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二人が階段を登り終えた頃には日はすっかり暮れて、赤から紺色に変わっていく空に星が三つ光っていた。その下でアーシィは両ひざに手を置いて前かがみになり、肩で呼吸を整えている。
それでもガイドブックを思い出して宿の横を少し越えて温水湖を眺められる場所まで来たが、日が暮れたばかりのせいか、まだそれほど灯火の数は多くない。
真っ黒になった周辺の山々を見つめていると、生温かい風がじっとりと腕を撫でていった。汗でびしょびしょな全身を思えば一刻も早く宿と風呂、食事はそれからだ。
ふと、まだ隣にいる少女のことを思い出し、そちらへ向き直った。彼女は相変わらず涼しい顔をしていて、呼吸もまったく乱れてない。右手の人差し指の先を口もとに当てて、じっとアーシィを見つめている。彼は手の甲で額の汗を拭いながら笑った。
「ホントにすごいね。ぜんぜん余裕だもんなぁ。……ありがとう。最後の難所にすてきな道連れがいたおかげで楽しかったよ。さよなら」
「…………」
アーシィが差し出した手を見て、少女が口を開く。彼女は何も言わずにそれを閉じて、首を横に振りながら両手で彼の手を握り返してきた。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。それから、ぱっと踵を返して走り出す。十数メートルの距離で立ち止まってこちらを振り返り、頭上で大きく手を振った。アーシィは手を振り返しながら、何となく「またね」と言われているような気分になって、それが実現したら良いなとぼんやり思った。
一人になった彼は緑の匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、宿屋へ向かって歩き出す。背後では黒一色に染まった夜空で倍以上に増えた星が煌々と輝いていた。
* * *
まだ眠い。けれど、閉じたまぶたの上には日光の感触がある。耳に届く街の声。もう人々の生活は動き始めている──いや、もうとっくに始まった後なのだろう。
ゆっくり両目を開くと、木で出来た素っ気ない壁と天井が見えた。それと、カーテンのない窓。良く晴れた空。腹の鳴る音と共に身を起こす。久しぶりのベッドは家のものより少し硬かったけれど、野宿よりは何十倍も良く眠れた。もしかしたらあの階段を登った疲れも手伝っていたのかもしれないが。
「……いてて」
ハンティング部でそれなりに鍛えてはいたつもりだったが、足がつけ根からつま先まで筋肉痛だった。いや、どうしたことか背中まで痛い。食事を済ませたら絶対に温水湖で湯治をしようと心に誓う。アーシィは水着を着た上からズボンを履いて、Tシャツに袖を通しながら部屋を出た。
つまようじをくわえて廊下を向こうから歩いてくる中年男性がすれ違いざま軽く手を上げてあいさつしてくる。おはようございますと告げたら、もう昼メシ食ったぞと言ってからから笑われた。道理で空腹なはずだ。アーシィは急いで一階の酒場へ降りて一番安いセットメニューを注文した。たどたどしい標準語を話していると、給仕が会話をアーシィの母国語に切り替えてくれた。
「オソくまでお休みでしたねお客さん。今日のヨテイはダイジョウブなんすか?」




