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「ねえ、リヴの話を聞かせて。あの方……、襲撃の後どうなさったの? 黒ずくめの男たちはあれからどうしたの?」
さらの口から問いが溢れた。彼女の側にも知りたいことは多い。
「邸を探した後で慌ただしく去っていきました。騒ぎにエイミ様が不安定になられましたし、皆が不安がりました。そんな中、王子様がサラ様を崖下に見つけられて……」
王子は彼女を助けようとしたという。邸の使用人を呼び集め崖へ連れて行った。しかしそこで、改めてサラの酷い遺体を目にすることになる。
「王子様は大きく目を開かれて、崖下を見つめて立っていらっしゃった。波がお嬢様をさらってしまって、その後もずっとその場を動かれなかったのです」
サラは婆やの手を外し口元を覆った。無意識の仕草だったが、声を抑える為だと後で気づいた。
「涙をぼろぼろこぼされて、華奢な肩を震わせていらっしゃったのは、今でもよく覚えておりますよ。まるでお邸に来てすぐの頃のような、痛々しいお気の毒なご様子でした。随分長くお話になりませんでした」
「そう」
聞きながら胸が痛む。
どれほど彼は傷ついたのだろう。それを思うだけで堪らない気持ちになる。
男たちの襲撃とサラの死。邸は意思を失い暗く沈んだ。その二日後に王宮から王子の迎えに使者が現れた。
「陛下直々のお沙汰もあって、王子様とエイミ様はそのまますぐ邸を払って王宮にお帰りになることになりました。それと前後して、王妃様が療養に後宮を出て離宮に移られました。憚られることですが、お邸の襲撃は、ご実子の第一王子様の将来のお為に第二王子様を亡き者にせんと謀った、王妃様のご指示だったことが露見したと……。後に噂で聞きました」
その辺りの話はダリアから聞いたものと重複する。さらは頷いた。
襲撃の少し前に、王子は王籍を離脱する意思を王宮へ送っていた。身軽な身になり、鄙びた地でいいからサラと自由に暮らしたいと願った。邸に王の迎えが訪れたのは、王子の意思を知った父王の反応に思われた。
もしくは、王妃の企てた陰謀を知って王子を守る為のものか。
ダリアは王命でエイミ母子を邸に送り届けている。王宮からの迎えは襲撃の直後と言っていい。王が二人の安否を知る手筈はあったのかもしれない。
「婆やはどうして王宮に?」
「王子様がそのようにご指示なさいました。ご一行に入れていただいて王宮に入りました。宮殿のお食事に関して全て任せて下さって、今では婆やは王子様の婆やもしておりますよ」
(なるほど)
王子は幼い頃から食事の問題を抱えていた。それが成長も阻害していたほどだ。高じて偏食になった。婆やを伴ったのは王宮での食事への不安からだったのだろう。彼女に任せれば邸と同じものを食べられる。
「アマリア夫人という呼び名はなぜ? 婆やの姓ではなかったわ」
「お邸にいたグレーズ博士を覚えていらっしゃいますか? 婆やはあの博士の妻になりました。彼の里の地名にちなんでそのように」
「まあそうなの?! 驚いたわ」
王子の進講役の博士の妻なら婆やは随分と出世したことになる。上品なのはドレスだけではなく、婆やそのものが上流夫人に環境が変わってしまっている。
「幸せなのね?」
「お婆さんになってから人に望まれるのはそりゃ嬉しいものですよ。主人も禿げたお爺さんですが、仲良くやっています」
「そう。よかったわ。わたしも嬉しい」
婆やの幸せは心から嬉しい。しかしさらの目には違った世界の幸福に見えてしまう。婆やとの間には交われない深淵があって、眺めることはできても触れることはできない。
婆やの満ちた微笑みを見ながら、それがなぜか今心に痛い。
(わかっていたことじゃない)
婆やの説明では、王子は王宮に帰ってからは生活が激変したという。まず近衛が彼を警護し近くでは側近衆が控えている。
遅まきながら剣と馬術も身につけた。父王との距離も近づき、良好な関係を築いているようだ。
サラの知らない王子の日々を想像もできない。
「そうそう、婆やが王宮に参ってすぐのことでした。厨房から追い出されたのですよ。素性も知れない田舎者の言うことなど馬鹿にして、聞く耳もありゃしませんよ」
「それでどうしたの?」
「今の主人の博士を頼って、王子様にお願いしていただきました。婆やが厨房の外でしょぼくれて立っておりますでしょう。そこへ王子様がいらっしゃいました。皆を集め、その前でわたしを王子様の側近頭に任命なさったのですよ。その上で「婆やはそなたらの上官だ。従え」と。怖いお声でおっしゃるのですが、こちらは胸がすっといたしましたよ。今も立場は婆やは王子様の側近衆のお頭のままですよ」
