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スマホが鳴った。相手を確かめてから着信を切った。伯父だった。
あの見合いの日から連日電話が鳴る。従兄弟の功輔がさらに遺産の事実を話したことを両親に告げたのかもしれない。
謝罪なのか言い訳なのか、どちらでもいいが、仕事終わりに声も聞きたくない。
駅を出て自宅に向かった。
夕食には蒸しパンを作ろうと考えている。婆やのレシピでサラがよく作ったものだ。手近な食材でできるから、あの世界から帰って以来何度か試している。チーズやツナなど入れるとボリュームも出て食事にぴったりだ。
角を曲がってじき自宅、というところでアプローチに立つ人物が見えた。
(伯父さん)
仕事帰りなのかスーツ姿だ。角で立ち止まったさらを伯父が見つけた。手を振っている。
しばらくためらった。
今は伯父との接触を避けたい。思わず背を向け着た道へ戻りかけた。
しかし体の向きを変えなかった。仕事を終えてからの寝るまでは、黄金のように貴重な時間だ。思い止まったのは、それを伯父に奪われることへの反発心だ。
彼女は手を振り返さずに自宅に歩を進めた。家の前で伯父は大袈裟な態度で迎えた。
「もう薄暗いな。女の子が一人では不用心じゃないか? 昼間にかけた電話に折り返してくれたら、駅まで迎えに行ってやったのに。遠慮しないでいいぞ」
自宅があるのは住宅街だ。六時過ぎの今、女子高校生でも駅から何人も歩いている。
いつになく伯父の声が柔らかい。その態度の豹変も気味が悪かった。
さらは腕を組んだ。
「何の用? 忙しいから帰って」
「何だ? とりつく島もないのか? そうツンケンするな。萩原君との話を教えておこうと思ってな」
「見合いはお断りしました。その話は聞かない」
「そう言うな。……こんな外で話せる話題でもないだろ。相当お前が気に入ったらしいぞ。せっつかれて大変だ」
伯父は門扉に手をかけ敷地に入ろうとしている。さらには伯父を家に入れる気はない。
「帰って。話すことはないから」
「その態度は何だ。目上の者に対する礼儀も知らんのか?! 見合いの件を知らせなかったのは、こっちに落ち度があった。だからこそ折れてやっているのに、いい気になって何様のつもりだ」
伯父はもう声を荒立てている。従順だった姪の反抗に驚きつつも許せないのがわかる。これまでと同じに強い態度で出れば、言いなりにできると踏んでいるのだ。
「パパとママのお金のこと……」
「それは誤解だ。功輔が何を吹き込んだか知らんが、うちがもらったのは正当な取り分だ。誤解するなよ」
「どうだか」
「お前の父親は私に借金があったんだ。それを返してもらっただけだ」
「何の借金?」
「何のって……、色々だ。あれは確か、車関連だ。海外旅行の金もある」
車や旅行に何千万も費やすセレブとは月とスッポン。普通の会社員だった父は高級車にも乗っておらず、海外も台湾に安いツアー旅行がせいぜいだった。
この期に及んでも下手な言い訳を持ち出す。さらは呆れと怒りが混じり合い唇を噛んだ。
「とにかく帰って下さい」
「そんな態度はないだろう?! さら、我がままはみっともないぞ!」
怒鳴り声に近い声に、通行人がこちらをうかがっている。隣家の女性もドア越しに不審そうにこちらを見ている。若い女性に中年の男性が無理を言い威嚇している、そのものの構図だ。
「さらちゃん、大丈夫?」
隣家の女性が声をかけてくれた。挨拶程度の関係だが、気遣いがありがたい。
その女性に伯父が向かい、貼り付けたような笑顔で返した。
「お騒がせしてすみません。このこの伯父です。何でもないんですよ」
さらは女性に深く頭を下げ、伯父を残して門扉を抜けた。玄関を開けていると背後に伯父がいたが、もちろんお断りだ。
「帰って下さい」
それだけ告げ鼻先でドアを閉じた。すぐに中から施錠する。しばらくインターフォンの嵐が続いたが、当然無視した。
のち、モニターで確認したが、諦めたのか伯父は帰ったようだ。
予定通り蒸しパンを作りながら、このまま有耶無耶にはできないと悟った。
こんなことはもう繰り返したくない。面倒から逃げていても、また別な形でそれはやってくる。
(禍根を絶たないと)
蒸しパンを食べながら友人に連絡を取った。高校時代のその友人の父親が司法書士をしていた記憶があった。
(あれ、行政書士だっけ?)
