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さらはベルが鳴る音で目が覚めた。
反射的にベッドヘッドの目覚まし時計を手で探った。しかしそれはなく、手は空を切って落ちた。
(まだこっちにいる)
目覚めと共に事実が頭に染み入った。急いで起き上がり、着替えを終えてベッドを直す。メイド頭による部屋の抜き打ちチェックがある。乱れていれば残業の罰が与えられた。
「おはよう」
「おはよう」
部屋は二人部屋で厨房の十五歳の女の子と同室だ。身だしなみを整え部屋を飛び出す。溜まり場でリリ、ココ、スーの姿を見つけその仲間に入った。こちらも二週間を過ぎ、三人とは親友のようになっていた。
メイド頭のリビエからお客の訪問を知らされる。
「王都からクリーヴァー王子様がご到着されるわ。掃除を念入りに頼むわね。広間は朝のうちに絨毯の埃を叩いておいてちょうだい」
広間担当のメイドたちが頷き合っている。客間担当、廊下担当もそれぞれ指示がいく。
「浴室もいつもに増して磨き上げてちょうだい。クリーヴァー王子様は入浴がご趣味なの」
浴室担当のさらたちも頷いた。ミーティングが終わるとそれぞれが持ち場に散った。リビエはジジを呼び、何かを言いつけている。
内区の浴室は大小あり、更に男性用女性用と別れ一日仕事だった。備品やリネン類の補充も仕事のうちで、また花を飾るなどの気配りも怠れない。
作業の準備をしたところで朝食に向かう。使用人たちは大食堂に食事が用意される。決して粗末なものではない。温かなスープと柔らかく焼きたてのパンがバターと共に供された。量も多い。こちらにコーヒーはなくミルクを入れたお茶を飲む。
日々のメイドの仕事は辛いこともある。早朝から起こされて自由も少ない。それでもさらは食事の間はほっと息がつける気がしていた。
(ご飯って大事)
スープの豆を咀嚼しながらしみじみと思う。異世界に二週間超。我ながらのんきだが、深刻になったとしてどう事態が好転するのか。
「ジジったら、ずるいわ」
「どうして?」
「サラは気づかなかった? ジジがリビエに呼ばれていたでしょ、あれ、またクリーヴァー王子様のお部屋担当になったのよ」
「どうしてずるいの?」
「いつもの浴室担当から外されるし、仕事はうんと楽になるわ」
「クリーヴァー王子様はダリア様とお親しくてね、セレヴィアにたまにいらっしゃるの。さすが生粋の王都育ちで洗練された素敵な方よ」
「そんな方のお部屋担当だなんて、ずるいじゃない」
「ジジがお部屋担当に選ばれるのはどうして?」
「顔よ」
「もしかしたら……、もあるかもしれない。もしクリーヴァー王子様のお手がついたら、ジジが側室様になるなんてことも!」
「それは許せないわ。「ジジ様」なんて絶対に呼びたくない」
お茶を飲みながらリリ、ココ、スーの話に頷いた。ここに暮らして、ジジの孤立ぶりにはとうに気づいた。いつもつんと澄まして仕事の手を抜くのが上手い。さりげなく責任を人になすりつけたりもするようだ。
周囲の評判も我関せずというか。それでも目を引いてしまうのは、その容姿の美しさだ。陶器のような肌も大きな緑の瞳も魅力的だった。
そんな彼女が賓客のお部屋担当になるのは納得がいく。
「今回が初めてじゃないのなら、慣れているからではない? 王子様のお好みとか…」
「考えたくないけれども、もうお手がついてしまったとしたら……。きゃあ!」
「嫌だ!」
「無理!」
リリ、ココ、スーが小さく悲鳴を上げると、側でテーブルを叩く音がした。はっとして顔を向けるとそこには管理官が腕を組んで立っている。
「いつまで油を売っているんだ。どうしようもない小娘たちだな、四人とも減点だぞ」
「すみません!」
さらたちは弾かれたように立ち上がり、食器を持って席から離れた。背中にまだしつこく管理官の叱責が追いかけてきた。
「奉公は手を動かすだけではない。心からも忠誠を捧げるものだ。それこそが……」
さらは怖いもの見たさで背後を振り返った。そこには地団駄を踏んで怒っている管理官の姿がある。さらの世界の理事長にどこといって似た部分はないのに、なぜか雰囲気は瓜二つだ。
初めて見た時はぎょっとなった。しかし、どこにでもあんな人物はいるものだと納得もしている。謎も不思議も掘り下げても無駄だった。答えはない。
管理官から離れるとおかしさが浮かびくすくすと笑い合う。まるで癇癪を起こしているような様は距離を置けば滑稽だった。
