沈黙の海へ
一 影の力
1963年春、サン・マグヌスは表向きには安定していた。キューバ危機での対米協調により、政権は正当性を再確認し、アメリカからの支援はかつてないほど潤沢だった。だが、その裏では「制御された秩序」の名のもと、監視と弾圧が強化されていた。
その中心にいたのが、すでに政界を退いていたはずのシルビオ・デルガド元大統領だった。彼は宮殿の一室に設けられた「戦略室」と呼ばれる非公式組織の主宰者として、情報将校、警察幹部、メディア関係者を招き、政治的安定の「指導者」として隠然たる影響力を持ち続けていた。
そのデルガドの視界に入り続けていた人物がいた──エルネスト・ルイス元中尉である。
戦争帰還兵であり、かつての英雄。今では大学の客員講師、作家として講演を重ね、冷戦構造とサン・マグヌスの従属体制を批判する存在となっていた。彼の言葉は知識層に広く読まれ、特に学生たちには絶大な人気を誇っていた。
「この国は、独立した小国であることをやめた。我々は、巨大な影の中で、目を閉じることしか許されていない。」
この発言が、決定的だった。
二 失踪
1963年6月21日夜。エルネストはラジオ局での討論番組の収録を終えた後、自宅には戻らなかった。翌朝、彼の妻と友人たちは警察に捜索を求めたが、対応は鈍く、証拠も曖昧で、捜査はすぐに打ち切られた。
彼の車は首都郊外の山中で発見されたが、シートには血痕が残されていた。政府はこれを「過激派による誘拐の可能性」と発表したが、誰も信じなかった。
街中の壁には、こう書かれた落書きが現れた。
「彼は語りすぎた。そして、姿を消した。」
学生運動の一部は蜂起を検討したが、警察と民兵による先制的な逮捕が続き、動きは潰された。新聞は彼の失踪を「不明な事件」として3日間報じたが、やがて口を閉ざした。
三 沈黙の意味
エルネスト・ルイス元中尉の「失踪」は、サン・マグヌス国内に決定的な空白を生んだ。反政権勢力の精神的支柱は不在となり、多くの運動家たちは自粛または国外亡命を選んだ。
一方で、デルガドとマリアーノは秩序と安全の維持を理由に、さらなる統制強化を実施する。
「国家安定法」により、政治活動の監視・報告制度を法制化
主要大学に対する「学内協力委員会」を設置、反体制の芽を事前排除
独立系出版社をすべて国営流通に統合、検閲を制度化
人々は語らなくなった。否、語ることが許されないと知ったのだ。