3つの願いを叶えた代償の行方
路地裏に、トラックが来た。
物理的に不可能な路地裏に。
幅八十センチの、猫しか通れない路地裏に。
どこからどう見ても通れない場所を、白いトラックが轟音を立てて突進してきた。
悪魔のヴァルは反射的に壁に張り付いた。
契約相手の田中ケンジが吹っ飛んだ。
光が走った。
トラックも、ケンジも、消えた。
路地裏に静寂が戻った。
虫の声。
どこかで猫が鳴いた。
ヴァルは壁から離れた。
空の回収袋を見た。
「…………どこから来たんだあのトラック」
誰も答えなかった。
◇
田中ケンジという男の三つの願いを、ヴァルは全部叶えた。
一、元カノを不幸にしてざまぁしたい。
叶えた。翌月、元カノの職場不倫が全社に暴露されて修羅場になった。
二、一生働きたくないでござる。
叶えた。口座に使い切れない額を用意した。
三、二次元から彼女を連れ出してほしい。
叶えた。五日かかった。ヴァルの今年の残業時間の大半はこれで消えた。
三つ全部叶えた。完璧に叶えた。
そして魂を回収しようとした瞬間に、どこから来たか分からないトラックに全部持っていかれた。
ヴァルはネクタイを直した。
(女神だ)
(あの気まぐれ女神がまた横から手を突っ込んできた)
クレームを入れに行く。
◇
天界役所生活科の受付カウンター。
天使のリリスは今日も笑顔で座っていた。
白い翼、金の髪、完璧な微笑み。
笑顔の下で何かが煮えていた。
今日の受付件数、午前だけで二十四件。
うち二十件が女神様案件。
うち十五件がトラック転生の後処理。
リリスは今朝、出勤してから一度も本当の笑顔を作っていなかった。
「次の方どうぞ」
黒いスーツの男が入ってきた。
(悪魔だ。オーラで分かる。また女神様案件だ)
「ようこそ天界役所生活科へ」リリスは微笑んだ。「本日はどのようなご用件でしょうか」
「クレームだ」とヴァルは言った。「今夜、正規契約で魂を回収しようとしたら、トラックで持っていかれた」
「まあ」リリスは微笑んだ。「それはそれは、大変でございましたね」
「大変だった」
「心よりお見舞い申し上げます」
「見舞いより対応が必要だ」
「おっしゃる通りでございますね」リリスは微笑んだ。「ただ本日の件は女神様の管轄となりますので、対応には少々——」
「時間がかかると言うつもりか」
「手続き上、いくつか——」
「一つ聞いていいか」ヴァルは遮った。「今日、俺の前に何人来た」
リリスの笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……整理券の番号が二十五番だな。俺が二十五番を取った」ヴァルは続けた。「窓口に貼り出してある本日の女神様案件件数は二十件。つまり今日ここに来た客のほとんどが俺と同じ目に遭っている」
「…………」
「毎日これか」
「……否定はいたしません」
「ならお前も分かっているだろう。手続きでどうにかなる話じゃないと」
リリスは一瞬、笑顔の下で何かが動いた。
「……おっしゃる通りでございます」と言った。声が、少しだけ平坦だった。
「魂を返せ」
「田中ケンジ様の魂でございますね。現在異世界に転生されておりまして、返還には審査が——」
「審査で六ヶ月と言うつもりだろう」
「よくご存知で」
「そういうシステムだと地獄でも知られている。で、その六ヶ月の間に女神様がまた何件横取りするか、お前も知っているな」
リリスが書類を持つ手を、止めた。
「……知っております」
「知っていて笑顔で六ヶ月と言えるのか」
「……笑顔で対応するよう指導されておりますので」
「指導した奴の顔が見たい」
「……私もそう思うことが、たまにございます」リリスは微笑んだ。「たまに」
「今、たまにと言ったな」
「言いました」
「本当にたまにか」
「……頻度については回答を控えさせていただきます」
ヴァルが少し笑った。
「正直な天使だ」
「正直ではございません」リリスは微笑んだ。「笑顔でございます」
「その笑顔、目が死んでいるぞ」
