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ある日のこと。
学校から帰る途中にある図書館の前を通りかかった時のことだ。
少年は真っ黒い毛並みをした子犬――のように見える生き物――に出会った。曲がり角からじっとこちらを見つめている子犬に胸をときめかせた少年は、片膝を地についてそちらへ手を差し伸べた。
「おいで、おいで……ほら」
そうは言っても野良なので、あまり期待はしていなかった。それなのにどうしたことか、子犬はうれしそうに尾を振りながら近寄ってきて、差し出した指先をぺろぺろとなめてくる。
予想外の人なつっこさにおどろいた少年は口をひし形に開いてしばし動きを止めた。その口元がじわじわと笑みの形に変化していく。両手で子犬の顔や頭、背中やお腹に尻尾と思いつく限りの場所をなでてみるが、どこを触られても嫌がる様子はなく、されるがままで心地よさそうに両目を細めるばかりだ。
「かわいいなぁ。アンジェがいなければ連れて帰るところなんだけど……だめかな?」
気が済んで少年が子犬から両手を離したところ、子犬は自分から少年へ抱き着いてきた。更に心を揺さぶられてどうしようもなくなった少年は、でれでれと緩みきった笑顔になって言った。
「だ……ダメで元々だし、ちょっと聞いてみよう」
しかし食事の支度をしていた母はクールだった。
「ダメよ野良犬なんて。元居たところへ返してらっしゃい。その後、ちゃんとよく手を洗ってね」
「冷たいよ母さん! 野良ってところ強調したでしょ今!」
「冷たくてもダーメ。アンジェがうちに来てからまだ半月も経たないのに、もう飽きちゃったの?」
ぴ。と鍋から取り出したお玉をアーシィの鼻先に突きつけて、口をへの字に曲げる母。これは交渉の余地がないことを表すジェスチャーだ。
「アンジェのお世話だって、ほとんどお母さんがしてるじゃないの」
痛いところを突かれて、ぐうの音も出ない少年はすごすごと引き下がった。言われた通りに図書館まで子犬を連れていく。予想通り、子犬は立ち去ろうとする少年の後を着いてきた。肩を落として立ち止まった少年は、ただ謝るしかなかった。
「ごめんね。もうアンジェがいるから、二匹目はだめなんだ」
少年の母親が一番言いたかったことはそこではないのだが、彼は諦めなければいけない理由をそれだと思った。子犬は聞き分けよく、それ以上少年へ追いすがることはしなかったが、度々振り返る少年から姿が見えなくなるまでーーもしかしたら見えなくなった後もーーじっと去りゆく少年を見つめていた。鳴き声は一度も聞こえなかったけれども。