第1話「ブラックアウト」
——カタカタカタカタ。
止まらないキーボードの音が、無人のオフィスに反響する。
壁際の時計の針は、すでに午前二時を指していた。
蛍光灯の白い光が、乾ききった空気の中にじわじわと染み込んでいく。
「……はぁ……」
黒崎遼は、背もたれに寄りかかり、深く息を吐いた。
意識はもうとっくにぼやけている。
肩が痛い。目もかすむ。
それでも、指先だけは勝手に動いていた。タイピングの手が止まったら、なぜかいけない気がするのだ。
(あと……企画書二本。メール……三通……。)
液晶ディスプレイの右下で、日付が変わったことを知らせる数字が点滅していた。
今日が何日なのかも、もうよくわからない。
金曜日だったかもしれないし、火曜日だったかもしれない。
同じような毎日を繰り返しながら、気づけば半年が過ぎていた。
ブラック企業だなんて、入社するまでは他人事だった。
自分はもっと、強いと思っていたのだ。
上司にどやされても、書類の山に埋もれても、休日返上で働かされても、「大丈夫」だと、自分に言い聞かせてきた。
(……大丈夫、だ。)
両手で顔を覆うと、鼻の奥がツンと痛んだ。
眠りたい。帰りたい。
いや、何もかも投げ出したい。
けれど、そうしてしまったら、もう二度と社会に戻れないような気がして——。
その時、視界が、ぶつっと途切れた。
キーボードを打つ手が止まる。
椅子からずるりと滑り落ちると、冷たい床が頬に触れた。
息が、できない。心臓が、ひどく痛い。
誰かが叫んでいる声が、遠くで聞こえたような気がした。
「……あぁ、これで、休める……」
最後にそう呟いたかどうかも、もう思い出せない。
◆ ◆ ◆
気がつくと、遼は見知らぬ場所に立っていた。
オフィスの蛍光灯の白い光は消え、代わりに、柔らかな金色の光が空いっぱいに満ちている。
足元は、どこまでも白い雲。
遠くの空の果てには、虹のように光る階段がゆるやかに伸びている。
「……夢、だよな?」
呟いても、誰も答えない。
深呼吸をすると、肺がすっと軽くなった。
(こんなに、空気が美味いなんて……)
まるで現実味がないのに、夢のようにぼやけてもいない。
と、その時。
「——ようこそ、黒崎遼」
背後から声がした。
振り向くと、そこには、一人の男が立っていた。
長い白衣のようなものをまとい、透き通るように白い髪をしている。
彼の背後にも虹色の光が差し込み、まるで神話に出てくる神様のようだった。
「お、お前は……?」
「あぁ。人間の言葉で言うならば……そうだな。神、だ」
男は微笑んだ。
「え……俺、死んだのか?」
「ああ、死んだ。過労死、というやつだな。痛かったろう」
遼は、力なく笑った。
「あぁ、痛かった……でも、やっと……休める」
「休める、と思っているのか?」
「……え?」
神は、穏やかな顔のまま言った。
「黒崎遼。お前には、まだ使命がある。お前は選ばれたのだ」
「……使命?」
「ああ。この世界を救う使命だ」
神は、虹色の階段の下から、一本の剣を取り出した。
その剣は、不思議な黒い刃をしていて、見ているだけでゾクリとする気配を放っていた。
「この剣を持て。お前は勇者となり、この世界を救うのだ」
剣が、カランと遼の足元に落ちる。
遼は、困惑したまま剣を拾い上げた。
(軽い……けど……なんだこれ、怖い……)
「ちょ、ちょっと待て。俺は、もう十分働いた。もう……いいだろ?」
「甘えるな」
神は、声を強めた。
「この剣が導くだろう。『真の敵』を倒し、この世界に平和をもたらせ。さすれば、お前も報われるだろう」
「……真の敵?」
「それ以上は剣が教えてくれる。——行け」
◆ ◆ ◆
——ぱちん、と音がして、遼は目を開けた。
見渡すと、そこは城の中のようだった。
天井は高く、壁には豪華なタペストリーが飾られている。
足元には、真紅の絨毯。
遼は、剣を握りしめたまま立ち尽くしていた。
すると、扉が開いて、見目麗しい女性が駆け寄ってきた。
「勇者様!お目覚めですか!?お身体は……?」
「え、あ、うん……?」
「本当に……!本当に、神様は勇者様を送ってくださったのですね!ありがとうございます……!」
涙ぐみながら彼の手を取る女性。
後ろからも、ぞろぞろと人々が集まり、口々に彼を讃える。
「勇者様だ……!」
「神に選ばれしお方だ……!」
遼は、呆然としたまま呟いた。
「……マジかよ……」
その時、遼の手の中の剣が、ひとりでに囁いた。
『——勇者よ。この世界の「真の敵」を、探し出せ。』
耳に響くその声に、遼は身震いした。
「……いや、無理だろ、そんなの……」
しかし、誰も遼の弱音など気づかず、城の中は歓喜の声で満ちていた。
遼は、剣を見つめる。
その刃先は、まるで黒い炎のように揺らめいていた。
「……はぁ……また、働くのか……」
自嘲するように笑った時、誰かが彼の肩を叩いた。
「勇者様。ご案内いたします。これから城下町で歓迎の宴がございます」
——異世界は、優しい笑顔で遼を包み込む。
だがその優しさは、どこか、恐ろしいほどに純粋で、脆く見えた。
そして遼は、まだ知らなかった。
この「優しすぎる世界」の本当の姿を。
——第1章 第1話【終】