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縫合と暗号

衛生清掃課のバンは目的地まであと三ブロックというところで力尽きた。まるでタバコを三箱同時に吸ったかのように、マフラーから黒煙を噴き上げて停止した。


「ラジエーターが逝ったな」


俺はハンドルを叩いて言った。


「それと後輪車軸が曲がってる」


「ラジエーターなんて一番どうでもいい問題ですよ」


ルナが助手席で呻いた。彼女はハードディスクが入ったリュックを抱きしめ、青ざめた顔で前後に体を揺らしている。


「アーサーさん、鼻血が止まらないんです。それに、ずっと耳の中で砂嵐みたいな音がして……」


俺は彼女を見た。実験室で放った「精神的絶叫」の代償だ。眼球の強膜きょうまくの血管破裂、手の震え。マナの過負荷オーバーロードだ。


俺の状態も似たようなものだった。


【 システム診断 】

【 ユーザー:アーサー・ヴェラス 】

【 ステータス:危険クリティカル

【 肋骨:3本骨折 】

【 左目:結膜下出血 】

【 血液毒素レベル:45%(トロール肉による副作用) 】


寄生体は残業中だ。俺の脂肪備蓄を燃焼させて内傷を塞いでいるが、奴の飢えは胃の底で鈍い痛みとなって訴えかけてくる。


「歩くぞ」


俺はルナの手を引いてバンから降ろした。


「車は置いていく。あとで燃やす」


「どこへ行くんですか?」


彼女がか細い声で尋ねる。


「病院には行けませんよ。IDをチェックされます。あたしたち、今はシステム上でテロリスト扱いなんですから」


「わかってる。だから『肉屋ブッチャー』を訪ねるんだ」


俺たちは小雨の中、バイシャーダ・ド・グリセリオ地区の荒廃したビルへと歩いた。ファサードには「家電修理および中古魔法具」と書かれているが、窓は十年前の新聞紙で目張りされている。


俺は金属の扉を叩いた。短く三回、長く一回、速く二回。


のぞき窓が開いた。ネオンレッドに輝く義眼が俺たちをスキャンする。


「ドクター・ヴェラス」


インターホン越しに、ニコチンで枯れた女の声が響いた。


「《ビホルダー》に噛み砕かれて、《スライム》に吐き出されたみたいな顔をしてるじゃないか」


「会えて嬉しいよ、ヴァレリア。開けてくれ。金はある。それに面白い『症例』もな」


重々しいクリック音と共に、錠が外れた。


中に入ると、安物の消毒液、機械油、そしてセージの香が混ざった匂いが充満していた。


ヴァレリア・“ヴィヴィ”・サレスは改造された歯科用椅子に座り、ミスリル製の義手を溶接していた。背は低くずんぐりとしていて、筋肉質な両腕には回復のルーンのタトゥーがびっしりと彫られている。かつてはギルド『銀の槍』の主席ヒーラーだったが、「非倫理的医療行為」(要するに、金払いの良い犯罪者を治療したこと)でライセンスを剥奪された女だ。


