神経衰弱1
(一)
笑声を縫うように、氷塊の砕ける音が響く。暖色の明かりがグラスの中で揺蕩う。目映い銀燭を受けて煌めく銀器。アルコールの香りが舞っていた。ミキシンググラスで掻き混ぜた酒をカクテルグラスに注ぎ、スライスレモンを添えた。
「お待たせいたしました。マルティネスです」
「サンキュー、エドウィン! たまにはシャレたモンを呑むのもいいなぁ」
「いつもビールしか頼まない人が、どうしたんですか」
「ただの気分転換だよ。そういや昨日は旅行行ってたんだろ? デートか? 可愛い子を連れてたってさっき聞いたぜ?」
酒場『化物退治』。メイとユニスを連れて帰って来たのは二時間ほど前。とりあえず閉店まで手伝えとマスターに言われたため、彼女達を部屋に置いてカウンターに立ち、今に至る。
客の噂話は広まるのが早い。真っ白でビスクドールのような妙相のメイがやたら目立つものだから、数分店内にいただけにも拘わらず話題になっていた。彼女が俺のコートを羽織っていたこともあり、下らない誤解をされている。
ユニスはマスターの娘ということになっているし、幼く小柄なため、妙な誤解をされることがない。メイも子供だがユニスよりは背が高く、大人びた雰囲気を纏っている。それゆえ酔っ払い客の目には、彼女が俺と同い年くらいに見えたのかもしれない。
俺の妹も、生きていればあのくらいの背丈になっているだろうか。黙考してから苦笑を零した。
「まさか。マスターに言いつけられた、ただのお使いですよ」
「なんだよ、つまんねぇなぁ……! 見たかったな、お前の恋人」
「恋人はいません」
「嘘だろ勿体ねぇ……俺がお前の顔面だったら女遊びしまくるのにな! まだ二十だろ? 仕事ばっかしてないでもっと遊んだほうがいいぜ? 酒も女も若いうちに楽しまねぇと!」
「はは……」
マスターに拾われてから数年。店の手伝いをするのは慣れたが、接客はいつまで経っても慣れない。それよりも魔女について、今後の話をしたい。早く閉店時間になれと胸中で念じながら、氷をアイスピックで削っていく。
「あぁでも薬物だけはやめとけよ。隣街じゃ妙なクスリが出回ってるらしいぜ。家族の顔も分からなくなるくらいイカレちまうって」
「薬物なんてどれもそんなものでしょう。酔っぱらって身内を殴る人間だっているんだ。酒もほどほどにしたほうがいいですよ」
「酒場の店員が言うことじゃねぇだろ」
朗らかに笑った男性の大きな手が、空になったカクテルグラスをカウンターに置く。それを回収していると鐘の音が耳を聾した。店中に響き渡るそれは閉店の合図。グラスを傾けていた客たちもそれは分かっているようで、皆酒を飲み干して貨幣を置いていく。「じゃあな」「また来るよ」と投げかけられる挨拶に、マスターが柔和な笑みで手を振っているのが見えた。
俺の前で飲んでいた男性もゆっくりと離席して、酒臭い息を楽しげに吐き出す。
「またなエドウィン! 今日の酒、美味かったぜ」
「どうも」
店内が少しずつ静まっていく。グラスの水滴を拭う音が聞こえるほど粛然とし始め、最後の一人がドアを潜る。
棚に片付けるべく持ち上げたワインボトルが、横から掻っ攫われた。見上げた先には微笑。相好を崩したマスターが不要なものを手早く片付けていく。ミルクティーとよく似た白橡の長髪が、煙草の臭いを振りまいていった。
「エドウィン、今日は少し混んでいたから帰ってきてくれて助かったよ。それと昨日、君がいなくてジュディが拗ねてたからさ。今度サービスでもしてあげてくれ」
「ジュディ……ああ、派手な服着てる女か」
「常連客の名前くらい覚えたらどうだい。君目当てで来てる客も結構いるんだから、もっと営業スマイルも上手くなってほしいものだよ。ドルフだって君が楽しそうにしてくれた方が喜ぶと思うしね」
ドルフ、というのは先程マルティネスを入れてやった男性だ。なんでも俺と同じ年頃の息子がいるらしく、度々話しかけてくる。彼と初めて話した時、父親について聞かれたことがあるのを思い出す。もう亡くなっていると告げた俺の前で、なぜか泣きながら酒を奢ってくれた。
回想していると手が止まってしまう。グラスに映った自分が笑んでいたような気がして、眉を寄せながら食器棚へグラスを片付けた。秒針の音、擦れ合う瑠璃の音、マスターの鼻歌が混ざり合うだけの静寂へ、嘆声を落とす。
「俺は、接客がしたくてココにいるんじゃない。魔女狩りの為だ」
「それは私も同じさ。だがね、接客が上手く出来なければ情報収集だって上手くやれないよエドウィン。なんのための酒場なのか忘れたのかな」
