英雄たちの凱旋
1950年9月、朝鮮半島を揺るがす戦局の転換点となったのは、ダグラス・マッカーサー将軍の発案によるクロマイト作戦──仁川上陸であった。電撃的な奇襲により、国連軍は北朝鮮軍の補給線を切断し、戦線は劇的に反転した。
サン・マグヌス第66歩兵連隊は、釜山周辺の防衛線に配属されていたが、反攻の波に乗り、ソウル奪還、そして北緯38度線を越えて北進する国連軍の一翼として行動を続けた。
冬には満州からの中国義勇軍の参戦により戦線はふたたび崩れ、血の凍るような山岳戦と防衛戦が繰り広げられた。鉄原の戦い、漢江南岸の防衛──第66歩兵連隊は常に戦火の中にあった。
1953年7月27日、板門店において休戦協定が締結される。この時点で、サン・マグヌス第66歩兵連隊は、初期の編成からおよそ1割の兵を喪失していた。
3年にわたる戦争が終わり、兵士たちが祖国に戻ってきたとき、港にはかつての出征の時とは異なる空気が漂っていた。国旗を振る者たちはいたが、戦地に息子や夫を送り、二度と戻らなかった者たちの姿もあった。
サン・エステバンでは、戦勝記念パレードが行われ、シルビオ・デルガド大統領は演説で語った。
「第66歩兵連隊の兵士たちは、自由と正義のために戦い、祖国の名を世界に刻みました。我々は彼らを永遠に英雄として記憶するでしょう。」
遺族には手厚い恩給が支給され、戦傷者には国費での治療と就職支援が約束された。 兵士たちは「共和国の盾」と讃えられ、学校や広場には彼らの名を冠した記念碑が建てられた。
しかし、全てが栄光に包まれていたわけではない。帰還兵の一部には心に傷を負い、夜毎に戦地の夢を見る者もいた。家族と再会しても、以前のような関係に戻れない者もいた。
エルネスト・ルイス元中尉は、新聞に寄稿した。
「祖国は、我々を英雄と呼んでくれる。だが我々が見たのは、英雄が死んでゆく戦場だった。願わくば、あのような戦争が再び起こらぬように。」
サン・マグヌスの小さな島国は、世界大戦の延長線上に置かれた冷戦の激流の中で、確かに歴史を刻んでいた。