浴室に向かう途中、中庭を横切って当主のダリアが表区の方へ向かうのが見えた。さらは食い入るようにその姿を追った。日に一度か二度。見かけない日もあるが、彼を目にすることはあった。
颯爽としたその姿を見れば、心がぽんと跳ねた。一人になって思い返せば頬が緩んでしまう。たったそれだけのことでも、この世界にいる意味があるように思う。
(馬鹿みたい)
向こうはさらの存在も忘れているはず。意識にもない。哀れんで住まいと仕事を施してくれたのに過ぎないのだから。
忙しく仕事をこなした。床磨き壁磨き、鏡磨き……。昼食を挟み、仕事が終わったのは夕暮れ近く四時だった。お茶の時間だ。食堂で軽食とお茶が出る。ここから就寝の十時まで待機の時間だった。交代で夕食をとり、またはそれぞれの用事を済ます。個人の洗濯や入浴なども慌ただしくこの時にこなしてしまう。
少し前にクリーヴァー王子が到着した。中庭に使用人が集められ出迎えの辞儀をした。遠目に見た王子は黒髪の美少年だった。後で二十歳と聞き驚いた。ほっそりとしてほんの十五、六歳ほどかと思ったから。
その王子は長旅の疲れを早速入浴で癒しているようだ。
食堂のベルが鳴った。種々あって、その違いで呼ばれた場所がわかる仕組みになっている。客間からと大浴場からだ。さら達は立ち上がった。
「四人も要らないのじゃない? 大したご用じゃないわ。先に洗濯していいわよ」
リリの声にさらも頷いた。了解したココとスーが自室へ去った。洗い場が混み合う前に洗濯を済ませたいが、用事が済めばココ達と交代すればいい。
大浴場の控え間に着くと、つんとして立つジジが王子の為の飲み物を持って来いと言う。
「自分で厨房に走ればいいじゃない」
「その間にクリーヴァー王子様のご用があればどうするのよ。馬鹿な人達ね」
と、ジジはあちらを顎で示した。厨房の方角だ。早く行けということだ。リリの目は三角になった。よほど癇に触ったらしい。
(言い方もきついし、一々が余計なのよね)
さらはこちらの日が浅いので、どこか客観的だ。頭にも来ない。
「リリは洗濯してきたら? わたしが厨房へ行ってくるから。一人で平気よ」
宥める為に勧めるとリリは素直に従った。実際王子の飲み物くらい一人で十分だった。
厨房でジジから頼まれた飲み物を持って大浴場にとって返した。早く洗濯にかかりたい為小走りになる。絨毯を敷いた廊下は足音が立ちにくい。不意に右の廊下から人が現れぶつかりかけた。
男性で使用人かと思ったが、身なりが違う。あ、と気づいた時には盆のボトルとグラスを落としそうになった。
それはダリアだった。彼はさらが落としかけた盆を支えてくれた。黒いシャツの襟元が広く開いている。城でそんな楽な姿が許されるのは彼だけだった。
さらを見る目が細まった。彼女の存在を認識しているようだ。
「城には慣れたか?」
さらは感激と緊張で唇が震えた。適切な返事がすぐに出て来ずもどかしい。浅い呼吸の後でようやく口を開いた。
「ありがとうございます。…何とか頑張っています。皆さんよくしてくれます」
「記憶がないと言っていたが、何か思い出したことはあるか?」
「いえ……、何も」
「そうか。帰りを待っている家族もあるだろうに」
(それはいない)
十六歳の時にさらの両親は事故で亡くなっている。きょうだいもいないから、それ以来一人だ。悲劇から年月も経ち心の整理もついている。何かと支配的な父方の伯父を重荷に感じるほどに孤独にも慣れた。
「領内に触れを出し、行方不明の娘がいないかを探させている。今しばらく待てば、名乗りを上げる家もあるかもしれない。気を落とさずに待て」
「ありがとうございます」
さらの身を思い遣ってくれるダリアの言葉が嬉しい。
この世界に来てパニックにならずに過ごせているのは、わからないことを考え過ぎて自分の作った恐怖にのまれなかったからだと思う。その時その時に「良かった」と感謝して今に集中してきたからだ。
それでも不安は必ずあって、その感情を流す為にひっそりとベッドの中で泣くこともある。そんな心の脆い部分をダリアの言葉はくすぐるように触れた。
説明のつかない感情がこの時込み上げた。盆を手に持ったまま瞳から涙が溢れる。自分でもその理由がわからない。
「どうした? どこか痛むのか?」
そう問う彼は少し戸惑っているようだった。
さらは首を振り、片手で涙を拭った。
「大丈夫です。失礼しました」
その彼女をしばらく眺め、ダリアはすっと身を翻した。
その背を見送った後もさらはしばらく動けずにいた。胸が高鳴ってどうしようもなかった。
(嬉しい)
この世界にいる今を幸せに思った。