外科的超新星(サージカル・スーパーノヴァ)
地球の大気には層がある。対流圏、成層圏、中間圏。
俺はそのすべてを十秒で突き抜けた。
飛んでいるのではない。足元から爆発し続ける核反発力によって、空へ押し上げられているのだ。眼下のジャングルは緑色の染みになり、雲は俺が触れる前に蒸発した。
遥か上空、宇宙という織物に落ちた油汚れのように外気圏に漂っていたのは、デバウアーの王だった。
近くで見ると、奴に顔はなかった。飢餓の幾何学だった。数キロメートルもの長さを持つ反物質の触手が垂れ下がり、地球の湾曲を愛撫しながら、惑星から青色を吸い取っている。
『アーサー……』
ルナの声が俺のイヤホンで弾けた。彼女の魔法でフィルタリングされ、クリアに聞こえる。彼女は低く、一定のメロディを歌っていた。ボイタタの意識が俺の「自我」を焼き尽くさないようにするための、精神的な碇だ。
『……心拍数を維持してください。炎に寄生体を消費させないで』
「寄生体は断熱材だよ、ルナ」
俺は答えた。俺の声はタービンの咆哮のように響いた。
「俺はただのヒューズだ」
王が俺に気づいた。
星を食う生物にとって、俺は鬱陶しい火花程度に見えただろう。
真空の触手の一本が俺に向かってしなった。
『回避しろ!』
ジュレマ船長が無線で叫んだ。
眼下では、川民たちの飛行船団が一斉射撃を開始していた。エンチャントされたハープーン、スクラップの大砲、シャーマンの呪文が王の体を打つ。蚊に刺された程度でダメージはないが、イラつかせるには十分だ。
その隙を利用した。
加速する。
俺は空を裂く金色の傷跡となった。
触手が俺をかすめて通過した。真空の冷気と、俺のシールドの熱が擦れ合う。熱衝撃が生んだ雷鳴が、数キロ離れたマナウスの窓ガラスを震わせた。
奴の「顔」に到達した。回転する闇の広がりだ。
「生検の時間だ」
俺は唸った。
右手を伸ばす。ボイタタのエネルギーが凝縮され、長さ三十メートルの太陽プラズマのメスを形成する。
切開。
腕を振り下ろす。
光のメスが王の影の皮膚を引き裂いた。
血は出なかった。出たのは……静寂だ。吸引音。傷口は即座に閉じようとし、俺の斬撃エネルギーを食らおうとする。
『再生が速すぎるよ!』
地上からモニターしていたヴァレリアが警告した。
『奴の吸収率は無限大だ!』
「口を閉じたままじゃ飯は食えないさ」
俺は言い返した。
「奴に核を開かせなきゃならない」
パニック状態のアーサー(寄生体)が、あるアイデアを寄越した。
【 戦術提案:敵はマナ密度に誘引される。もっと強く輝けば、奴は貴様を丸呑みにしようとするだろう 】
「馬鹿げた作戦だな」
俺は自分に言った。
「気に入った」
俺は空中で停止した。怪物の質量中心の真正面だ。
目を閉じる。炎に抵抗するのをやめる。
「ルナ……ボリュームを上げろ」
「ボイタタ……起きろ」
両手を広げた。
封じ込めを解除する。
俺の人間の形が消えた。一瞬、俺は地球の空における二つ目の太陽になった。その輝きはあまりに強烈で、真昼の地上にくっきりとした影を落とすほどだった。
王が感じ取った。それは敵ではない。ご馳走だ。この太陽系で見た中で最大のマナ源だ。
闇の塊が開いた。
都市よりも巨大な顎が形成される。事象の地平線の歯。特異点の喉。
奴は俺に食らいつこうと前進した。
『アーサーさん、ダメ!』
ルナが叫んだ。
俺は避けなかった。
飛び込んだのだ。
狼の口の中へ、真っ直ぐに。
王の中には、光がなかった。音がなかった。時間がなかった。
あるのは冷気と圧力だけ。
ボイタタが怒りに咆哮したが、その炎は怪物の胃袋の圧倒的な重力によって圧縮されていく。
俺のキチン質の鎧がひび割れ始めた。皮膚が崩壊を始める。
【 構造的完全性警報:残り5% 】
【 死が差し迫っています 】
『まだだ……』
意識が明滅する中で考えた。
『中心へ……胃袋へ……』
粘つく真空の中を泳いだ。
そこにあった。飢餓の核。獣の中心で脈動する、紫色の反物質の完全な球体。
王を生かしているもの。現実を消化しているもの。
「診断名:末期の胃炎だ」
唇のない口で俺は呟いた。
炎の手で核を掴む。
接触は究極の苦痛だった。無限の冷気が、無限の熱と出会う。
『ボイタタ……』