彼女は溶接用ゴーグルを上げ、深いくまのある目を露わにした。


「子供を連れ込むなんてね」


彼女はバーナーの先をルナに向けた。


「小児科は専門外だよ、アーサー」


「俺の実習生インターンだ。マナ・ショックを起こしてる。《霊的ドレイン》とブドウ糖点滴が必要だ」


ヴァレリアは溜息をつき、バーナーを置いてこちらへ歩いてきた。


「その子をそこの処置台に座らせな。あんたは……」


彼女は俺を指差した。


「床に座りな。あたしの革張りの椅子を血で汚されたくないんだ」


ヴァレリアがルナに青白いマナ点滴を繋いでいる間、俺はコートとシャツを脱いだ。胴体は紫と黄色の打撲痕で地図のようになっていた。


寄生体が皮膚を塞いではいたが、骨はまだきしむような音を立てている。


「一体全体、何を襲撃してきたんだい?」


ヴァレリアは湾曲した針と、ワイバーンの腸で作った縫合糸を手に取りながら尋ねた。


酸性壊死えしの痕跡があるじゃないか」


「ヘリックス・ファーマだ」


俺は机の上にあったアルコールの瓶を開け、一口煽ってから肩の傷口にぶちまけた。くぐもった叫び声が漏れる。


ヴァレリアの手が止まった。室内の沈黙が重くなる。


「ヘリックスだって? あの『すべての人のための医療』プログラムのスポンサーかい? アーサー、死に急ぎたいのか?」


「奴らはキメラを培養してるんだ、ヴァレリア。孤児たちを使ってな」


俺は金属のテーブルにハードディスクを放り投げた。


「全部そこに入ってる。奴ら、俺たちを消すために……『あるモノ』を送り込んできやがった。半分機械で、半分トロールの肉でできた化け物だ」


ヴァレリアはディスクを見やり、次に魔法的な鎮静剤で眠りに落ちたルナを、そして最後に俺を見た。彼女の冷笑的な表情が和らぎ、純粋な懸念へと変わる。


「サイバネティクスにトロールの肉? 不安定すぎるよ。拒絶反応率は99%だ」


「奴らは拒絶反応なんて気にしてない。壊れたら部品を交換するだけだ」


ヴァレリアは俺の肩を縫い始めた。麻酔なしだ。その方がいい。麻酔は寄生体を眠らせ、鈍らせてしまうからだ。


「もしそれが本当なら、あんたはソヴレニティという名の蜂の巣を蹴飛ばしたことになるよ。奴らはメディアも警察も、議会の半分も掌握してるんだ」


「知ってるさ。だからこそ、あんたにそのディスクを解析してほしいんだ。あんたの暗号解読リグは俺のより優秀だ」


「高くつくよ」


「言い値でいい」


「金はいらない」


ヴァレリアは最後の一針を終え、糸を歯で噛み切った。


「あんたが戦ったサイボーグの、バイオテクノロジーに関するデータをもらいな。もしトロールの肉を安定化させる方法があるなら、あたしの義肢技術にとって革命だ」


「交渉成立だ」


ヴァレリアはメインコンピュータへと歩み寄った。盗品のサーバーパーツと未加工のマナ結晶で作られたフランケンシュタインのようなマシンだ。彼女はディスクを接続した。


画面がコードで埋め尽くされる。ヴァレリアは猛烈な勢いでタイピングを始めた。彼女の指(そのうち二本は機械だ)がキーボードの上を舞う。


「軍用レベルの暗号化だね……古代エルフのルーン文字をベースにしてる。賢いやり方だ。……ま、あたしの方が上手うわてだけどね」


数分が過ぎた。外の雨音が強くなる。俺は寄生体を落ち着かせるために、ポケットに入っていた《魔物プロテインバー》を齧った。


「開いたよ」


ヴァレリアが言った。


俺は画面に近づいた。


フォルダ、またフォルダ。動画ファイル。検死報告書。


だが俺の目を釘付けにしたのは、三日前の日付が入った動画ファイルだった。タイトルは『キング・プロトコル - 野戦テスト01』。


ヴァレリアが再生ボタンを押した。


ブレのある映像が、地下闘技場を映し出した。中央には巨大な魔物、《ビホルダー》が鎖に繋がれている。


そこへ、一人の男が入ってきた。


鎧は着ていない。ただのトレーニングパンツ姿だ。黄金の髪と、完璧な笑顔。


「まさか……」


俺は呟いた。


《サニー・ナイト(太陽の騎士)》。ブラジルNo.1の英雄。ソヴレニティの顔。大衆のアイドル。


映像の中で、ビホルダーが分解光線を放った。


サニー・ナイトは避けなかった。彼は口を開けた。


顎が人間には不可能な角度で外れ、頬の皮膚が裂けて黒い腱と鋸状の歯列が露わになる。


彼は魔法の光線を食べた。


純粋なエネルギーを飲み込んだのだ。


そして、英雄の腕が変異し、悪魔の鉤爪そのものへと変わったかと思うと、一撃でビホルダーの首をはね飛ばした。


数秒後、腕は元に戻った。皮膚が再生する。完璧な笑顔が戻る。


動画が終わった。


ヴァレリアが椅子に崩れ落ちた。


「サニー・ナイト……あいつ、覚醒した人間じゃないのかい」


「ああ」


俺は口の中に広がる苦い味を感じながら補足した。


「あいつは『成功作』だ。完全なるキメラ。ペイシェント・ゼロ(患者第0号)だ」


俺は目を覚まし、目をこすっているルナを見た。


俺たちが相手にしているのは、ただの腐敗した製薬会社じゃなかった。


この国最大の英雄が、変装した怪物だったのだ。そして俺たちは、奴の解剖図レシピを知る唯一の人間だ。


突然、作業場の壁にあるテレビが勝手についた。緊急ニュースだ。


炎上するヘリックスの倉庫の映像が映し出される。


そして画面の隅には、防犯カメラが捉えた粒子粗い二枚の写真。


俺と、ルナの写真だ。


『緊急速報:テロリストの身元が判明しました。元病理学者のアーサー・ヴェラスと共犯者は、今夜起きた生物兵器テロの容疑で指名手配されました。この攻撃により、罪のない十二名の研究員が死亡しました。ギルド・ソヴレニティおよびサニー・ナイト氏は、自ら陣頭指揮を執り追跡を行うと発表しています』


「十二人の研究員?」


ルナが息を呑んだ。


「でも、あそこにはあのロボット女しかいなかったじゃないですか!」


「奴ら、自分とこの従業員を殺して俺たちに罪を擦り付けたんだ」


俺は破れたシャツを着ながら言った。


「ファイルの整理(口封じ)ってやつさ」


ヴァレリアが立ち上がり、偽の壁のところへ行ってレバーを引いた。壁が回転し、違法武器とブラックリスト指定のポーションがずらりと並んだ武器庫が現れる。


「ここには居させられないよ」


彼女は錬金術処理された岩塩弾を装填したソードオフ・ショットガンを俺に放って寄越した。


「だが、手ぶらで追い出すほど薄情じゃない。サニー・ナイトが来るっていうなら……メス一本じゃ足りないだろうからね、ドクター」


俺は銃を受け止めた。その重みが心地よい。


「サニー・ナイトは強い」


俺は呟いた。瞳が一瞬、寄生体の赤色に輝く。


「だが、どんな生物にも肝臓はある。どんな生物も毒には侵される。奴が消化できない毒が何か、突き止めればいいだけだ」


「どうやってそれを?」


ルナが怯えながら聞いた。


「難しい手術の前に、すべての医者がやることさ」


俺は笑った。冷たく、鋭利な笑みだ。


「医学文献を調べるんだよ。カテドラル・メトロポリターナ(大聖堂)の『禁書図書館』に侵入ハッキングする」






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