4
旅は続いた。
夕刻、街道を走る車窓からの景色にさらはふと感じた。
既視感がある。
キシリアとセレヴィアに向かう際に通った道なのだろうか。
つい車窓をのぞき込んでいた。その彼女に王子が声をかけた。
「ベローの邸に向かっている」
「ベロー?」
「前の持ち主の名からそう呼ばれている。あの邸のことだ。もうじき着く」
既視感の正体はサラの記憶だ。婆やと共に馬車で向かった。旅の経験のない彼女にはそれは大きな出来事で、景色を目でなぞりながら胸を高鳴らせていた。
かつての記憶は早回しに彼女が迎えた最期に繋がった。恐怖と衝撃のビジョンが甦る。
さらの目が閉じた。
王子が彼女の隣に腰掛けた。腕を取り抱き寄せる。言葉はない。だが、寄り添っていると安心する。過去のビジョンは頭の中にしかないと割り切ることができた。
彼の言葉通り馬車はほどなく敷地に入った。建物を抱きしめるような鬱蒼とした庭の木々が目に映る。
出迎えの人々の数に以前の邸とは違うと認識できる。サラのなじんだあの邸には使用人はごくわずかだった。
中に入った途端、思い出が波のように胸に押し寄せてきた。
昼なお暗い邸内はサラの記憶そのままだ。ふと壁に触れていた。シミのある壁紙の様子、照明の配置、玄関から中央の大階段……。
何も変わらない邸の中で知らない人々が動いている。過去そのもののような空間に、確かに時間は流れていた。古びているが、人の手を入れられている生きた邸がそこにある。
居間に入った。暖炉には火が入れられている。隅の椅子で王子の博士が居眠りしている姿も浮かびそうなほど。
「ここへは来るの?」
「他出した時に都合が合えば寄る。年に二度ほどか……」
それは多い。別荘にしてもそれほど使わない人もあるだろうに。そう思ったが、口にしなかった。
「きれいに保たれているのね」
「振るといい」
王子は呼び鈴を鳴らすように顎で示した。テーブルの呼び鈴を手に取った左右に振る。いい音がしたしばらく後にメイドが現れた。
ちょっと驚いた。
「あ……、そう、お茶をもらえるかしら」
メイドが下がり、手に持ったままの呼び鈴を静かに戻す。振ったが人が来ることは考えなかった。
サラの知る邸では人手がなく、呼び鈴はあまり用をなさなかった。そもそもお茶や食事などは自分で用意していたから。
その彼女の様子に王子は薄く笑った。
お茶の時間もさらはどこか上の空だった。目は自然にあちこちをさまよう。過去の中に今の自分がいるかのような感覚は、王子の姿を見ることで正された。彼は過去の彼ではない。
(ここでリヴは時間を止めているのかも)
「海を見るが、君は嫌か?」
海が見えるのは邸の裏手から向かう崖だ。サラが身を投げた場所。
怖い気がするが、そのことで過去の恐怖を克服できるようにも思えた。忌まわしい記憶になる前は、二人が頻繁に訪れて密な時間を過ごした大事な場所だった。
頷くと王子は彼女へ手を差し伸べた。あの頃のように手を繋ぐつもりらしい。
彼に預けた彼女の手はその手のひらにすっぽりと包まれてしまう。
それを知っているはずなのに、今さらに驚く。過去の感覚でいたから。リヴの手の大きさに驚いてしまう。もう十五歳の彼ではなかった。
風が吹いている。潮風は冷たく彼女の頬をなぶった。王子が上着を脱いで彼女の肩に羽織らせてくれる。彼の襟のスカーフが風に長く流れた。
崖の突端まで行かずに足を止めた。十分に海は見れたし、さらは崖とも向き合えた。恐怖もあったし怯えも残っている。それは克服するものかもしれないが、消えるものではないのかもしれない。それでもいいと思った。
王子が彼女を抱き寄せて口づける。それは優しい口づけではなく、以前の彼の執拗な奪うようなキスだ。
受け入れて応じながら感じた。彼女と同じように彼も心に傷を負ったままなのだろう、改めて深く納得がいった。
この崖を見て、自分の傷を直接のぞいたからこそ知れた彼の痛みだ。
「もうここには来ないで」
唇が離れた時、さらの口からその言葉が出た。ここに来ることは彼の心に不健康なのではないか。過去を懐かしむのではなく、帰らない過去に溺れているかのようだ。
それに答えず、王子はさらの手首に目を落とした。
「二つ作らせて、一つをここから投げた」
投げたその腕輪が時空を渡り、元の世界に帰ったさらの前に現れたのかもしれない。答えの出ない思いつきは、そうであって欲しいから浮かぶ。よりロマンチックでときめくから。
あの腕輪は消えたが、さらの腕には王子がくれたものが残っている。腕輪は一つだけが残った。けれど今二人がここに揃っている。
彼が来る必要はもうない。ここは過去に浸る為の墓標のような場所だ。
おそらく明日にはここを立つ。戻って邸の中を探索してみたかった。あの頃王子が好きだった屋根裏部屋はまだあのままだろうか。
王子は風に髪をなぶらせている。促したくて彼女が腕を引いた。
「姉やは僕を嫌いにならないか?」
問いが訝しかった。どんな答えが欲しいのか。
「リヴだもの」
彼が彼女の頬を両手で挟んだ。きれいな鼻梁。凝らしてみるのが癖の青い瞳が彼女を見つめている。吸い込まれそうに思う。
考えつくのはさらの他の女性の存在だ。ダリアも言及していた彼の「他の女方」について。王子は彼女を王宮に迎えると言ってくれたが、その先はわからない。どういった立場に置かれるのか。「他の女方」に連ねるつもりでいるのか。
(ハーレムの一員になるのは嫌)
彼を嫌いにはならないが、一緒にいることは難しいと思う。
男女の関係にならなくとも純粋に「姉や」としてなら接していけるかもしれない。それを彼が望むかは不明だし、彼女自身も「姉や」であり続けることの想像がつかない。
(妻にするともう言ってくれないのは、できないから……?)
胸が塞ぐ。
ふと視線が落ちた。
額に彼が唇を寄せた。何か小さく呟いている。囁くようなもので聞き取れない。
「何?」
「……は汚い」
欠けた部分に「僕は」が入るのだろう。言葉の意味は、彼女の中のもやもやの延長で女性関係が乱れていることを指すのだと察しがついた。
彼女がSNSをフォローした王子に激似の海外のアーティストも私生活が乱れまくっていた。雲の上の人たちの行動を見る側のモラルで推し量っても意味がないだろう。王子も然り。
(有名な『〇〇夫人』は何番目の奥様だったっけ?)
さらの悩みをよそに王子は彼女を抱きしめた。きつく腕に包まれると考えもとっ散らかってしまう。
(四番以内だったら、世間的に許容範囲かも……)
どの世間を指すのか自分でもわからない。
「怖い」
「どうして?」
「君がまた消えそうで怖い」
王子は彼女を抱きながら微かに震えている。こんな場所に長くいるのがいけない。風も冷たいし、嫌な過去を思い出しそうでもある。
「戻りましょう。もっと邸の中を見たいの」
「……僕が、…………していても、許すのか?」
「許すわ」
途切れた言葉を問い返さずに彼女は即座に答えた。
背のすらりと伸びた今の彼の中に、彼女が慈しんで育んだ小さな彼もまた存在する。いつでもその姿が感じられた。彼の何かを許すことは、その小さな彼を許すことと同じだ。ごく易しい。
「僕は父の妻を殺した」
告白は想定を凌駕した。さらは驚きに息を飲みしばらく時が止まるのを感じた。




