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(何の為に入って来るの?!)
さらは慌てたが、すぐに行動を決めた。アンに向かう。
「事情があって、身を隠したいの。奥の納戸に入っているから、お願い、知らんふりをして」
さらの言葉にアンは目を丸くしたが、必死な様子にじき頷いた。
「できたら、後で訳を教えて」
彼女は頷き返し、厨房を飛び出した。廊下をまっすぐ奥へ走り、角を折れたところで背後に玄関からの靴音が響いた。
(危ないところだった)
さらは振り返らずに納戸の扉を開け中に入る。不用品をしまう物入れで窓もないからかび臭い。その中で腕を抱いて息をひそめた。
扉の向こうでは靴音が近くなっている。それが遠くなり、階段を上がる様子がした。王子は校舎を検めているようだった。そうするのは先ほどの従者の言葉を信用しなかったからだ。
どれほどかして、階下に降りてくる気配だ。もう帰るだろう。そう思ったところで、靴音が近づいた。
さらのいる納戸の対面に居間があった。彼が今検めているのはその居間だ。午後は通いの先生も帰り、無人になっている。
「そちらは納戸です。何をお探しでしょうか?」
アンの声だ。王子の行動が不審でついて来たのだ。
「……先ほどのお食事でしたら、……わたしがご用意いたしました」
「『村の小娘』はいないと?」
「はい……」
アンの返答が歯切れ悪いのは嘘をついているからだ。それを強いた自分を苦々しく思った。
彼らは扉のすぐ外にいる。薄い板を隔てただけのそこに今の王子が確かにいる。
(リヴ……)
今にも納戸の扉が開くのではないかという怯えに混じり、心は高揚してもいた。
避けても逃げても、さらの中で王子は圧倒的な存在感を持つ。
「お供の方が『村の小娘』とお伝えしたのは、わたしがそのように見えたからでしょう。都会からいらした方にはこちらの女は田舎者に見えますわ」
「……あれは誰に習った?」
「さあ……、昔メイドが作ってくれたものを、見よう見まねで再現しただけのものです」
「……僕の姉やも、同じものを作ってくれた……」
靴音が離れていくのがわかった。もう戻ることはない。
(あきらめた……)
王子が校舎の中を検めて回ったのは衝動だ。それのきっかけが彼らに振る舞った果実のシロップと蒸しパンだ。そのどちらもサラは邸で王子によく食べさせていた。
同じ味だからといって、それを作ったのが常識的にサラである訳がない。彼女は死者なのだから。
しかしそれを超えて、死者を探し回るほど味覚の記憶は彼の中で生々しい。
気配が遠のいたのを十分に待ってさらは扉を開けた。辺りにひと気はない。音を消す為靴を脱ぎ、手で持って階段へ走った。つま先で駆け上がる。
彼らは表にいるはずだ。さらの寝室から校舎の前が見通せる。王子の衝動をもの悲しく思ったが、彼女のこれも同じ衝動だった。
窓辺に立った。案の定校舎の前で騎馬する彼が見えた。供人は堅い上着を纏っていたが、王子はシャツにマントを羽織っただけだ。首元に青いスカーフが見えた。
危なげなくはらりと鞍にまたがる。陽を浴びて青味がかった髪色がサファイヤを思わせた。サラが知るより背が伸びた。もうとうに彼女を越している。華奢な雰囲気はそのままに、繊細で優美な少年の晩期を迎えていた。
斜めを向いたその顔に目が吸いついて離れない。
先に王子たちがさらの視界から外れていった。涙で眩い景色が曇った。
堪えきれずに嗚咽が出た。顔を覆い涙に溺れた。何の涙かもわからずに溢れた感情を流してしまいたかった。それで楽になれると思った。
背後でノックの音がした。慌てて涙を始末する。
アンだった。
「ごめんなさいね、邪魔をして……」
「ううん。こっちこそ、色々とごめんなさい」
子供たちはまだ活動時間だ。世話係が自室でめそめそは許されない。王子一行が去り、子供たちの声はあちこちでもう賑やかだ。
「お知り合いなの、あの方と?」
二人で階下に降りながら、アンが聞く。隠すつもりも誤魔化す意図もなかった。さらは頷く。
「理由があって会えないの」
「深刻そうね」
