


「入るぞ」とヴァルは言った。


「お供いたします」とリリスは言った。


 二人は扉を開けた。


     ◇


 女神様は水晶玉を覗いていた。


 金の髪、柔らかな笑顔、全てを包む光。


「あら」と女神様は言った。「リリスちゃんと——悪魔くん? 珍しい組み合わせ。どうしたの」


「申し上げたいことがございます」とリリスは言った。


「言いに来た」とヴァルは言った。


「まあ二人揃って。なあに?」


 ヴァルが一歩前に出た。


「今夜の件からだ。俺の正規契約を妨害した理由は」


「ケンジくん、もっと幸せになれると思って」


「契約を確認したか」


「してないけど」


「なぜ」


「なんとなく」


 ヴァルが深呼吸した。


「なんとなくで他人の正規契約に介入した。それが今夜だけで何件あるか分かるか」


「…………」


「二十件だ。今日一日で」


 女神様が少し黙った。


「次」とヴァルは言った。「リリス」


「はい」リリスは前に出た。微笑んでいた。「本日の女神様案件、二十四件でございます」


「まあ、そんなに」


「今日だけでございます。今月は四百十七件でございます」リリスは微笑んだ。「私の今月の残業時間は、三百四十二時間でございます」


「……それは」


「月の総時間は七百二十時間でございます。ご参考までに」リリスは微笑んだ。「笑顔で対応するよう指導されておりますので、今もこうして笑顔でお伝えしております」


 女神様が少し縮んだ。


「ごめんなさい」


「謝罪は結構でございます」リリスは言った。声から笑顔成分が、静かに抜けた。「三ヶ月前から改善の申請書をお送りしております。週に三回、ご返答をお待ちしております。今もお待ちしております」


「……読んでなかった」


「存じております」


「ごめんなさい」


「ですから謝罪は——」


「ごめんなさい」


 リリスが少し止まった。


「……受け取りました」と小さく言った。


 ヴァルが水晶玉を見た。


「その水晶玉、今日一日預けろ」


「……え?」


「次の転生対象を探しているんだろう。今日一日だけでいい。预けろ。お前が一人転生させるたびに、俺のような被害が出て、リリスのような後処理が発生する。今日一日、止まれ」


 女神様が水晶玉から手を離した。


 ゆっくりと、ヴァルの方へ押した。


「……一日だけ。約束する」


「ケンジの件は」ヴァルは続けた。「今日一日で条件を整理する。明日、正式に交渉する。お前が直接俺と話し合え。リリスを経由するな。これ以上こいつの仕事を増やすな」


 女神様がリリスを見た。


 リリスが女神様を見た。


「……分かった」と女神様は言った。「明日、直接話す」


「よし」ヴァルは水晶玉を受け取った。「リリス、今日の午後は休め」


「……え」


「残業三百四十二時間だろう。今日の午後くらい休め。水晶玉の監視役が要る。お前が適任だ」


「……それは屁理屈では」


「俺は悪魔だ。屁理屈が得意だ」


「…………」


「来るか来ないか」


 リリスは女神様を見た。女神様が申し訳なさそうな顔をしていた。

 ヴァルを見た。悪魔が普通の顔をしていた。


「……お供いたします」


     ◇


 天界の外れのベンチ。


 ヴァルとリリスが並んで座っていた。


 水晶玉がヴァルの膝の上にある。


 しばらく、二人とも黙っていた。


「……空が明るいですね」とリリスは言った。


「天界だからな」とヴァルは言った。


「地獄は暗いんですか」


「暗い。だが静かだ」


「静かなのは良いですね」


「ああ」


 また沈黙。


「……ヴァル様」


「なんだ」


「ケンジの件、明日ちゃんと解決しますか」


「する」ヴァルは言った。「女神様が直接出てくるなら話は早い。魂の返還ではなく、別の形での補償で決着をつける。六ヶ月待つつもりはない」


「別の形というのは」


「ケンジは今頃、異世界で二次元の彼女と楽しくやっているだろう。だったら魂ごとそっちに置いといてもいい。その代わり、俺への補償を別途いただく」


「……地獄的な解決策ですね」


「俺は悪魔だ」


「そうですね」リリスは言った。「でも、筋は通っています」


「当然だ。契約が仕事だから」


 リリスは少し空を見た。


「……今日は、ありがとうございました」


「礼はいらない。ついでだと言った」


「ついでにしては、やりすぎでは」


「……余計なお世話だったか」


「いいえ」


 リリスは言った。


 それから、笑った。


 今日初めての、本物の笑顔だった。


 ヴァルが少し、視線を逸らした。


「……なんだ」


「なんでもございません」リリスは言った。「少し、ほっとしました」


「そうか」


「ええ」


 水晶玉が、膝の上で静かに光った。


 ヴァルはそれを見ながら、ぼそりと言った。


「……笑顔は、そっちの方がいい」


 リリスが「え」という顔をした。


「作った方じゃなく」ヴァルは続けた。目は水晶玉を見たまま。「さっきの方が」


「……悪魔が何を言っているんですか」


「事実を言っている」


「……ヴァル様」


「なんだ」


「顔が、少し赤いです」


「地獄の気候の名残だ」


「地獄は暑いんですか」


「暑い」


「今は天界ですよ」


「……うるさい」


 リリスがまた笑った。


 今度も、本物だった。


 ヴァルはしっかりと、別の方向を向いていた。


     ◇


 翌朝、女神様の執務室に届いたのは、三ヶ月分の申請書の返答だった。


 差出人:女神

 件名:遅くなってごめんなさい。全部読みました。


 リリスは封筒を持ったまま、しばらく動かなかった。


 それからそっと開けた。


 読んだ。


 読みながら、目が細くなった。


 最後まで読んで、リリスは言った。


「……三ヶ月と一日」


 返事が来るまでの日数だった。


 リリスはその手紙を、今度はちゃんとファイルに挟んだ。


 それから窓の外を見た。


 天界の空は今日も明るかった。


 地獄の方角を少しだけ見て、リリスは自分の席に戻った。


 口元に、小さな笑顔があった。


 今日は、本物から始まった。

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