逃走の熱力学
クリチバの寒さは気象現象ではない。個人的な侮辱だと言われている。
亀裂が開く前、それはダウンジャケット好きの人々をネタにしたミームに過ぎなかった。だが三十年後、ブラジル南部は地理学者たちが「エントロピー・ゼロ地帯」と呼ぶ場所に変貌していた。
俺はそこを「死体用冷蔵庫」と呼んでいる。
「アーサー、もしこれ以上凍傷で足の指を失ったら、治療費はあんたの報酬から天引きするからね」
ヴァレリアが歯をガチガチと鳴らしながら文句を言った。彼女は艶消し黒に塗装された装甲バンを運転し、旧レジス・ビッテンコート高速道路の灰色の吹雪の中を進んでいた。
「ヒーターがまたイカれたのか?」
俺はバンの後部に即席で取り付けた作業台の顕微鏡から目を離さずに尋ねた。
「ヒーターは《発熱石》で動いてるんだ。最後の石は十キロ前に使い切ったよ。今はエンジンの余熱と、マダム・グリッスルの憎悪だけで走ってる状態さ」
俺は横を見た。グリッスルは魔物の毛皮の山に埋もれて眠り、窓ガラスが振動するほどのイビキをかいていた。ルナは毛布を三枚被って胡座をかき、ソニック・バトンを湯たんぽ代わりに抱きしめている。
「寒さで寄生体の動きが鈍い」
俺は胸をさすりながら呟いた。
サニー・ナイトとの戦い以来、俺の共生者は様子がおかしい。手の再生とシールド生成で大量のバイオマスを消費したせいだ。外気温がマイナス15度を叩き出している今、奴は半冬眠状態に入りつつあった。
【 代謝警報:中核体温低下 】
【 要求:カロリー摂取。推奨:ファイア・シールの脂肪 】
『アザラシなんてないぞ。あるのはシリアルバーだ』
俺は思考で答え、おがくずのような味がする乾燥糧食を齧った。
リアウィンドウを見る。道路は氷に覆われた錆びた車の墓場だった。霧が濃く、視界は十メートルもない。
だが、見る必要はない。分析すればいい。
顕微鏡に戻る。スライドガラスには、外で降っている「雪」のサンプルが乗っている。
「凍った水じゃない」
俺は告げた。
「胞子だ」
ルナが片目を開けた。
「胞子? キノコってことですか? 私たち、カビを吸ってるんですか?」
「高地性極低温真菌だ。空気中を漂い、肺に入り込み、体温を低下させる。そして宿主が低体温症で死ぬと、内側から発芽するんだ」
「素敵ですね」
ルナはガスマスクを引き上げ、顔を覆った。
「なんでこんな場所に来たんでしたっけ? ああ、そうでした。私たちが国一番のテロリストだからでしたね」
「ソヴレニティの無線信号はここまでは届かない」
俺は説明した。
「南部の亀裂が発する磁気干渉が、天然の聖域を作ってる。ドローンが飛ばない場所こそが、俺たちの生き残れる場所だ」
突然、バンが激しく揺れた。
ヴァレリアが罵り声を上げ、ハンドルを切る。車体はブラックアイスバーンの上でスピンし、180度回転して金属音と共にガードレールに衝突した。
「全員生きてるかい!?」
ヴァレリアが叫ぶ。
「何事だ!?」
グリッスルが飛び起き、肉切り包丁を抜いた。
「通行止めだ。だが、警察じゃない」
ひび割れたフロントガラス越しに外を見る。
パトカーではない。
木だ。
だが普通の木ではない。《絞首松》(学名:Araucaria Carnivora)。
アスファルトを突き破り、コンクリートを割って成長している。幹は黒くねじれている。そして凍てつく風に揺れる低い枝にぶら下がっているのは、松ぼっくりではない。
死体だ。
寒さで保存された干からびた死体が、棘のある蔦で巻き取られている。
そして最悪なことに――そいつらは動いていた。
「死霊植物学か」
俺は恐怖と興奮がないまぜになった声で分析した。
「あの木は以前の犠牲者の死体をマリオネットとして使い、新しい獲物を誘き寄せたり攻撃したりするんだ。筋繊維のような根のシステムを使ってる」
「来ますよ!」
ルナが叫んだ。
アラウカリアの枝がしなった。蔦のロープから解放された死体たちが地面に落ち、不格好な蜘蛛のように四つん這いでバンに向かって走ってくる。
「車から出ろ! ここにいたら潰されるぞ!」
俺はリアドアを蹴り開けて命じた。
刃物のような寒風の中に飛び出す。風が唸りを上げている。
「マリオネット」は二十体ほど。観光客、トラック運転手、冒険者の服を着た骸骨たちで、胸郭の中で発光する根が脈打っている。
「左はあたいがやる!」
グリッスルが咆哮し、突撃した。包丁が空を切り、三体のマリオネットを両断する。だが、根は数秒で再接続してしまう。
