キメラ王の祝杯
5万人が同時に息を止めたとき、世界には特有の匂いが漂う。静電気と、集団的な不安の臭いだ。
俺とルナはステージの中央で、カメラを喜ばせるためにサニー・ナイトが斬首したばかりの、《飼育バジリスク》の緑色の血をモップで拭き取っていた。
スポットライトは強烈で、うなじが焼けるような熱さを感じる。
『カメラループまであと十秒』
イヤホンからヴァレリアの声がノイズ混じりに聞こえた。群衆の咆哮にかき消されそうだ。
『ミスるんじゃないよ。もし奴が本物を飲めば、寄生体は強化され、あんたたちは紙吹雪になっちまう』
俺は清掃用カートを式典用のテーブルへと押していった。
サニー・ナイトは俺たちに背を向け、観客に手を振っている。彼は輝いていた。黄金の鎧が大衆の崇拝を反射している。だが、二メートルの距離から見る俺の生物学的分析は、全く別の物語を語っていた。
奴からは酸っぱい臭いがした。
耳の後ろを、黒く油っぽい汗が伝っている。剣を握る手が痙攣的なリズムで震えている――飢えのリズムだ。中の寄生体が神経終末を齧り、投与を要求しているのだ。
「おい、お前」
黒スーツの警備員が俺の進路を遮り、胸に手を当てた。
「テーブルエリアは立ち入り禁止だ」
「飛び散った血を拭くだけですよ、チーフ」
俺は頭を下げ、透明で、疲弊した、低賃金労働者の姿勢を装って答えた。
「バジリスクの血は乾くとベルベットのシミになるんです。ジン司令官に給料から引かれちまいますよ」
警備員が躊躇した。官僚主義という言葉は万国共通だ。彼はテーブルの近くにあるカーペットの緑色のシミを見た。
「手早くやれ。あと一分で乾杯だ」
俺は頷き、前進した。
ステージの反対側では、ルナがカメラを磨くふりをしていたが、その目は俺に釘付けになっており、布を握る指は白くなっていた。
テーブルに到達する。
そこにあった。バカラのクリスタルボトル。怪物を首輪に繋ぎ止めるための黄金の液体が入っている。
『カメラループ、起動。五秒間だけあんたたちは幽霊だ』
ヴァレリアが告げる。
『5……4……』
俺は迷わなかった。
左手でテーブルを拭くふりをする。右手でカートから準備していたボトルを取り出し、すり替える。
動作は流れるようだった。一度の切り損ないが毒ガス爆発を意味する生物解剖を何年も続けてきた経験が、俺に外科医の手腕を与えていた。
本物のボトルはモップの汚水バケツの中に消えた。
女王蜘蛛のカクテルが入った毒のボトルが、その場所に収まる。
『2……1……ループ終了』
俺は三歩下がり、カートの影に戻った。
警備員は瞬きすらしなかった。彼にとって、俺はただの家具だ。
サニー・ナイトが振り返った。
スタジアムが静まり返る。彼がマイクを手に取る。その笑顔は完璧で、あまりに白く、あまりにリハーサル通りだった。
「サンパウロの民よ!」
魔法で増幅された彼の声が轟く。
「今日、我々はまた一年の平和を祝う。私が、この手で築き上げた平和を!」
熱狂的な拍手。
アーサー(寄生体)が嫌悪感に震えた。
【 検知:対象の頭蓋内圧上昇。限界点に到達 】
「だが戦いは終わっていない」
英雄は続け、テーブルへと歩いた。息が上がっているように見える。黒い汗の滴がこめかみを流れた。飲まなければならない。今すぐに。
「私が呼吸をする限り、いかなる魔物も我々の家族を脅かすことはない!」
彼がボトルを掴んだ。
俺の心臓が止まる。ルナの手が止まる。
彼はクリスタルのグラスになみなみと注いだ。黄金の液体がライトの下で輝く。
彼は香りを確かめなかった。余裕がなかったのだ。
「ソヴレニティ(至高主権)に!」
彼がグラスを掲げた。
「ソヴレニティに!」
