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サラは早朝に起き、エイミが不便のないように心を配った。朝のお茶から朝食も婆やと打ち合わせ、準備も滞りなかった。
しかし厨房に現れたエイミの侍女が、サラの心尽くしを当然のように持ち去った。起き抜けのお茶はもちろん朝食も寝室で取るらしい。
そもそも彼女の療養の為の転地だ。気楽に過ごしてもらうことが一番だった。エイミについて何ら知識のないサラはそれを眺めているだけだった。
エイミに手がかからない以上、サラの目はクリーヴァー王子に向いた。幼い彼には取り巻きもない。一人高齢の博士が教育役に付いているだけだった。
王子は午前中は博士の指導で勉強をしている。昼食を挟んでもそれは続くが、進講役の博士は側で居眠りをしてしまうのが常だった。
王子は勤勉に課題の読書を続けている。お茶の時間になると博士はきちんと起き出して、王子を伴い居間にやって来た。
そんな日々が数日続くと、本を持って王子が早々居間に現れるようになった。長椅子にうつ伏せになったり寝転んだりして本を読む。
サラは用が済めば居間にいることが多いから、彼と顔を合わせることが多くなった。
エイミは専ら寝室に閉じこもり、たまに階下に降りて来た。クリーヴァー王子が居合わせれば猫可愛がりに抱きしめる。
「リヴ。お母様から離れては嫌よ」
とくどく言いつけたかと思えば、気まぐれに突き放す。そんな時は存在すら忘れてしまうようだ。母親に従う王子の様子は彼女の気に入りの人形を思わせた。
王子から母親に甘える素振りはない。エイミの溺愛のスイッチが入った時も無表情にその時を受け入れている。
言葉の少ない少年だが、向ける眼差しに意思を感じた。威厳のようにも境遇の不満を一心に耐えているようにも見えた。
(ダリアという彼が恋しいのかも)
王子を眺めながらサラは思った。
ダリアはエイミ一行を邸に送り届けた後、セレヴィアに立った。
のちに聞いたところ、ダリアはその地を治める公爵だという。他国と接したその地では今紛争が持ち上がりつつある。彼が休憩すら満足に取らず先を急いだ意味もよく理解できた。
ダリアとの別れの様子から、彼らはよほど密な関係なのは明らかだ。「僕もセレヴィアに行く」と訴えた王子は、それが無理なことをわかっていたはずだ。声に出たのは甘えからだろう。
王宮から遠く離れたこんな邸に残された。周囲には少ない供人しかいない。
(まだこんなにお小さいのに)
幼い彼の切なさを考えれば、サラの胸もちくりと痛んだ。
窓辺に立った時、ふと王子の読む本に目が行った。初歩の歴史や語学本だろう。そう思い込んだサラの目が見開いた。学者だった父の書棚に並ぶ本と同じものだった。子供が読んで理解できるものではない。
寝そべって仰向けに本を読む王子と目が合った。
「お前が思うほど幼くもない」
彼の方から逸らした。
「幼くない」とはどういう意味か。年の割に大人びているとうことだろうか。周囲が思うほど子供は幼稚ではないのという意味かもしれない。
「十三歳だ」
驚きの声をサラは飲み込んだ。
華奢な体も背の高さも八歳ほどにしか見えなかった。もちろん声もあどけない少年のものだ。母エイミの彼への接し方は幼児に対するものに近い。それがより王子を幼く感じさせていたのもある。
しかし十三歳としてみれば、意思の強そうな瞳も落ち着きのある挙措も納得がいく。博士の教えを受けつつ難解な本を読み耽るのもおかしくない。聡明であれば、だが。
「父が同じ本を持っていました」
サラの言葉に返しはない。王子はそのまま読書を続けた。
彼女が席に戻り針仕事をし始めた時だ。
「お前はこの邸の者なのか?」
サラは針を置き顔を上げた。
「いいえ。あなたのお祖母様にここに来るように頼まれました。エイミ様の話し相手として」
「母上と話すのは無理だろう。頭の中の物語で夢中だから」
的確な表現だったが、それだけにサラは相槌を打ちかねた。大伯母の手紙が触れていたよりもエイミの状況は深刻だった。サラと話すどころか、王子の存在さえ忘れがちなのだから。
「わたしはエイミ様の従姉妹の娘になります。あなたとははとこということに」
そこで王子は本から目を外した。サラを見る。
「使用人ではないのか。侍女はお前を「姉や」だと言った。厨房の老女の娘だと」
適当なことを王子に吹き込むものだとサラは呆れた。質素ななりをして使用人を束ねるようなことをしている為、そう見えても不思議はない。食事もエイミ母子とは別だった。
「彼女はわたしの婆やです。ですが「姉や」でよろしいですわ」
「……はとこなら、ダリアと同じだ。彼は父方のはとこになる」
サラは王子の言葉に納得した。関係に血が混じることで親しさの密度が増す。エイミ母子を送り届ける任を負ったのも頷ける。
「ダリアへの態度を見て、僕を子供じみていると思ったのだろう」
「いえ。お親しいご関係が羨ましいです。わたしはそういった親戚もありません。王子様のお祖母様、わたしには大伯母に当たる方と手紙をやりとりするようになったのも、ごく最近なのです」
「ダリアはセレヴィアに帰れば戦地に出る。「用が済めば戻る」と言ったが、簡単に済む用じゃない」
王子は空を睨んで言う。幼い見た目にそぐわない視線の強さと言葉だった。実際の年齢通り、それ以上の精神性を感じた。母親のお守りに不満を溜めているだけではない。
「無事にお帰りになります」だの「戦いになどならないかも」だのの、空疎な慰めを口にするのは憚られた。サラは状況を何も知らない。
重い沈黙が続く。サラは針に目を落とした。
そこで声がした。再び顔を上げる。
「そういうことをなあなあにするのよくない」
「何をでしょうか?」
「君は僕の親族だ。侍女にいい加減なことを言わせておくな。今夜から食事も一緒でいい」
「お前」から「君」に呼称が変わった。
サラはすぐに返事ができなかった。もう本に目を戻してしまっている王子を見つめた。嬉しいのともちょっと違う。もちろん嫌なのではない。
「しかし、「姉や」というのは気に入った。そう呼ぶことにする」
複雑な事情によって僻地の邸に留め置かれている彼の孤独とサラのそれが触れ合った瞬間であるのかもしれない。
(くすぐったいのだわ。慣れない親戚づき合いが)




