影の向こうに燃える島
一 最後の任期、そしてその後
1956年秋、シルビオ・デルガド大統領は3期目を迎えた。反対派はほとんど姿を消し、議会も司法も彼の意のままだった。経済は表向きには安定し、軍は厚遇され、アメリカからの支援も潤沢だった。
だが、政界ではすでに囁かれていた。
「デルガドの次は誰だ?」
サン・マグヌスの憲法は大統領の四選を禁じていた。そのため、1956年の選挙後から、与党内では「ポスト・デルガド」を巡る水面下の駆け引きが活発化した。忠実な側近であるエミリオ・マリアーノ内相の名が有力視され、彼が後継者として準備される中、デルガドは沈黙を守っていた。
二 革命の波、海を越えて
1958年、カリブ海の向こう側で、新たな火が上がった。キューバの革命軍が攻勢を強め、1959年1月、ついにハバナを制圧。 バティスタ政権は崩壊し、フィデル・カストロが新たな指導者として登場した。
サン・マグヌスの政権中枢は、この事態に動揺した。バティスタ体制と密接な関係を築いていたアメリカ企業が資産を凍結され、逃げ場を失った一部の富裕層がサン・マグヌスに亡命してきた。彼らの証言は一様に「赤い嵐がキューバを覆っている」と訴えていた。
デルガド政権はすぐさま対キューバ非難声明を発表し、外交関係を一時的に凍結。カストロがワシントン訪問後に冷遇され、激しく反発して農地改革と国有化を進める様子を見て、サン・マグヌス政府内では「この動きは南下する」という懸念が高まった。
三 同調と忠誠
1960年、カストロ政権がソ連と事実上の同盟を結び、ユナイテッド・フルーツなどアメリカ資本の全面接収を発表したことで、デルガド政権は完全にアメリカ側に寄り添う姿勢を固めた。
サン・マグヌス政府はキューバとの全ての商業取引を停止
キューバへの渡航を禁止
サン・マグヌス領内にあった共産党系出版物の販売・所持を違法化
アメリカの要請に応じ、対キューバ監視網への参加を表明
こうした一連の対応は、ワシントンからは歓迎されたが、島国内では別の波紋も広がった。大学や港湾都市では、「なぜキューバを敵視するのか」「次は我々が自由を叫んだら弾圧されるのか」という疑念が広がりつつあった。
エルネスト・ルイス元中尉は、1959年の講演でこう語った。
「今や我々は、“自由”を唱える国に生きているが、自由に反対を述べることさえ許されない。デルガドの時代が終われば、真に問われるのは“我々自身の声”だ。」
デルガドは表情を変えず、後継者と目されるマリアーノ内相の動きを黙認した。だが、政権内部でも次第に「カストロの台頭と民衆の反応を見誤れば、次は我々が狙われる」という危機感が芽生えていた。
冷戦の火種は、燃え広がりつつあった。