5
遊戯室を飛び出してしばらくの記憶がなかった。
庭を人目を避けてただただ歩いていたようだ。気づけば隅にうずくまり泣いていた。惨めさや悔しさ、怒りなどが様々にさらの感情を乱していった。
どれほどかそうしていて立ち上がった。いつまでもこうしていられない。彼女はメイドで仕事があり、いるべき場所に戻る必要があった。
手洗い場で顔を洗い涙の後始末をした。食堂に向かう途中声をかけられた。顔を見られたくなかったが、幸い日暮れどきでごまかしが効く。
「久しぶりだな。元気にしているか?」
兵士のスヌープだ。彼はさらがこの世界に迷い込んですぐの頃、ダリアの側にいた。あれ以降一度会い挨拶をしたくらいだった。
「ええ、ありがとう」
俯いて返事をした。
「こんな所に何の用だ? もう表区に近いぞ」
「……キシリア様のご用で……」
咄嗟に誤魔化した。クリーヴァー王子の名を口にすることは喉が拒絶した。スヌープは妙な顔をしていたが、気にする余裕はなかった。
「そうか。まあいい。早く戻った方がいいな」
それで彼と別れ、彼女は足早に食堂へ戻った。
夕食になったがあまり喉を通らなかった。普段は温かで美味しい食事には心がほぐれるのに、この日ばかりはそうはならない。
それでも笑顔を貼り付けてリリ、ココ、スーの話に合わせてやり過ごした。
いつまでも強引に口づけられた感触と生々しさが尾を引いた。ダリアが来るのが少し遅れていたら、と思うと震えるほど怖くなった。
それでも翌日には気持ちが戻りかけていた。
(ともかく無事だった)
その事実は大きい。
リリ、ココ、スーらに打ち明けて事態を共有することも考えた。しかし同じように感じてくれるとは限らない、と気持ちが萎えた。王子の身近に仕えるジジを妬んでいたくらいだ。彼の行為を肯定的に捉えてしまう可能性もある。
こちらには絶対的な身分差がある。貴人からの合意のない一方的な振る舞いが、まやかしでも身分差を埋めることもあるだろう。ほんの一時は。
さらには受け入れられない。王子からのそれは暴力でしかなかった。
(ここでの暮らしが長くなったら、もしかしたら、わたしもそう思えるようになるのかも)
しかし、まだそんなことは考えたくかった。
それに、王子はそのうち帰って行く。その日を待つ方が気が楽だった。
数日経ち、さらの気持ちも穏やかになった。思い出さなければ、ショックも頭の奥に引っ込めて置けるようになった。
相変わらず浴室の掃除に精を出す日々だ。壁を磨いていて気づけば、ラジオのように流れている皆のお喋りが止んでいた。振り返るとリリ、ココ、スーが隅に並んで屹立している。
メイドがそのようにするのは領主家族が現れた時と限っていた。慌ててさらも彼女らに倣う。
浴室にやって来たのはクリーヴァー王子だった。噂通り入浴が趣味らしい。この時もローブを纏い、湯に浸かりに来た風情だった。
彼の姿を見ただけでさらは変に緊張し、鼓動が速くなった。
ここは婦人用浴室だった。領主家族の婦人達は陽が高いうちに滅多に入浴することはなかった。その為掃除中で、まだ湯も張られていない。
王子が入浴を望むなら、すでに支度の済んだ専用の浴室がある。そちらは使うことに問題はなかった。
それらを伝えることはさら達にはできない。貴人へは下問がなければ話しかけてはならなかった。なので、さら達は緊張しながら彼の言葉を待ち沈黙を守っていた。
さらへ歩み寄る彼の気配が目を伏せていてもわかる。肌が粟立ちそうになった。
「お前、つき合え」
短い命が降った。さらはそろりと目を上げた。踵を返した王子の背が見えた。どうしようもないが、すがる思いでリリ、ココ、スーを見た。王子が背を向けた今、彼女らは口を尖らせてさらに「ずるい」と声にならない声が囁く。
代われるものならぜひ代わってもらいたい。
そうこうしている間に王子は浴室を出ていった。後を追わない選択肢はない。彼は彼女に何を求めているのか。頭を不安でいっぱいにして付き従った。
王子は当然のように専用の浴室に入って行った。そこには彼の担当になっているジジが控えている。さらの姿に鋭い視線を向けた。自分のテリトリーに入って来た者へ敵意を剥き出しにしている。
しかし、さらは彼女の姿にほっとした。二人きりではない。先日の続きを強いられるのではないようだ。
安堵したのも束の間、
「お前は下がれ」
王子はジジを見ずに彼女を手で払った。ジジはさらを睨みつけてから言葉に従い浴室を出ていく。さらの胸の奥が鈍く痛んだ。
彼はさらに構わずにローブを落とし湯に浸かった。彼女はローブを拾い手に持ち、目を彼から逸らして隅に控えた。
「近くに」
「……ご用でございましょうか?」
「近くに」
さらは浴槽からやや離れた場所に跪いた。彼は仰向けに湯に浸り、彼女の方へ手を伸ばした。空をつかむような仕草を見せた。
「姉やによく似ている」
「え」
「僕の姉やに、よく似ていると言った」
「姉や」の意味が定かではないが、婆やの若い版のようなものかも、と理解する。そんなものは襲う言い訳にもならない。返事のしようもなく、さらはそのまま黙った。
「頼めばいいのか?」
「え」
「頼めば無理強いにはならないのか?」
王子の問いが先日の行為を指すと気づき、さらは唇を噛んだ。彼とは関係性がない。「頼めば」済むという感覚がわからない。
言葉を返さないさらに焦れたのか、王子は湯から出た。床に片膝を抱いてぺたりと座り込んだ。目のやり場に困り、さらは彼にローブを着せかけた。
その手を彼が取って握る。力にさらは怯え、小さく悲鳴を上げた。
「口づけてくれ」
王子は無防備な顔を向けた。まるでさらを「姉や」とでも見るように。
彼女はいやいやと首を振った。ねじ伏せられた恐怖がまだ強く残っている。それを見た王子の表情が傷つけられたように歪んだ。
「僕が望めば、皆喜ぶ」
「……わたしは違います」
怯えながらも心の声が噴き出した。彼の気まぐれで体も心も侵されたくない。
この世界に来てからの鬱屈が混じり合った声だったかもしれない。見えない力に理不尽に振り回されて、これ以上傷つきたくなかった。
王子はつかんだままの彼女の手を引き抱きすくめた。そのまま唇を求めてくる。応じることだけは拒みそれに耐えた。
彼の肌の水分が移りさらの服もぬれた。
唇が離れ腕の力が解かれた。すぐにさらは彼の腕から逃れた。