10
クリーヴァー王子はさらの膝に頭を乗せ横になった。片足をだらりと床に垂らしている。
彼女の腕に遊ぶように触れながら瞳を閉じていた。
王都までは遠く、馬車で五日の道のりという。途中領主の邸に滞在しながら旅を続けるらしい。
夕暮れ前にある邸に着いた。ここは城ではなく邸宅だ。大きな池が夕陽を写し輝くようで美しかった。
旅慣れた王子はけろりとしていたが、さらは馬車に揺られ続け酔っていた。青い顔をした彼女は王子に手を引かれ邸に招き入れられた。領主夫妻から恭しく歓待を受けた。
「お方様はお加減が悪いのでは」
中年の夫人がさらを気遣ってくれた。寝室に休むように勧めてくれる。ぜひそうしたい。ちなみに「お方様」とは王子の側に仕える女性への敬称のようだった。
彼女は王子を見た。了承の合図に彼は頷いた。彼とはそこで別れた。
クリーヴァー王子は領主たち貴族にとって賓客で、迎えることは大きな名誉になるようだ。また王子はそれを当然のように泰然と受けている。
案内された寝室に入り、長椅子に座った。膝を抱いて体を丸める。横になるよりこの姿勢の方が落ち着いた。
部屋にメイドが入って来た。さらの荷物を運び入れ荷を解くなどの作業を始めた。セレヴィアの城から彼女の身の回りの為のメイドが一人付き従っていた。
ここまでの道中では顔も見ていない。声くらいはかけるべきだ。彼女はそちらへ目を向けた。
衣装箱からドレスを取り出しているのはジジだった。彼女には嫌味をぶつけられ、実際に手を挙げられたこともあった。
(よりによってジジだなんて)
偶然そうなってしまったのはしょうがない。さらが何と話しかけるべきか迷ううちに、逆にジジが口を開いた。
「お飲み物をお持ちしましょうか?」
柔らかい口調だ。王子の持ちものになってしまったさらを攻撃するつもりはないらしい。王宮に王子の一行が着けば、ジジは護衛の兵士などと共にセレヴィアにとって返す。
それまでの仲だができれば険悪でいたくない。ジジの割り切った態度はありがたかった。
「ありがとう。温かいものをもらえると嬉しい」
ジジは頷いて部屋を出て行った。さらは手すりに体を預け顔を伏せていた。ジジが持って来てくれる飲み物を飲めば、少しは楽になるかもしれない。
どれほども待たない間に扉が開いた。彼女が重い吐息の後でゆっくり顔を上げた時、ふと金属的な音がした。扉に鍵をかけたような音だ。
扉の前にはジジの他兵士が一人いた。護衛の一人だろうが、なぜここにいるのかがわからない。
そして、兵士はスヌープだと気づいた。ダリアの側近と言っていい立ち位置の兵士で、最初にダリアが村外れで彼女救った側にこのスヌープもいた。
彼は鞘から剣を抜いた。それを提げてさらの方へ歩み寄る。
「記憶がないなど初めから怪しいと思っていた。路上で肌を晒していたのも、若い女がそうすればガラハッド様の気を引けるとの算段だろう」
「何を……」
スヌープは剣先を彼女へ突きつけた。事態が飲み込めない。さらはジジを見た。彼女は腕を組みほんのり笑みを浮かべながら眺めていた。
「早くやってしまって。クズクズしていると王子が気づいてしまう」
「ああ、わかっている。すぐに片付く」
二人のやり取りで共謀関係が知れた。ジジは考えを改めて彼女付きのメイドになったのではない。彼にさらを殺させるために志願した……。
そこまでの恨みを買う理由がわからない。王子付きから外されたのはさらの存在があったかたらだ。それで憎いのはわかる。でも……、
(なぜ?)
手入れのいい剣先はスヌープが軽く力を入れただけでさらの胸の貫いた。鋭く強烈な痛みがそこで弾ける。耐え難い衝撃はさらから言葉を奪った。
目に映るものは徐々速度を緩め、視界をゆっくりと流れていく。
耳元にジジの声を感じた。
「王子の心がどうしても欲しいの。そうでないと、また海の泡になって消えないといけない。もう繰り返したくない……。最後にしたい。王子の心を捕まえたあんたが、わたしの代わりに逝って」
「え」
「サラにも「前」の記憶があるのでしょう?」
ジジはさらの瞼を手で閉じさせた。もう暗く世界は沈み何も見えない。抗えないうねりに引き摺り込まれるのがわかる。
しかし、耳はまだ音を拾う。扉を激しく叩く音がした。
「サラ! 開けろ!」
彼女を呼ぶクリーヴァー王子の声が届く。それに混じりジジとスヌープの乱れた足音が続く。窓を開け二人は屋外へ逃げ出した。今急ぎここから逃亡すれば、捕らわれずにセレヴィアに帰り着くことは難しくない。
所詮はさらは身元の知れないメイドだ。王子の戯れの相手だったかも知れないが、それもほんの一時のこと。
(それだけでしかないもの……)
扉を打ち破って王子が部屋へ飛び込んで来た。
その時にはさらはもうこの世界にいない。
(何も聞こえない)
引き摺り込まれたのは深海のような闇の中だ。彼女は沈みながら、どうしてだろう水を蹴る自分の体を感じている。
ジジが囁いたように泡になるのを感じた。
(まるで人魚姫の最期みたい)




