4-9
「……エスト?」
また、獣の首が傾げられた。しばらく間が空いて、その間、立った耳がぴくぴく動いている。また、獣が頰ずりしてきた。今度は頬を触れさせたまま、離れない。
ーー本当は一緒に居たかった。けど、ダメなんだね……さよならは言わなくてもいいかな? 私のマスターは、あなただけだから。
「待った。どうしたの? 一緒に居られないって? そんなことあるもんか。小屋でも必要なのかな。それなら庭にでも建ててもらうよ。だから……」
ーーん。ありがとう……でも、棲家なら森で良いのよ。そうじゃないの。そうじゃなくて……。
その時、月明かりで銀色に染まっていた夜の森に灯火の朱色が混ざり始めた。徐々に近づいてくるのは喧騒の声。先ほど自宅の周辺で聞いたのと同じ、獣を仕留めようとする町民たちの声だ。アーシィはその勢いに呑まれて動けずにいた。
ーーマスターのご両親、説得に失敗したのかな。それとも、別動隊かもしれないね。
一歩。二歩。後ろに下がってアーシィから距離を取った獣は、大きな翼を羽ばたかせた。脚が地面から離れ、身体が宙に浮く。アーシィは翼から送られる風に一度だけよろめいて、しっかりと立ち直した。
「待ってよ僕も行く! 離れたくないって、言ってくれたでしょう? 僕だって同じだよ!!」
ーーダメだよ。マスター。今はまだ……でも、うん。うれしい……ねえ、そうしたらね? あのね……もっと大きくなったら、会いに来てくれる? 私の故郷まで……。
「行くよ。必ず行くよ。迎えに行く。その頃にはきっと、この町もエストにとって居心地のいい場所になってるよ」
ーーありがとう。マスター……またね? またね!
去りゆく獣の背に当てていた白シャツの一部が黒く見えた。血が滲んでいるのだろう。気にはなったが、もう小さくなっていく獣影を見送ることしかできない。どうか無事に故郷へ帰れますように。アーシィはそのためにできることは何でもするつもりだった。その決意を固めているところへ、ハンターと町民たちが到着した。獣の予想通りアーシィの家の周辺にいた人々とは別動隊のようだった。
「あの獣が逃げるぞ!! 弓だ、射れ!」
「言われずとも!!」
「させるか!!」
アーシィは弓に矢をつがえたハンターの背後に回ると、その膝を裏から蹴りつけた。そうして体勢を崩された弓使いが背に負っていた矢筒から残っている矢を全て抜き取ると、アーシィは弓使いの横をすり抜けて泉の方へ駆け出した。湖畔まで十数歩。走っていた分の勢いもつけて、抱えていた矢を景気よく泉へ放り投げる。
「なっ……んてコトしてくれんだ、このクソガキ!?」
「ちっ! 弓がダメなら魔法だ! 行け!!」
「了解! ーー神鳴る空に住まう雷の子等よ、我が眼前の獲物にその手を……!」
「止める!!」
進み出て来た魔法使いの杖が木製だと見て取るや、アーシィは泉の水を両手ですくい上げてその杖に振り掛けた。魔法使いが切羽詰まった悲鳴を上げて杖を手放すと、そこへ白い稲光がまとわり付くように走って消えた。
「あっ……危ないじゃないか! 心臓止まるぞマジで!!」
「みんな待って、話を聞いてよ! あの子に攻撃しないで!」
「あら? あなたよく見たら……ディールさんとこの、アーネスト君? まあどうしたの、こんなところで……大人に分け入って危ないことしないのよ」
ハンターたちの合間を縫って進み出たのはクラスメートの母親だった。アーシィは必死に彼女へ向かって言い立てる。
「おばさん聞いて。みんなに攻撃を止めるように言ってよ。あの子は本当に、退治されるようないわれはないんだ」




