第2話「異世界への招待」
「勇者様!勇者様!こちらへどうぞ!」
遼は、城の廊下を引きずられるように歩いていた。
手を引くのは、先ほどの女性だ。栗色の髪をふわりと揺らし、笑顔のまま前を向いている。
「え、あの……その、俺は別に……」
「そんな!勇者様がいなければ、この世界は滅びてしまうのです。どうか、そのお力をお貸しくださいませ!」
遼は、言葉を失った。
こんなふうにまっすぐ感謝されるのは、いつぶりだろう。
いや、現代日本で、そんな経験は一度もなかったかもしれない。
城の外へ出ると、そこには見渡す限りの城下町が広がっていた。
夕暮れの空の下、石畳の通りに人々があふれ、屋台の煙が立ち昇り、子どもたちのはしゃぐ声が響いている。
そして、その全員が——遼の姿を見つけると、口々に声を上げた。
「勇者様だ!本物の勇者様だ!」
「万歳!万歳!勇者様!」
「神よ、感謝します!」
歓声に囲まれ、花びらまで降ってくる。
知らない子どもが駆け寄ってきて、手に握っていた花冠を遼の頭に載せてくれた。
「あ……あぁ……」
遼は、呆然としながら花冠に手をやった。
(……なんだ、この世界……)
一歩進むたびに、誰かが笑顔で頭を下げ、手を振り、涙を浮かべて「ありがとう」と言う。
これまでの人生で、こんなに感謝されたことがあっただろうか?
定時を過ぎても残業したって、資料を徹夜で仕上げたって、上司は「当然だろ」と言うだけだった。
休みの日まで呼び出されても、誰も「ありがとう」なんて言わなかった。
そんな自分が、ここでは——
「勇者様、お手を!」
誰かが差し出した手を無意識に取ると、その人は目を輝かせていた。
「お会いできて光栄です!どうか、この町をお守りください!」
遼は、言葉が出なかった。
(俺、何もしてないのに……)
そして、勇者の剣が、また囁いた。
『——この世界の「真の敵」を、探せ』
◆ ◆ ◆
宴の会場は、広場の中央に設けられていた。
長いテーブルの上には、所狭しと料理が並び、異世界の楽団が笛や太鼓を鳴らしている。
「さぁ、勇者様!今夜はあなたのための宴でございます!」
遼は、無理やり中央の席に座らされる。
次々と料理が運ばれてきた。
山盛りのロースト肉、金色のスープ、香草のサラダ、甘い果物の盛り合わせ——
見たこともない食べ物ばかりだが、どれも芳ばしい香りがして、空腹を思い出させた。
「いただき……ます……?」
箸がないことに戸惑いながらも、フォークらしき銀の道具で肉を口に運ぶ。
途端に、口の中に広がる肉汁と香辛料の旨味に、思わず声が漏れた。
「……うまっ……」
女性(あとで「エリナ」という名前だと知る)も笑顔で言った。
「お気に召していただけたようで嬉しいです!」
その一言に、遼はどこか胸の奥がじんわり温まるのを感じた。
(……なんだよ……なんなんだよ、この世界……)
そうしている間も、町の人々が遼の席の周りに集まってきて、代わる代わる声をかけてくる。
「勇者様、この剣を!私の家の家宝でございます!」
「勇者様!私の作ったパンをどうぞ!」
「勇者様!娘の結婚式にもぜひご臨席を!」
遼は、苦笑いするしかなかった。
(……こんなに優しくされるの、慣れてないんだけど……)
と、剣がまた囁いた。
『——この世界の「優しさ」を疑え』
一瞬、冷たい空気が遼の背筋を撫でた。
「……は?」
慌てて剣を見ても、ただ黒く鈍く光っているだけだ。
気のせいかと思ったが、心のどこかで、ほんの少しだけ違和感が残った。
◆ ◆ ◆
宴も中盤を過ぎ、遼は少し酔いが回ってきた。
エリナが酒の杯を差し出してくる。
「勇者様、もうお疲れでしょう。無理なさらず、ゆっくりなさってくださいね」
「……あぁ……ありがとう」
エリナは、少し寂しそうに笑った。
「勇者様……」
「……ん?」
「この町の人々は、本当にあなたが来てくださったことを喜んでいるんです。だから……」
言いかけて、彼女は視線を逸らした。
「……いえ。なんでもありません」
「……?」
剣の中から、再び声がする。
『——お前に課された使命は、この世界の本当の姿を暴くこと』
遼は、杯を置いて、剣を見つめた。
「……本当の姿?」
『——この優しさの裏に、必ず「真の敵」がいる』
(真の敵……)
遼は、視線を上げた。
周囲には、屈託のない笑顔ばかりが並んでいる。
みんなが善意の塊のように見えた。
(そんなの……本当に、いるのか……?)
その時、広場の片隅で、黒い影が一瞬だけ揺れた。
遼がはっと振り返ると、そこには誰もいなかった。
気のせいかもしれない。
でも、確かにあの一瞬、剣がびりりと震えたのだ。
『——見つけろ。お前が、この世界を救えるかどうかは、それにかかっている』
遼は、剣の柄を握りしめた。
「……やれやれ……休めると思ったのに、結局また、働くのかよ……」
自嘲気味に呟くと、エリナが不思議そうに首を傾げた。
「何か、仰いましたか?」
遼は、無理に笑ってごまかした。
「いや……こっちの話だよ」
宴の終わりを告げる鐘が鳴り、夜空には無数の星が輝いていた。
遼は、空を見上げながら、胸の中でひとりごちた。
(この世界の優しさの裏に、本当に何かがあるってのか……?)
剣の刃先が、夜空の星に照らされて、ほんの一瞬、赤く光った気がした。
——第1章 第2話【終】