「生きております」
「死んでいる」
「生きて——」リリスは一瞬止まった。「……生きております」
「今、諦めかけたな」
「諦めておりません」
「諦めかけたと言っている」
「……諦めておりません!」
声が出た。
後輩天使たちが全員こちらを見た。
リリスは咳払いをした。
「……失礼いたしました」
「二十四件処理してこれだけ保っているなら、大したものだ」とヴァルは言った。
「……褒めていますか」
「褒めている」
「悪魔に褒められる日が来るとは思っていませんでした」
「光栄に思え」
「……思っておりません」リリスは微笑んだ。「全く」
「正直だな」
「笑顔でございます」
ヴァルが腕を組んだ。
「女神様に直接言いに行く。俺が。場所を教えろ」
リリスが固まった。
「……悪魔が、女神様に直接」
「文句があるなら直接言うのが筋だろう。それとも前例がないか」
「……ございません」
「では俺が初めてだ。一緒に来い」
「私が」
「お前も言いたいことがあるだろう。毎日二十件以上処理して、申請書を送り続けて、笑顔を貼り付けて声が出ないようにしている。違うか」
リリスは少し黙った。
「……よく分かりましたね」
「お前が全部顔に出していた」
「……出しておりません」
「出ていた。笑顔の裏側が、全部」
リリスは書類を見た。
今日だけで二十四件。
午後も来る。
明日も来る。
明後日も来る。
リリスは立ち上がった。
「……少々お待ちください」
後輩天使を呼んで受付を頼み、カウンターから出た。
「ご案内いたします。ただし」
「なんだ」
「女神様に申し上げたいことは、きちんとございますか」
「三点ある」
「私は二十四点ございます」リリスは微笑んだ。「合計二十七点。よろしいでしょうか」
「多いな」
「集約しました。元は百三十二点でした」
「……相当溜まっているな」
「笑顔で対応するよう指導されておりますので」
「指導した奴を——」
「呪わないでください」
「まだ何も言っていないが」
「言おうとしていたでしょう」
「…………まあそうだが」
二人は廊下を歩き始めた。
◇
女神様の執務室の扉の前。
ヴァルとリリスが並んで立った。
「入るぞ」とヴァルは言った。
「お供いたします」とリリスは言った。
二人は扉を開けた。
◇
女神様は水晶玉を覗いていた。
金の髪、柔らかな笑顔、全てを包む光。
「あら」と女神様は言った。「リリスちゃんと——悪魔くん? 珍しい組み合わせ。どうしたの」
「申し上げたいことがございます」とリリスは言った。
「言いに来た」とヴァルは言った。
「まあ二人揃って。なあに?」
ヴァルが一歩前に出た。
「今夜の件からだ。俺の正規契約を妨害した理由は」
「ケンジくん、もっと幸せになれると思って」
「契約を確認したか」
「してないけど」
「なぜ」
「なんとなく」
ヴァルが深呼吸した。
「なんとなくで他人の正規契約に介入した。それが今夜だけで何件あるか分かるか」
「…………」
「二十件だ。今日一日で」
女神様が少し黙った。
「次」とヴァルは言った。「リリス」
「はい」リリスは前に出た。微笑んでいた。「本日の女神様案件、二十四件でございます」
「まあ、そんなに」
「今日だけでございます。今月は四百十七件でございます」リリスは微笑んだ。「私の今月の残業時間は、三百四十二時間でございます」
「……それは」
「月の総時間は七百二十時間でございます。ご参考までに」リリスは微笑んだ。「笑顔で対応するよう指導されておりますので、今もこうして笑顔でお伝えしております」
女神様が少し縮んだ。
「ごめんなさい」
「謝罪は結構でございます」リリスは言った。声から笑顔成分が、静かに抜けた。「三ヶ月前から改善の申請書をお送りしております。週に三回、ご返答をお待ちしております。今もお待ちしております」
「……読んでなかった」
「存じております」
「ごめんなさい」
「ですから謝罪は——」
「ごめんなさい」
リリスが少し止まった。
