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邸を出て四日後に王都に入った。
セレヴィアの城や貴族の邸とは違う。スクリーンや画面の向こうで見た架空の世界が目の前に広がっている。都市はそれらも飲み込むこの世界そのものだった。さらが今いる場所はサラの知識にもない。
王宮に着いてすぐに彼女は婆やと再会を果たした。以前のトリップとその境遇は同じだ。王子の博士の妻となり厨房を中心に宮殿を束ねている。
「どこにいらっしゃったのですか?! ご無事ならそうと、せめて消息でも下されば、お迎えに上がりましたものを……」
「ごめんなさい、婆や。心配をかけたわね。……怪我の影響で記憶を失って、助けてくれた人に付いて行って、セレヴィアのお城でお世話になっていたの」
「まあ、セレヴィア! また何と随分遠い所に。おいたわしい」
ハンカチを目に押し当て婆やは嘆息している。
これは道中王子が考えたさらの経歴だ。事実と上手く噛み合いぼろが出にくい。彼ともそこで再会したとすれば自然だと請け合った。「ダリアは余計なことは言わない」とも。
婆やから王子がさらを妻として迎えたと知らされていて、宮殿内は概ね歓迎ムードだ。彼はその足で父王への帰還の挨拶に向かうといった。
「帰還の声を無視して滞在が長引いた。父上の機嫌を取ってくる」
背後から従僕が彼の寛いだ襟元を直してタイを締めた。新しい上着を羽織らせる。最後に肩から長く白いケープを優美に流した。
その早変わりをさらはまじまじと眺めた。絵に留めたいような美しい姿だ。彼女が知らない王子の一面だった。
「婆やに中を案内してもらうといい」
そう言い置いて彼女に口づけた。
周囲には人がいる。意に介さずに彼はよくこんな風にした。もちろんさらには気まずさも羞恥もある。でも引き寄せられるとそれもどうでもよくなる。
その行為で、彼が他者への幾つもの言葉や説明を省いていることもわかる。
「すぐ戻る」
王子を見送り婆やがしみじみと言う。
「凛々しくなられましたでしょう。後はお妃様がいらっしゃれば、とばかり思っておりましたが、まさかお嬢様がお帰りになるとは……。お二人が揃う、こんな嬉しいことはありません。本当に長生きはするものですよ」
「まだまだお婆さんではないじゃない」
婆やについて宮殿内を見て回った。サロンと呼ばれる居間が大小、美麗なしつらえの部屋が数多くある。完全にお客気分で、この場所の女主人になることに実感などない。
「明るいお部屋をご用意いたしましたよ」
さらの部屋だという寝室に入った。吐き出し窓からバルコニーに出られる。誘われるように外に出た。欄干に手を置き眼下の庭園を眺めた。風が庭の花の香りを運んできた。
王子の妻になったこと以外、何もわからない。自分に何ができるのかも。
「しばらくお休みになったらいかがですか? 旅のお疲れもあるでしょう」
「ありがとう」
用のある婆やが下がっても、さらはバルコニーで風を受けていた。手を通しての感触と風の肌触りに今を味わった。
(現実感がなくても、わたしがいるのはここ)
どれほど経ったのか。足音に気がついて振り返った。
王子がドアから入ってきたところだった。真っ直ぐに大いな歩幅で彼女の元に来る。
隣に立ち手を握った。
「父上が夜にも君に会いたいそうだ。晩餐には母上も揃う」
「ええ……」
「君なら両親もきっと納得する」
王子は彼女の髪に頬を当てた。彼女に触れている時、彼の表情は和らぐ。さらが自分の今を実感したように、直に触れることで彼もさらのいる今を感じているのかもしれない。
彼女に出来るまずすべきことは、彼の笑顔を引き出すこと。そしてそんな日々を守ること。
気負わずにそれだけを心に留めたいと思った。
王宮での暮らしは穏やかに過ぎた。
正式に婚儀の式典を終えさらは王子の妻になった。父王は息子の連れてきた妻をすんなりと認めた。
「勇敢な婦人だと聞いた。よく息子を支えてやってほしい」