小さな子がアンに抱きついてくる。その子を抱え上げてやりながら、
「夜に聞かせて。話すと楽になるわよ」
と微笑んだ。さらは素直にその笑みを温かいと感じた。
迷い込んだ世界だった。右も左もわからず、戸惑いながら過ごしてきた。今彼女が立つ場所は、出会った人々の優しさに導かれたものだ。
何ものにも代え難い幸運だとさらは噛みしめた。
子供たちをベッドに落ち着かせた夜。
さらはアンと居間にいた。そこで問われるままにここに至った経緯を打ち明けた。ダリア、キシリア姉弟、他婆やに話したのとほぼ同じ内容になる。さらの生まれ育った元の世界のことと『セレヴィア点』のことは混乱させるだけなので、今回も省いた。
途中アンは息を止めるような表情を見せ、眉をひそめるなどした。不可思議な話で受け入れ難いのはさら本人も同感だった。
「……それが、あなたが王子様にお会いできない理由なのね」
「いずれ、彼らは王都に帰る。それまで時間が稼げれば済むの」
アンは唸って腕を組んだ。さらはお茶を入れるために立ち上がった。用意して彼女の前に差し出す。
カップの湯気を前にアンが口を開いた。
「死んだサラが甦ったのではなく、どこかで傷を癒していた。その後何かがあって、記憶をなくして浜辺で行き倒れていた……。とういうのではないの? それならわかるわ」
さらは首を振る。振り返りたくはないが、邸裏の切り立った崖から飛び降りて救かる見込みはほぼゼロだ。強い衝撃は痛みを感じるよりも前にサラの意識を奪い、彼女は絶えた。
「ごめんなさい、変な話で受け入れられないわね」
「謝ることではないわ」
婆やに打ち明けた際は「天の御業」で全てカタがついたのは、元のサラを知っているからだ。確かに死んだ彼女が目の前に現れれば、不可思議も納得せざるを得ない。
「それでいいの?」
アンがさらを見つめる。
「お会いしないままでいいの? 次の機会はもうないと思うわ。あなた、王子様を隠れて見送りながら、とても辛そうだった。泣いている姿を見たら、わたしまで切なくなったもの」
密かに王子を眺めていた時、激しく感情が揺さぶられた。胸を絞られるようなそれにさらはただ耐えた。何の胸の痛みかもわからなかった。
アンの言葉にあれは切なさだったと思い知る。
大事なものでありながら、手にすることができない。許されない。王子の成長を眩く感じながら見送るしかなかった。
「あの方夢中でいらしたわ。「姉や」のものと同じ味だったから、ここにサラがいるに違いないと信じきっていらっしゃった。目当ての人がいないと悟ると、まるで夢が覚めたみたいに悄然となさった……」
会っていないのに、王子のその表情がさらの目に浮かぶようだ。それでまた切なくなる。
アンと話すことで楽になるどころか、さらの心は切なさで乱れていく。
それは彼の姿を見てしまったからだと思う。心の思い出の彼ではなく動く生き生きとした今の彼を目にし、サラの思いが過去から今のものになった。
サラの愛情は今も王子に注がれている。
(今のリヴに)
さらはそれを心の底で知った。
そこで突き動かされるように、不意に感じた。理屈ではなく心が求めている。
(会わせてあげなくちゃ)
サラの心はさらの心だ。別れも分かれもしない。どこからかがさらの思いで、どこからがサラのものか。自然そんなことを考え考えしていた。
(そうじゃない)
切なさに泣いたのも王子の執着に怯えるのも同じ一つの心からだ。
その一つが会いたいと切に願うのなら、会うべきだ。『セレヴィア点』の記憶を引きずる怯えはさらのエゴでしかない。今の王子はあの王子ではないのだから。
「会うわ」
意見を変えたさらにアンはちょっと驚いた風だ。しかし、自分の言葉がさらの心を動かしたと考えたようだ。それはある意味事実だ。アンと話さなければさらの気持ちは変わらなかったのだから。
「それがいいわ。婆やさんを介していたら伝わらないこともあると思うの」
アンはさらへ便箋を差し出した。いつも彼女がそれで「伯爵」に手紙を書いている。
「書いてお城へ届けるといいわ」
さらは頷いた。まずは婆やに手紙を書くことだ。