「……受け取りました」と小さく言った。
ヴァルが水晶玉を見た。
「その水晶玉、今日一日預けろ」
「……え?」
「次の転生対象を探しているんだろう。今日一日だけでいい。预けろ。お前が一人転生させるたびに、俺のような被害が出て、リリスのような後処理が発生する。今日一日、止まれ」
女神様が水晶玉から手を離した。
ゆっくりと、ヴァルの方へ押した。
「……一日だけ。約束する」
「ケンジの件は」ヴァルは続けた。「今日一日で条件を整理する。明日、正式に交渉する。お前が直接俺と話し合え。リリスを経由するな。これ以上こいつの仕事を増やすな」
女神様がリリスを見た。
リリスが女神様を見た。
「……分かった」と女神様は言った。「明日、直接話す」
「よし」ヴァルは水晶玉を受け取った。「リリス、今日の午後は休め」
「……え」
「残業三百四十二時間だろう。今日の午後くらい休め。水晶玉の監視役が要る。お前が適任だ」
「……それは屁理屈では」
「俺は悪魔だ。屁理屈が得意だ」
「…………」
「来るか来ないか」
リリスは女神様を見た。女神様が申し訳なさそうな顔をしていた。
ヴァルを見た。悪魔が普通の顔をしていた。
「……お供いたします」
◇
天界の外れのベンチ。
ヴァルとリリスが並んで座っていた。
水晶玉がヴァルの膝の上にある。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……空が明るいですね」とリリスは言った。
「天界だからな」とヴァルは言った。
「地獄は暗いんですか」
「暗い。だが静かだ」
「静かなのは良いですね」
「ああ」
また沈黙。
「……ヴァル様」
「なんだ」
「ケンジの件、明日ちゃんと解決しますか」
「する」ヴァルは言った。「女神様が直接出てくるなら話は早い。魂の返還ではなく、別の形での補償で決着をつける。六ヶ月待つつもりはない」
「別の形というのは」
「ケンジは今頃、異世界で二次元の彼女と楽しくやっているだろう。だったら魂ごとそっちに置いといてもいい。その代わり、俺への補償を別途いただく」
「……地獄的な解決策ですね」
「俺は悪魔だ」
「そうですね」リリスは言った。「でも、筋は通っています」
「当然だ。契約が仕事だから」
リリスは少し空を見た。
「……今日は、ありがとうございました」
「礼はいらない。ついでだと言った」
「ついでにしては、やりすぎでは」
「……余計なお世話だったか」
「いいえ」
リリスは言った。
それから、笑った。
今日初めての、本物の笑顔だった。
ヴァルが少し、視線を逸らした。
「……なんだ」
「なんでもございません」リリスは言った。「少し、ほっとしました」
「そうか」
「ええ」
水晶玉が、膝の上で静かに光った。
ヴァルはそれを見ながら、ぼそりと言った。
「……笑顔は、そっちの方がいい」
リリスが「え」という顔をした。
「作った方じゃなく」ヴァルは続けた。目は水晶玉を見たまま。「さっきの方が」
「……悪魔が何を言っているんですか」
「事実を言っている」
「……ヴァル様」
「なんだ」
「顔が、少し赤いです」
「地獄の気候の名残だ」
「地獄は暑いんですか」
「暑い」
「今は天界ですよ」
「……うるさい」
リリスがまた笑った。
今度も、本物だった。
ヴァルはしっかりと、別の方向を向いていた。
◇
翌朝、女神様の執務室に届いたのは、三ヶ月分の申請書の返答だった。
差出人:女神
件名:遅くなってごめんなさい。全部読みました。
リリスは封筒を持ったまま、しばらく動かなかった。
それからそっと開けた。
読んだ。
読みながら、目が細くなった。
最後まで読んで、リリスは言った。
「……三ヶ月と一日」
返事が来るまでの日数だった。
リリスはその手紙を、今度はちゃんとファイルに挟んだ。
それから窓の外を見た。
天界の空は今日も明るかった。
地獄の方角を少しだけ見て、リリスは自分の席に戻った。
口元に、小さな笑顔があった。
今日は、本物から始まった。