これは彼女が王子の身代わりになって身を投げたことを指す。王子が「両親は文句は言わない」と断じていたのはこのエピソードの為らしい。
もっとも、既に内密の結婚を済ませてしまっているのだから、反対のしようもないのが本音かもしれない。妻は後から増やすことができるという、さらには緩い価値観もきっとあるとは思う。
母親のエイミは生活が安定した影響か、容体が落ち着いていた。ひたすら鷹揚な人で、王の言葉に微笑んで頷くだけだ。満ちた様子なのは見ていて嬉しかった。
ただ、さらをその母親の方と混同していることはよくあった。従姉妹同士で仲良しなのは知っていたし、よく似たさらに令嬢時代のいい思い出がよぎるのならと、いちいち訂正もせずにいた。
さらの日々は邸での生活に大きく変わりない。宮殿内を王子に居心地よく整えておく。違うのは使う人が増え、手を掛けられることも広がった。
セレヴィアの城にあった使用人の食堂を真似たくて、婆やに相談してみた。宮殿内にはそういった設備はない。各自が溜まりや自室で済ますという。朝に一度、その日の分の食事が支給される点もさらには問題に感じた。
「食事の時間に幅を持たせて用意しておけば、都合のいい時に温かいものが食べられるでしょう?」
「セレヴィアのお城はそのように?」
「そう。美味しかったわ。食事の時間が楽しみだった」
婆やの賛同も得てすぐに実現に動き出した。
長く使われていない広間をそれに充て、大きな厨房も新たに備えた。執事に渋い顔をされたが、知らん顔で推し進めた。王子はさらを自由にし見守ってくれていた。
設備が整い運用し出してからは、献立をチェックするのが仕事になった。内容が偏ったりしていれば、これまでと変わらない。
さらの計画は奇異な目で見られていたが、いざ食堂が機能し出すと反応はぐっと好感触だった。実際に彼らの満足した表情を見れば、素直に嬉しい。
「セレヴィアが懐かしいのか?」
王子に問われた。彼には食堂はセレヴィアの城の真似だと告げてある。
あの地は二度のトリップで総じて二年ほどを過ごした。友人もいたし、笑った時間も多い。今も思い出すこともある。
元の世界への郷愁が淡く済んでいるのは、セレヴィアでの濃い思い出のお陰かもしれない。
「それであれを?」
懐かしさの為に食堂を作ったのだと思われているのなら、大きな誤解だ。さらは首を振った。
「メイドだったからよく覚えているの。ここにもあんな場所があったらいいなと思っただけ」
王子は言葉を返さずに彼女の目をじっと見つめた。わずかな揺らぎから上辺とは違った本音を探るように。
(リヴの「セレヴィア」はダリア様のことだもの)
こんな抜き打ちテストは急にやってくる。彼の嫉妬は根が深い。
王子の妻になり一年が過ぎた。
日々、彼は父の王の側で長く時間を過ごす。宮廷での晩餐を好まず、夜はさらの元に帰る。忙しい彼に安らいでもらいたくて、二人の時間を大切に考えてきた。
彼の好む食事を二人でとる。火の前で話したり黙ったままでいたり。寄り添って過ごす。彼からだけでなく彼女からも求めて抱き合った。その合図を彼は喜んだ。
子供のことを考えることもある。そのことを話すこともあった。
「サラは子供のことを嬉しそうに話す」
王子はそう言う。単純に彼の子供を授かりたいが、二人の子供が誕生すれば家族が増える。それはここに根を張り、もう「異世界」ではなくなるように思えるから。
「欲しい?」
「ええ。すぐでもいいくらい」
「君が望むならそうなるといい。……きっといい母親になる」
「わからない、そんなの。でもなりたいわ」
「子供がいれば僕はかすむだろう。それは嫌だ。サラは姉やのままでいい」
我がままで子供っぽい言葉にさらは笑った。でもそれは紛れもない王子の本音だ。彼女は彼に口づけてから囁いた。
「リヴとの子供だから欲しいの。その子の母親になりたいの。いけない?」
「僕がかすまないのならいい」
「それはリヴの方の問題だと……」
彼女の抗弁を彼が口づけて封じた。
(かすまない)
そう感じながら目を閉じた。




