湯煎と有毒な外交
人間の欲求には聖なる階層が存在する。頂点には自己実現。底辺には生理的欲求。そしてマズローのピラミッドのさらに下、見えない脚注のどこかに、「下水の泥を熱湯で毛穴から洗い流したい」という神聖な欲求がある。
《三つ首の犬亭》の浴場はスパではなかった。改造された工業用ボイラー室だ。湯は地下に鎖で繋がれた《火の精霊》によって沸かされており、精霊は配管に向かって絶え間ない憎悪を吐き出すことで水を温めていた。湯からは硫黄とユーカリの臭いがした。
俺にとっては、天国の香りだった。
俺は石造りの浴槽に顎まで浸かった。熱が骨に染み込み、凍った骨髄を解凍していく。隣では年老いたゴブリンが頭に手ぬぐいを乗せて浮かんでおり、反対側では半魚人が防水加工された新聞を読んでいた。
「アーサーさん」
ルナの声が、女湯の方から聞こえた。視界は遮るが音は通す魔法の竹垣で仕切られている。
「髪の泥、落ちたと思います? それとも剃り上げて少林寺の尼さんになるしかないですか?」
「亀裂の泥はアルカリ性だ」
俺は目を閉じたまま答えた。
「強力なコンディショナーとして作用する。髪は強くなるさ。ただ湯を飲み込むなよ、胃の中で苔が生えるぞ」
「いっつもムードをぶち壊しますよね、ドクター」
俺は一分間沈黙し、体内の寄生体がリラックスするのを感じた。奴は背骨から解け、満足した動物のように血流の中を漂っている。
左腕を見る。スタジアムでの戦いの傷痕はまだ残っていた。肉が再構築された銀色の痕跡。そして肩へと伸びる共生体の黒い血管が、静かに脈打っている。
俺はもう人間ではない。完全には。親父の日記がそれを裏付けた。俺は失敗した……あるいは成功しすぎた科学実験の産物なのだ。
「アーサーさん?」
再びルナが呼んだ。声が低くなっている。
「下にいるスパイ、どうするんですか?」
「一緒に夕食を摂る」
俺は目を開けた。冷徹な分析思考が戻り、安らぎを追い出した。
「奴が激辛料理好きだといいんだがな」
三十分後、俺たちはメインホールにいた。体を洗い、アンデッドの商人から買った私服に着替えている(俺の革ジャケットは微かにホルマリンの臭いがしたが、サイズはぴったりだった)。
食事が運ばれてきた。マダム・グリッスルは厨房を乗っ取っていた。先代のシェフ(トロールだ)との腕相撲に勝って指揮権を奪ったらしい。
メニューは《バジリスクのラグーソース・マンドラゴラのマッシュポテト添え》。
「マッシュポテトには気をつけな」
すでに山盛りのポテトをフォークですくっていたヴァレリアに警告した。
「マンドラゴラはよく火を通さないと、腹の中で叫び声を上げて音響性消化不良を起こすぞ」
ヴァレリアの手が空中で止まった。
「あたし、ここ嫌い」
彼女たちが食べている間に、俺は自分の皿と黒ビールのジョッキを持って立ち上がった。混雑したホールを静かに歩き、猫耳族の給仕やオークの傭兵たちを避けて進む。
薄暗い隅のテーブルへ直行した。
フードを被った人影はまだそこにいた。ヘリックス・ファーマの通信機は今は電源が切られ、ポケットにしまわれている。彼は手袋をした手でナッツをつまんでいた。
俺は彼の前の椅子を引き、座った。木の脚が床を擦る音に、彼が咀嚼を止める。
「連れがいるんだが」
男の声だった。若いが、疲れた声だ。
「知ってるよ。俺だろ」
俺は皿をテーブルに置いた。
「それと、バレることへの恐怖が連れ添ってるな」
男の肩が強張った。手がテーブルの下へ滑り込む。おそらく武器を探しているのだろう。
「よせ」
俺はバジリスクの肉を外科手術のような落ち着きで切り分けながら言った。
「ここで銃を抜けば、ゴリラの警備員にお前の腕を引き抜かれて、孫の手代わりに使われるぞ。ハウスルールだ。『攻撃的中立』」
男は躊躇した。武器から手を離したが、手は隠したままだ。彼はフードを下ろした。
魔物ではなかった。人間だ。二十五歳くらいの若者で、深い隈があり、首の皮膚に紫色の斑点があった。
「あんた、誰だ?」
「お前が通信機で報告していた相手だよ。アーサー・ヴェラス」
若者の顔から血の気が引いた。