ともかく法律の専門家だ。知らない法律事務所にいきなりは敷居が高い。迷惑でなければ、彼の父に相談に乗ってもらうつもりだった。
三週間後。
さらは友人と焼肉店にいた。先日伯父の件で連絡を取った彼だ。
その彼の父親のお陰ですんなりごたごたは片付いた。専門家が出て来るとたちまち伯父の威勢は萎んでいった。素直にさら両親の遺産を勝手に借用した事を認めた。
「警察沙汰だけは」
と平謝りだったそう。さらはその場にいないから友人からのまた聞きになる。被害届を出さない代わりに、即金で二千万円。残りは分割という形に落ち着いた。
使い込んだ分も大金だ。返済が滞ることも予想される。契約書だけでなく公的な証書を作成した方がいいのでは、とアドバイスも受けた。それがあれば、返済の不履行時に強制的に取り立てることが可能になるいう。
それは伯父の給与を差し押さえることだ。伯父一家を不幸にしたいのではない。そこまでの覚悟はさらにはなかった。
友人の父も返済の遅滞があれば、
「勤務先に督促状を送付します」
と忠告してくれたそうだから、成り行きを見守ろうと思っている。
(伯父さん見栄っ張りだから、会社で噂になるのだけは避けたいだろうし)
「リフォーム代で全部使ったのかと思った」
「普通の住宅で四千万超のリフォームはないだろ。蓄えにとって置いたんだってさ。姪から盗んだ金を貯金って、発想がすごいな」
友人はふっくらした体を揺するようにして笑った。凄い勢いで肉を食べている。
担当してくれた彼の父は「息子の友達から金は取れない」と実費のみの請求を譲らなかった。散々礼は言ったが、せめての埋め合わせに、彼に焼肉をおごっているという訳だ。
「いいの? プロのお父さんにお手数かけたんだけど」
「いいよ。親父が本当に要らないって言ってるんだから」
代わりに彼は健啖ぶりを発揮して、また追加注文のベルを鳴らしている。
この彼とは高校時代、図書委員で知り合った。互いに本好きで話が合った。元はと言えば『廃宮殿の侍女』もこの彼からの勧めだった。
「ねえ『廃宮殿の侍女』覚えている?」
「もちろん覚えてるけど、何?」
「扉の作者のメッセージ、……最初からこれだった?」
さらは今日この話もしたくて本を持ってきていた。テーブルに広げると彼が眉根を寄せた。
「油が飛ぶからこんなところで本を広げるなよ」
「ごめん」
網から距離を取って、彼に扉部分が見えるように広げた。友人は箸を片手に目で字を追っている。
『物語に生きるヒロインに息吹きを』。
今はこれだ。
しかし、さらの記憶では、
『私の中の生きている彼らに息吹を』。だったはず。
「どうだろ、お前ほど読み込んでないから何とも……」
「そっか。そうだよね」
本をバックにしまう。
「著者はヒロインの侍女の目線でそう書いたんじゃないのか? 紆余曲折あった末、ダニエルと結ばれるから」
友人はそう言って、いい焼き目のついた肉を嬉しそうに頬張った。大分満腹に近い彼女は皿の肉もちょっと持て余し気味だ。
「え」
今、友人から聞き捨てならない言葉を聞いてさらは箸を置いた。
(侍女がダニエルと結ばれる?)
絶対にそれはない。
彼女は『廃宮殿の侍女』を二十回は読んだ。友人はほんの数回程度だから、記憶違いをしているのか。物語で侍女は徹頭徹尾傍観者だ。主人一家の緩やかな没落を恋心と共に眺めて終わる。
ラストで舞台の廃宮殿は閉じられる。侍女もそこを静かに去るのだ。直近では、異世界に行く前に読み返した時も間違いなくそのストーリーだった。
驚いた顔のさらに、友人はきょとんとした様子だ。
「酔ってんの?」
「酔ってない」
酒に強い方ではないが、グラスにまだ半分のビールではさすがに酔えない。
「ダニエルが家の建て直しに馬の繁殖を手がけるだろ。それに一族が反対して家が割れたじゃないか。侍女はダニエルと共に残って荒廃した邸を盛り返す」
「それじゃ、ハッピーエンドじゃない」
「そういう話じゃないか。ハッピーエンドでいけないのか?」
不思議そうな友人を置いて、さらは本を取り出した。ラスト辺りをパラパラと繰る。彼の言うように、侍女はダニエルと邸に残っている。
さらは狐に摘まれたような気分だ。記憶と違い混乱していた。
しかし、実際の『廃宮殿の侍女』は記憶に濃い寂寥感の漂うエンディングではなく、明るい未来を感じさせながら物語は幕を閉じている。
簡単には認められないが、現実はそれを突きつけてくる。
記憶の方を引っ込めるしか折り合いがつかない。