婆やは思い出すのも楽しげに語る。王子からの直のそんな高圧がかかったのなら、さぞその後はやり易くなっただろう。
ダリアが城にやって来た武官らが婆やに丁重だったと言っていたが、そのはずだ。周囲は婆やを側近中の側近と見る。
「婆やにはお優しゅうして下さいますよ。冷たいと影では言う人もありますがね」
「……リヴは冷淡なの? 笑わないっていう噂を聞いたの……。『氷の君』だなんて呼ばれているとか」
婆やはそこで浮かべていた頬の笑みを消した。
「……笑顔でいらっしゃるのを見たのは、いつでしょうかね。お邸の頃とはお人が変わったようにおなりです」
さら自身『セレヴィア点』で今から数年後の王子に接している。邸の頃の彼との違いは肌で知っていた。
サラの知る彼とは違う。内面が変化し、もう別人なのかもしれない。
(サラがそうなのと同じように)
「婆やはわたしのことをリヴには知らせていないのね」
「随分悩みましたよ。これはお嬢様にお知らせしたくはなかったのですが……」
婆やはしばらく黙った後で、王子に縁談の話がまとまりつつあるのだと告げた。十八歳を迎えるにあたり王からの勧めで準備が進められているという。
さらは衝撃に喉が詰まったように感じ、少し呼吸ができなかった。
「王子様も納得のご様子です。そんな中お嬢様の件をお耳に入れれば、きっとご縁談に障ります。陛下のお肝煎のご縁談が流れれば、皇太子と目される王子様のお立場もお悪くなりましょうし……」
婆やはやや気まずいように声をしぼませた。
王宮に優雅に数年暮らし、その空気感に浸った婆やは既に「王子の婆や」であるようだ。まず彼の保身に頭が働く。それは己の保身でもある。
時間が経った。サラを残して変わっていく。
サラの知る王子なら、父王の機嫌を忖度して縁談を受け入れることはしなかったと思う。頑なに拒絶し、サラ一人を守ってくれたはず。「王子を降りる」までの覚悟を見せてくれた人だった。
(サラが消えて、三年足らず)
短い時間ではないが、それほど長くもないとほろ苦く思う。
(しょうがない)
そう割り切れるが、ただ身を剥ぐような寂しさはある。
「そうね」
とのみ返した。
「お嬢様はあの時、王子様の身代わりをなさったのでしょう? 男のなりをなさっているのが見えましたから」
「男たちはリヴを狙っていると思ったの。彼から離さなきゃ、とそればかりを考えたわ」
「そうまでして王子様に尽くされたのに、身を隠していらっしゃるのは、婆やには合点がいきませんよ。お会いなさればよろしいじゃないですか」
「わたしは前のサラではないの。一度死んでなぜだか甦った。亡霊のようなものよ。リヴに会っていい人物ではないわ。彼はもう前を向いているじゃない」
「単なる似たお人なら、婆やは墓場まで黙っておりますよ。それが王子様のお為と思いますから。しかし、サラ様ご本人となれば話が違いますよ」
(本人かどうか……)
さらもサラもそこに自信が持てない。妙に焦れた気分になり唇を噛んだ。
「その腕輪……、同じものを王子様がお持ちです」
さらの手首には王子からもらった腕輪がある。なぜか彼女について回る品で、これのお陰で救われた経緯から身につけたままになっていた。
キシリアからも以前同じことを聞いたが、より王子に近い婆やが言うのなら、これは確かに王子のものなのだろう。
「どうしてお嬢様がこれを?」
「わからないわ。気づけば腕にあったの」
王子は同じ腕輪を二つ作らせて一つは自分が身につけ、もう片方を捨てたという。
「あの海ですよ。あのお邸の裏の崖から投げられたのです。「サラにあげた」とおっしゃって……」
初めて聞く話にさらは言葉もない。
まるで、王子があの崖から投げた腕輪が彼女に届いたかのようではないか。
婆やはサラの手を取り自分の手を重ねた。
「温かい手ですよ。これが死んだ人の手ですかね。亡霊かそうでないかは、王子様がお決めになればよろしいことではないですか?」
「……縁談に障るのではないの?」
「お邸でのお二人を婆やはよく存じてますよ。そのサラ様を差し置いてのご縁談では、王子様は到底お幸せになれませんですよ。どうかお会いになって下さいませ」
皮肉にも婆やの言葉は王子の未来を的中させている。
断ることもできず、さらは答えを先延ばしにした。近いうちに城の婆やに宛て返事をすると約束した。
「絶対に知らせるから、それまではリヴにわたしのことは伝えないでね」
婆やの承諾をもらい、城に帰る彼女を見送った。