「ドクター! こいつら死なないよ!」
「当たり前だ! そいつらはもう死んでる!」
俺は骨の爪を避けながら叫んだ。
「肥料じゃなくて、植物本体を殺すんだ!」
アーサー(寄生体)が腕の刃を起動しようとしたが、反応が遅い。寒さで関節が硬直している。
【 エラー:血液粘度上昇。起動失敗 】
「クソッ!」
俺は手動のメスと、《揮発性除草剤》の小瓶を取り出した。
一体のマリオネットが飛びかかってきた。ボロボロの青い制服を着た、かつてのハイウェイパトロールだ。
俺は雪の上を転がり、奴の爪が防寒コートを引き裂くのを感じた。
奴の胸を蹴り上げ、肋骨が砕ける音を聞きながら、口から伸びる「根」に除草剤を浴びせた。
液体がジュッと音を立てる。根が萎れ、黒く変色した。マリオネットは動かなくなった。
「効くぞ! だが三回分しかない!」
「アーサーさん! 『マザーツリー』が!」
ルナが指差した。
道路の中央にある最大のアラウカリアが動いていた。太い根が巨大イカの触手のようにアスファルトから飛び出し、俺たちのバンを押し潰そうと持ち上がっている。
「物資をやられちまう!」
ヴァレリアがショットガンを撃ったが、鉛の弾丸は硬い樹皮を削る程度だった。
速く考えろ。
寒さ。真菌。植物。
ここの生物学は、熱の緩やかな吸収に基づいている。
あの木々は恒温動物を捕食する。俺たちを熱源バッテリーとして見ているんだ。
「ルナ!」
俺は叫んだ。
「ガラスを割るときに使った周波数を覚えてるか?」
「はい?」
「ガラスは忘れろ。《熱共鳴周波数》が必要だ! 幹の中にある水分子を振動させろ!」
「音波電子レンジってことですか?」
「その通りだ! 中から調理してやれ!」
ルナは雪の上に足を踏ん張った。バトンを構える。先端のクリスタルが強烈な赤色に輝く。
彼女は叫ばなかった。低く、一定のハム音(唸り音)を発した。歯が痛くなるような重低音だ。
ヴゥゥゥゥン……
見えない音波が巨大アラウカリアを直撃した。
木が攻撃の途中で停止した。
幹の中で、凍った樹液が振動を始める。摩擦は熱を生む。密閉空間での急速な加熱は、圧力を生む。
「もっと強く、ルナ!」
グリッスルが残りのマリオネットから俺を守ってくれる間、俺は指示を飛ばした。
ルナが出力を上げる。彼女の鼻から血が流れ、顎に落ちる前に凍りつく。
メキッ!
木が裂ける音がした。
樹皮の裂け目から蒸気が噴き出す。樹液が沸騰しているのだ。
ドォォン!
アラウカリアの幹が内側から爆発した。燃える木片が手榴弾の破片のように飛び散る。
木は倒れ、雪の上で炎上した。
「マザー」が死んだ瞬間、すべてのマリオネットが糸が切れたように倒れ込み、切断された根が即座に枯れていった。
道路に静寂が戻る。聞こえるのはルナの荒い息遣いと、木が燃えるパチパチという音だけだ。
「音波電子レンジ……」
ルナが脱力して雪の上に膝をついた。
「新しい技ですね」
俺は燻る木の残骸へと歩み寄った。メスを使って熱い木質部を掘り、琥珀色に輝く結晶化した樹液の塊を取り出す。
【 アイテム:ブラッド・アンバー(血琥珀) 】
【 特性:濃縮熱源 】
「燃料だ」
俺はそれをヴァレリアに投げ渡した。
「バンのヒーターに入れろ。州境までは暖かく過ごせるはずだ」
俺たちは傷つき、凍えながらも、生きて車に戻った。
バンが息を吹き返し、恵みのような熱気が循環し始める中、俺は地平線を見た。
霧が少し晴れていた。
前方、白い廃墟の中からゴシックな蜃気楼のように聳え立っているのは、クリチバの塔群だ。
だが、無人ではなかった。
砕けた摩天楼の窓には、青白く幽霊のような明かりが灯っている。
そして都市の上空を舞っているのは、鳥でもワイバーンでもない。
ガーゴイルだ。軍隊のような規律を持って空域をパトロールする、生物学的なガーゴイルたち。
「ようこそ、ネクロポリス(死者の都)へ」
グリッスルが敬意を込めて囁いた。
「ここでは魔物たちが独自の社会を形成していると言われている。もしソヴレニティが人間の秩序だとするなら……クリチバは『組織化された混沌』さ」
「最高だな」
俺は笑った。樹液の熱で寄生体が目覚めるのを感じる。
「俺はいつだって混沌の方が好きだ。解剖しやすいからな」
シートベルトを締める。
旅の第二段階が始まった。もし出迎えが殺人樹木だったとしたら、街のドアマンが何を用意しているのか、楽しみで仕方がない。