「スタジアムの『屠殺者』か」
「『反乱病理学者』と呼んでくれ。それとお前は……」
俺は分析視覚を起動した。彼の首の斑点が網膜上で黄色く光る。
「……『合成マナ中毒者』だな。ヘリックスが路地裏で売ってる安物の興奮剤、『フェアリーダスト』の慢性使用者だ」
彼はシャツの襟で首を隠した。
「何が望みだ? 俺を殺すのか?」
「場合によるな」
俺はビールを一口飲んだ。
「お前はヘリックスの社員か?」
「元社員だ。物流部門をクビになった。今はフリーランスの『情報屋』さ。ターゲットの位置情報を、一番高く買ってくれる相手に売ってる。ヘリックスはあんたに高値を付けたよ」
「『付けていた』だろ」
俺は訂正した。
「ヘリックスはもう終わりだ。ソヴレニティが狩りを引き継いだ。そして《黄昏部隊》は情報屋に金は払わない。奴らは情報の漏れ口を『掃除』するんだ。もし奴らがここに来たら、お前も俺と一緒に死ぬことになる」
情報屋が唾を飲み込んだ。
「金が必要なんだ。離脱症状の治療は……高いんだよ」
俺はジャケットの内ポケットから小瓶を取り出した。透明な液体が入っている。
テーブルの上を滑らせ、彼の目の前に置いた。
「なんだこれ? 毒か?」
「逆だ。《ワイバーン解毒血清》」
嘘だ。ただの生理食塩水に、バレリアンの根と、寄生体の抗体を多く含む俺自身の血を少し混ぜたものだ。だが、彼が詳細を知る必要はない。
「脳のマナ受容体を洗浄する。一回分で禁断症状は消える」
若者の目が欲望に輝いた。
「これをくれるのか……あんたを売らなければ?」
「いいや。これをやるのは、《黄昏部隊》が何を持ってきてるか話したらだ」
俺は身を乗り出した。
「奴らは俺たちを追って森に入って来なかった。撤退したんだ。なぜだ?」
情報屋は小瓶を見つめ、次に俺を見た。彼は震える手でガラス瓶を掴んだ。
「奴らが引いたのは、隔離区域が拡大されるからだ」
「拡大だと?」
「部隊長が《プロジェクト・ベヒーモス》の起動を要請したんだ」
その名前に、俺の中の寄生体がシューッと音を立てた。
【 記憶アクセス:コード・ベヒーモス 】
【 定義:生物学的攻城兵器。クラス:都市破壊者 】
「ベヒーモス……」
俺は繰り返した。
「ネクロポリスの上に巨大な魔物を落とす気か?」
「魔物じゃない」
若者は小瓶をしまい、逃げるように立ち上がった。
「真菌だ。マナを食らう巨大な菌糸体さ。奴らは明日の夜明けと共に、この街に胞子爆撃を行うつもりだ。ここの魔法的なものすべて――魔物も、明かりも、アンデッドも――一時間で肥料に変わる」
彼はフードを被り直した。
「街を出たほうがいいぞ、ドクター。ベヒーモスに治療法はない。奴は戦わない。ただ……すべてを腐らせるだけだ」
情報屋は足早に去り、人混みに紛れていった。「治療薬」を宝物のように抱きしめながら。
俺は座ったまま、ラグーソースを見つめた。
ソヴレニティは侵攻する気はない。静かなる大量虐殺を行う気だ。俺たちを捕まえるためだけに、知性ある魔物と難民たちの街を丸ごと殺そうとしている。
ヴァレリアとルナがテーブルに近づいてきた。
「どうだった?」
ヴァレリアが聞いた。
「吐いたかい?」
「全部な」
俺は立ち上がり、紙幣をテーブルに置いた。
「問題発生だ」
「黄昏部隊よりデカい問題ですか?」
ルナが聞いた。
「はるかにデカい」
俺は宿屋の天井を見上げた。その向こうにある空を想像する。
「明日の朝、生物学的死の雨が降る。リッチの判事と話さなきゃならない。急ぎでな」
「なんでだい? 逃げるんだろ?」
グリッスルが聞いた。
「いいや」
俺は笑ったが、目に笑意はなかった。
「ベヒーモスの菌には弱点がある。奴はマナを食う。だが、もし大量のマナを食わせすぎたら……奴は爆発的な消化不良を起こすんだ」
「キノコを爆発させる気ですか?」
「違う。改造するんだ」
俺の目が寄生体の赤い光を帯びる。
「もしソヴレニティが生物兵器を使いたいなら、教えてやるべきだな。この市場で最高のバイオハッカーは俺だってことを。その疫病を、俺たちのための煙幕に変えてやる」




