9-5
「はい。今日の目的は温水湖だけで、後は森の散策をするつもりだったので……あ、このサラダ美味しい」
「ありがとうございます。レタスはこの辺のメイサンっすからね、どんどん食べてくださいよ。セットのサラダはおかわりムリョウっす」
「やったぁ、おかわり!」
おかわりのサラダが入った小さいボウルを持ってきた給仕に礼を言いつつ、アーシィは幾つか物を尋ねた。
温水湖のこと、この宿のこと、森のこと……あの獣のことも。
「あのケモノ? 最近では何年か前にね、ひどいケガしたやつがトウジに来てたのがモクゲキされましたよ。オレは見てないんすけどね。──ははあ、お客さんも探しに来たんすか、あのケモノを?」
「やっぱり多いんですか。そういう人」
「そりゃね。あのケモノはこの辺じゃシアワセをハコぶって言われてんすよ。シュジンになりたいヤツはミズウミにトモる明かりの数ほどいるってね。でもザンネンながら、その時のケモノはもうアルジ持ちだったらしいっすよ?」
「……その子に、用があるんです」
へえ? と返してきた給仕はまだ話を続けようとしていたが、他の客から呼ばれてそちらへ行ってしまった。去り際、森は他のハンターが散々探した後だと告げて。
「……森、じゃないのかな……? エスト……」
最後のウインナーを頬張って会計を済ませると宿を出る。
ともあれ、今日の目的は温水湖だ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
給仕の話では、泳ぎにくる客とは別に純粋に湯に浸かってゆっくりしたいだけの客のために湯床という設備が設けられているらしい。温水湖に続く下り階段を降りると見えてくるそれは、高校のグラウンドを十個分は繋いだくらいの規模がある巨大な床を湖面に沈めてあるものだった。近づけば近づくほど、その広さは際立っていく。
階段を下り切って湯床のすぐそばまでやってくると、アーシィは目の上に手をかざして呟いた。
「はあー。すごいや、向こう側が見えないよ」
近くに立っている看板には湯床の楽しみ方が色々な言語で書いてある。残念ながら母国語はなかったので、標準語の注意書きを八割がた読んだ。後は単語の意味が解らず飛ばしてしまった。重要な内容でなければ良いが。解ったのは次のようなことだった。
床の端に立ててある柵の外はすぐに深くなっているので注意すること。
湖に入りにくるものにはドラゴンまでいるので、急な波に注意すること。
荷物の扱いは魔法の鍵で管理できる有料ロッカーの利用をお勧めすること。
人族は水着を着用のこと。これはガイドブックにも書いてあったことだ。
「ロッカー……今日は良いや」
節約しないと目的を果たす前に金欠で強制送還だ。フィアンタは湯治客に配慮して狩猟行為に制限をかけている。わざわざ国外まで出て狩をしてまた戻ってくるのは時間の無駄だから道中で集めておいたのだ。あの兎の皮を後で換金しに行かなければいけない。
アーシィはこれからの計画を考えながら脱いだ服やら荷物を頭にくくり付けた。何だか昔読んだ忍者マンガみたいだと思う。湖岸ギリギリまで寄ると遠目に二、三人の人影が見える。それと、後脚だけで直立している大きな虎──人虎族だ。虎は湯床の柵に片腕を乗せて、顔だけ出している首長竜と談笑していた。
お邪魔しますと誰にともなく告げて、まずは右の爪先を入れる。少し熱いが心地好い熱さだ。木製の床に足を付けると、湯が膝の辺りまできた。温泉というからとろみのある湯を想像していたが、サラサラして普通の風呂と変わらない。
湖上の風が熱く頬を撫でていく。金の前髪が薄い湯気にあたってしっとりと額に貼り付いた。しばらくザブザブと水音を立てて湯床の中央へ向かって進んでいたが、先ほどの看板がだいぶ小さくなると、ここらで良いかと腰を下ろした。痛む筋肉に湯の熱さが染み渡る。くぅ。と声を漏らして大きく息を吐く。上を見上げると、何もない空が円く広がっていた。確かに湯につかっているのに、こんなにも空が広い。柵の向こう側には湯で描かれた水平線。アーシィは赤くなった右手を高く上げてこぶしを握った。
「あぁ……本当に来たんだ。フィアンタに……!」
ようやく湧いた実感をかみしめて、もう一度、空を見上げる。──と、何だか急に頭に風が感じられるようになった。ばちょん。と背後で音がしたが、頭がスッキリしたこととの因果関係にすぐには思い至らない。背中に何かフワフワした物が当たる感触。振り向いて──
「……ぅわあああぁああぁ!?」
紐が解けて頭に乗せていた物が残らず落下して湖面に浮かんでいた。
叫び声につられて、なんだなんだと湯治客が集まってくる。彼らはアーシィがずぶ濡れになった服をしぼっている様子を見ると、一様に笑い声を上げた。




