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大きな震えだった。強く揺すぶられる感覚でさらは覚醒した。
足が地面を踏んでホームに降り立った。その背後でドアが閉まった。電車の通過で起きる風を感じる。
前面に駅名を記した表示が明るく光っていた。『白妙』。最寄駅で、通勤の際は必ずここを利用している。
まばらな人に混じって改札を抜け駅を出た。住宅街側の駅で五分ほど歩けば家に着ける。
既に暗い中を歩きながら彼女は混乱していた。周囲の現実は元通りに広がっている。その中に夢との繋がりなど見つけようもない。
(白昼夢みたいなもの……?)
電車を降りる間際のほんの一瞬だったはず。しかし、頭に残る夢の名残りは長い長い思い出のようだ。
その最後などあまりに恐ろしいものだった。剣で貫かれた胸の痛みも鮮やかに覚えている。慌てて嫌な悪夢を頭を振って追いやった。
「ただいま」
誰もいないのに。ドアを開ける時のこの癖は今も抜けない。
決まりきった家事を済ませ、夕食を食べてから本を読み動画を見たりして過ごした。
風呂に入る時に異変に気づいた。
肩までの髪を彼女は仕事では一つ結びにしている。まとめたその髪先がしっとりとぬれていた。
雨も降らずぬれる原因がわからない。気味の悪さに背筋が冷えた。
そこで駅での白昼夢を思い出した。夢の終わりに彼女は剣で刺され死亡している。その後の感覚は深い海に沈んでいくようなものだった。そこで意識が薄く消えていく。夢であるのになぜか生々しい。
(ぬれたのはその時の……?)
まさか。あり得ない。
疲れとストレスで見た幻に過ぎない。
しかしそのつぶさにリアリティーを感じるのはなぜだろう。
あちらでの食事のそれぞれの味も舌に蘇るようだった。人々の姿もくっきりと頭に浮かんでくる。映画の中に入り込んだかのように全てが鮮やかだった。
(気味が悪い)
深夜を過ぎてベッドに入った。枕元の明かりを落とす瞬間にそれは降ってきた。煌めいて床に落ちた。さらは手を伸ばして拾う。
拾い上げたものに彼女は悲鳴をあげた。
指がつまむのは、夢の中でクリーヴァー王子がくれた金の腕輪だった。間違えようがない。彼の腕にあった物だった。彼が力で曲げて輪を小さくしたそれを彼女に投げて寄越した。
クリーヴァー王子の存在はともかく、
(どこからこれが?!)
どこからともなく降って湧いた。こんなものは元々に絶対部屋になかった。
それが手の中にある間、王子の面影がつきまとうようで嫌だった。幾度もの口づけもあまりに鮮烈なままだ。
ハンカチで包み棚の引き出しの奥にしまった。
駅の前で車を降りた。
「ありがとう」
さらの礼に頷いて従兄弟の功輔は車を出した。それをちょっとだけ見送り、彼女は歩き出した。ほどなく着くチェーン店のカフェに入り、ミルクティーを飲んだ。
それでやっと自分の休日を取り戻せた気がした。
この日午前の早いうちに伯父宅に向かった。伯母を手伝い家事をして昼食をとる。午後三時前に従兄弟に当たる功輔が帰宅してきた。
伯父夫妻の息子自慢の相手をしてからさらは辞去を告げた。
「さらちゃんも嬉しいわね、功輔が優しいお兄ちゃんみたいで」
伯母の決めつける言葉にさらは引きつった笑顔で返した。両親の事故の後、さらは伯父宅にしばらく居候していたことがある。功輔が偶然を装って風呂場をのぞいたことは今も忘れていない。
「功輔に送ってもらいなさい」
伯父の勧めは決定だ。余計なことを言って逆らうと後が長い。素直に親切を受け入れた。
不安な時期を支えてもらい感謝はしている。盆暮には必ず顔を出すし、伯父夫妻の誕生祝いも欠かさない。
ここ数年、週末毎の訪問が重荷になってきていた。恋人もいないし約束事は友人のみだったが、それも制限を受けてしまう。何より週末が近づくと気が重いのもストレスだ。
義務から解放されてほっとする間も、昨夜からの奇妙な白昼夢が尾を引いていた。
さらはバッグからハンカチで包んだ腕輪を取り出した。不意に現れた出所の知れない品だ。金に銀で紋章のようなものがあしらわれている。美しい品だった。曲げられているが、それもデザインと考えられなくもない。