スタジアムが唱和する。
彼は飲んだ。
長く、深く。一息でグラスを空にした。
俺は待った。
一秒。二秒。
彼はグラスをテーブルに強く置いた。
カメラに向かって微笑む。
「美味……」
彼が言いかけ、
そして、止まった。
目が見開かれる。輝く青色だった瞳孔が収縮し、針の先ほどになる。
女王蜘蛛の神経毒は速い。肉体を攻撃するのではない。「接続」を攻撃するのだ。神経系に対して「お前は独りだ」と告げる。
そして寄生体に対しては、「宿主は死んだ」と告げる。
サニー・ナイトが喉に手をやった。
「グッ……」
喉の奥から絞り出したような音がマイクを通り、スタジアム中に反響した。
オーケストラの勝利の曲が調子外れになり、止まった。観客が困惑してざわめく。「ショーの一部か?」と考えているのだろう。
英雄が膝をついた。
彼は自分の胸を掻きむしり始めた。黄金の鎧が、指の力でアルミホイルのようにひしゃげる。
「出ろォォッ!」
彼が叫んだが、その声はもはや人間のものではなかった。二重の声だ。苦痛に叫ぶ男の声と、飢えに叫ぶ獣の声。
「始まるぞ」
俺はルナに囁いた。
「アンプを準備しろ」
サニー・ナイトの体が、解剖学的にあり得ない角度で後ろへ反り返った。背骨が砕ける音がはっきりと聞こえる。
そして、茶番(チャ番)が終わった。
背中の皮膚が裂けた。
赤い血は出なかった。
黒いバイオマスと触手の爆発があった。
飢餓の寄生体は、宿主の脳との接続が切れたことを感知し、自己保存モードに入ったのだ。《攻撃的拡張》。
美男子の顎が外れ、湿った音を立てて床に落ちた。開いた喉の奥から、新しい頭部が出現する。目がなく、剥き出しの筋肉と鋸状の歯で構成された細長い頭部だ。
肋骨から余分な腕が生え出し、ガラの衣装を引き裂く。「英雄」の黄金のオーラは、紫色の有毒な霧へと変貌した。
スタジアムが絶叫した。
歓声ではない。原初的な恐怖の音だ。5万人が同時に、捕食者と同じ檻に閉じ込められていると気づいた音だ。
今や四メートルの高さになり、人間の面影をほとんど残していない怪物が咆哮した。その音圧で近くのカメラのレンズが割れる。
俺を止めた警備員が銃を抜いた。
「止まれ! な……何だお前は!?」
怪物は振り返りもしなかった。背中の触手の一本が鞭のようにしなり、人間の目には捉えられない速度で動く。
警備員が腰のあたりで真っ二つになった。二つの肉塊が濡れた音を立ててステージに落ちる。
パニックは決定的だった。群衆が出口へと殺到し、互いを踏みつけにする。
怪物は困惑した様子で周囲を見回し、染み一つないステージに酸の涎を垂らしていた。奴はヘリックス社の制御からも、人間の制御からも解放され、飢えで完全に狂っていた。
奴がテーブルを見た。そして、俺を見た。
奴に見えているのは清掃員ではない。
俺の中の寄生体だ。
【 戦闘警報 】
【 敵:アポカリプス級(不安定) 】
【 生存確率:12% 】
怪物が俺に向かって踏み出した。一歩ごとにステージの床が破壊される。
「ルナ!」
俺は叫び、清掃カートを蹴り飛ばして二本のミスリルメスを抜いた。淡い青色のマナが刃に宿る。
「ショーの始まりだ!」
ルナが俺の横に駆け寄り、金属音と共にソニック・バトンを展開した。彼女はもう震えていなかった。冷たい怒りを持って獣を睨みつけている。
「このアイドルを引退させるわよ」
彼女が言った。
全世界が画面越しに見守っている。ソヴレニティの嘘はステージの床で死んだ。
あとは、俺たちが真実を生き延びられるかどうかだ。
俺は深呼吸し、アドレナリンの鉄の味を感じた。
「胸部初期切開」
俺は呟き、戦闘姿勢に入った。
「検死解剖を開始する」