俺は精神的に語りかけた。
『燃やしたかったんだろ? ステージはアンタのものだ』
俺は存在を手放した。
共生を分離した。
俺の体から炎の蛇を排出し、それを反物質の核の中へと直接押し込んだ。
反応は即座だった。
物質と反物質は対消滅する。
神聖な炎と宇宙的な飢餓は混ざり合わない。戦争を起こすのだ。
核が振動を始めた。
紫の球体に金色の光の亀裂が走る。
【 起爆 】
寄生体は最後のエネルギー備蓄を使い、俺の周囲にステイシス・コクーン(静止繭)を作り出すと、初期爆発の反動を利用して俺を外へと弾き飛ばした。
俺はオリーブの種のように怪物の口から吐き出された。
数秒後、背後で宇宙が瞬いた。
宇宙空間に音はなかった。
だが光があった。
デバウアーの王の体が膨張した。黒から灰色へ、白へ、そして半透明へ。
金色の光線が奴の形を内側から引き裂く。
《外科的超新星》が発生した。
王は爆発して四散したのではない。消費されたのだ。解放され激怒したボイタタが、「飢餓」という概念そのものを焼き尽くした。怪物は無害な星屑となって崩れ去った。
衝撃波が俺を襲った。
地球へ向かって落下しながら、俺は意識を失った。
水音で目が覚めた。そして魚の臭い。
咳き込み、肺から水を吐き出す。
「生きてるよ!」
グリッスルの声だ。
「言っただろ、腐った肉ほど丈夫だって!」
目を開ける。午後の遅い日差しが顔に当たっていた。
ジュレマ船長の平底船のデッキに寝かされている。
ヴァレリアが即席の除細動器を持って俺を覗き込んでいた。
ルナは横で俺の手を握り、静かに泣いていた。彼女の涙が、包帯を巻かれた俺の胸に落ちる。
動こうとした。全身が痛む。
胸を見る。包帯の下には、螺旋状の火傷跡があるだろう。ボイタタは去った。
だが寄生体は……。
肝臓に微かな振動を感じた。
【 ステータス:再起動中……OS:2% 】
【 飢餓状態:極限 】
「生きてるな」
俺はしゃがれた声で囁いた。
「ギリギリだよ」
ヴァレリアが汗を拭って笑った。
「あんた、隕石みたいに落ちてきたんだから。ジュレマが船を操縦して、巨大な漁網であんたをキャッチしなきゃならなかったんだよ」
「王は?」
俺は起き上がろうとして聞いた。
ルナが空を指差した。
紫の雲は消えていた。裂け目もない。怪物もいない。
空は青かった。子供の頃以来見たことがないような、深く、澄んだ青だ。
そして、金色の雪のようにゆっくりと、光の粒子が森に降り注いでいた。
「肥料になったよ」
グリッスルが満足げに言った。
「史上最大の堆肥だね」
ジュレマがパイプをふかしながら近づいてきた。
「森は静かだよ、ドクター。庭師からの伝言だ。『借りは返された』とさ。ただし、『当分戻って来るな』とも言ってたよ。あんた、上昇するときに千本くらい木の梢を焼いたからね」
俺は笑い、肋骨が痛んだ。
「これからどうするんですか?」
ルナが聞いた。
「ソヴレニティは落ちました。王は死にました。終わりですか?」
俺は北の地平線を見た。
眠りにつく直前、寄生体が網膜に最後のメッセージを投影した。
【 敵核データ分析完了 】
【 『王』は偵察ユニットでした。クラス:軽歩兵 】
【 本隊のハイヴ(巣)は土星付近に接近中 】
世界は救われた……今のところは。
人間社会は崩壊した。ブラジルは怪物と魔法と廃墟に満ちた無人地帯だ。
だが、それは俺たちのカオスだ。
「終わりじゃないさ、ルナ」
ヴァレリアが差し出した水を受け取りながら答えた。
「フェーズが変わっただけだ」
「これからは再建だ。この惑星を準備しなきゃならない。次に来るとき……奴らは偵察兵なんて寄越さないからな」
俺は友人たちの肩を借りて、苦労して立ち上がった。
太陽がアマゾンに沈み、無限の川に反射している。
俺はもう逃亡者ではない。ただの医者でもない。
ついに自分自身への嘘をやめた地球の、最初の防衛線だ。
「ヴァレリア、トラックはまだ走るか?」
「シャシーは歪んじまったけど、エンジンは唸ってるよ」
「上等だ。海岸へ向かおう。リオデジャネイロじゃ海面が上昇して、サメが歩き方を覚えたらしい」
「解剖しがいのある症例だな」
トラックは南へ向かって出発し、道路に金色の土煙を上げた。
冒険は続く。