どこかで拾ったか、もらったか。福袋に入っていたとか。手元にある可能性を懸命に考えた。
しかし、記憶に繋がるのは夢の出来事のみだ。夢の中の物が具現化するのはおかしい。あり得ない。
ゆっくりとカップを飲み干して店を出た。この後目的がある。
この先の商店街にある買取専門店に持って行くつもりだった。売るのではなく鑑定をしてもらいたかった。
これが金メッキのチープな物であれば安心できる気がした。間違って買ってしまったものとして解決してしまえる。突如現れたのも、目の錯覚として整理がつく。
ガラスのドアを押して入る。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
カウンターのトレイの上に腕輪を出した。手袋をした店員が手に取り眺めている。
「どこでお買い求めになりました?」
「……もらった物です。海外の……お土産でした」
考えていた腕輪の背景だ。
じっくりと眺めた店員が腕輪をトレイに戻した。
「一点物の品のようですね。金の純度も高く細工も非常に見事です。現在の金の高騰もあるのでかなりのお値段がつきます。ただノーブランドのお品ですと、うちとしてはこちらが限界で……」
叩いた電卓を彼女へ示した。ニ百九十万。見直してもそう表示されていた。
「他店への相見積もりをなされないのでしたら、これに五十万上乗せさせていただきますが……」
「……ごめんなさい。親の物なので、やっぱり、ごめんなさい……」
咄嗟に言い訳を告げ席を立った。
帰りに買い物をしてと考えていたが、そんな高価なものを持ち歩いてスーパーなどをぶらつくのは無理だ。背後を振り返りながら急ぎ足で帰宅した。
腕輪はハンカチに包み更に箱に入れて引き出しにしまった。
鑑定を受けたことで腕輪の価値がはっきりし、怖くなった。間違ってさらの手元にあるような品ではない。
(どういうこと?!)
腕輪の存在は彼女の理解を超えていた。
(やっぱり、夢の中から現れた……?)
信じ難いが、腕輪を通して夢の信憑性が高まっている。あの日々の中で彼女は辛さも悲しさも味わった。絶望に近いものもあったが、笑うことも確かにあった。
目を閉じなくてもダリアの面影はくっきりと浮かんだ。何も持たないさらに彼は優しさを見せてくれた。彼の城でメイドとして働いたが、悲嘆に暮れていたのではなかった。彼を見かける時は嬉しくて、目で追いときめいていた。疲れも不安も封じ込めていられた。
風向きが変わったのはクリーヴァー王子が現れてからだ。
瞬時に王子にまつわるあれやこれやが思い出され、胸が押さえられるような気がした。人形のように扱われ続けたことは、今もさらの感情を逆撫でる。
(終わったこと)
夢の終わりは印象的だった。
「王子の心がどうしても欲しいの。そうでないと、また海の泡になって消えないといけない。もう繰り返したくない……。最後にしたい。王子の心を捕まえたあんたが、わたしの代わりに逝って」。
ジジが今際の際にいるさらに告げた言葉だ。
王子に恋していたのかは定かではないが、さらを目の敵にしていた。その理由は王子のはず。だから「王子の心がどうしても欲しい」は理解できる。
しかし「また海の泡になって消えないと…」がわからない。海の泡になるなど、まるで童話の人魚姫のセリフめいている。
「もう繰り返したくない……」も謎だ。何度か泡で消えることを繰り返したような言葉だ。
(本当に繰り返したのかも)
さらはふと思った。ジジが欲しいのはクリーヴァー王子の心ではなく、王子の身分を持った誰か。それを得ることで彼女はハッピーエンドを迎えられる。
(それは、ジジが人魚姫だから……)
王子様の心を射止めなければ、彼女の物語は悲劇に終わったままだ。
まさか、とは思う。そう考えればさらの中の辻褄が合うというだけ。
(でも)
馬鹿げた妄想と捨て去ることもできない気がした。ジジの声も鮮やかに残っているし、あの世界での経験を幻想と片付けてしまえない。
さらには王子から贈られた腕輪もあった。あればかりは説明がつかない。
ジジは最後に彼女にこうも告げていた。
「サラにも「前の」記憶があるのでしょう?」。