千草色の双眸に瞳孔を貫かれる。正しさを突き付けられている感覚が、唇を歪めていく。緘口することしか出来ない己に呆れた。
酒場というのは、どこよりも情報が集まる場所だ。新聞に載っていない諍いも、裏で出回っている薬物の話も、酒とともに酌み交わされる。
安い酒場は男性客が多いが、ここは安価な割に男女問わず人が訪れる。酒と料理の種類、そしてその質で男性客を。好青年然とした容姿で女性客を集めてきたマスター。彼は接客をしながら客同士の会話にも耳を傾け、時折魔女の事件と思しき話も拾っていた。
彼と自身を比べて肩を落とす。殺すしか能がない情けなさに渋面を浮かべていたら、いきなり肩を叩かれた。
「っそうだ、さっきの白い女の子はどこで拾って来たんだい?」
「今回見つけた魔女研究施設だ。ちゃんと魔女も研究者も皆殺しにしてきた。客もいなくなったんだ、ユニスとメイを連れてきて全員で話した方がいい」
「ああ、そうだね。連れておいで」
カウンターを出て、壁際の扉を開ける。そこにあった木造の階段を上って二階へ。ユニスの部屋の戸が僅かに開いていた。光沢のある木目を軽く叩いたら、すぐに開扉される。
頭突きする勢いで飛び出して来たのは拘束具を付けた少女。三角巾じみた帽子のベールを揺らし、ユニスが不満げな顔で俺を見上げていた。
「エドウィン! お腹空きました!」
「第一声がそれか……。マスターに言ってくれ、なんか出してくれるだろ。いいから行くぞ。メイの話をしないといけない」
「僕も行った方がいいってことか」
ユニスの肩越しに、メイがこちらを覗き見ていた。首肯してみせるとメイがユニスの肩を押して廊下へ出ようとする。それを背中で察したらしく、メイと接触する前に歩いていくユニス。
宿でケーキを与えた時など、二人はもう打ち解けていたように見えていたが、触れられるのは嫌なのかもしれない。歳の近さや同性という点で仲良くなれそうなのになと二人を見下ろしていたら、メイが羽織っていたコートを差し出してきた。
「エドウィン、コートありがとう」
「着てていい。寒いだろ、そのワンピース」
「ああ……まあ……寒いけど」
「明日、服を買いに行こう。それまではそれで我慢してくれ」
「……ありがとう」
控えめに紡がれた謝礼。こくんと点頭したメイはそのまま俯伏する。コートを羽織り直したメイの顔は窺えない。ユニスよりも物静かな彼女は、何を考えているのか分かりにくかった。
先に歩き出していたユニスを追いかけ、囁きじみた問いを投げかける。
「待ってる間、人間嫌いのことはメイに話したか?」
「いいえ、聞かれてないので話してないです。メイさんもべたべたする人じゃないですし。暇だったので、戦闘で破けてた裾を縫ったり、トランプで神経衰弱をしたりして遊んでました」
「ずっとか?」
「そのくらいしか遊べるのが浮かばなかったんですもん。メイさんがカードを切って並べてくれて、私が指し示したのを捲ってくれて、楽しかったですよ!」
生成色の長髪を跳ねさせて、ユニスが階段を駆け下りていく。靴音がユニスのものしか聞こえないことに気付き、メイは付いてきているだろうかと軽く振り返った。思いのほか近くにいた彼女と目が合う。
波打つ白髪、雪白のワンピースに白皙の肌。コートと虹彩以外、爪先まで白一色の麗容。彼女がずっと裸足であることに気付き、今更彼女を抱き上げた。
「ちょっ……」
「悪い。服より靴を買うのが先だな……」
「いいから下ろして。裸足で歩くくらい別にいい」
「いいわけないだろ。駅からココまでの道で怪我はしなかったか」
「してな――っ」
階段を下り終え、一旦メイを下ろす。華奢な足を持ち上げてみれば、爪先も足の裏も砂で汚れ、所々切り傷が刻まれていた。石か木の枝でも刺さったようで、深い傷跡も見つけて顔を顰める。自分で処置したのか刺さった物は見受けられず、血は既に凝固していた。
「……痛かっただろ。どうして何も言わなかった」
「…………痛くなかったから、言わなかっただけ。このくらい大丈夫だよ」
「次からはちゃんと言ってくれ」
メイを横抱きにして店内へ進むと薫香が漂っていた。カウンターではユニスがパンを頬張り、ローストビーフをフォークで刺していた。マスターに外してもらったらしい手枷は彼女の隣席に置かれている。
手枷を挟んだ空席にメイを座らせ、その隣に腰を下ろす。ユニスの手元にオレンジジュースを置いたマスターが、ハンカチで手を拭いながらメイを見た。朗色を湛えた彼はメイに片手を伸ばしていた。
「君がメイちゃんだね。私はリアム・ブライトマンだ。マスターでいいよ」
「わかった。よろしく、マスター」
「ふふ、君みたいな可愛い子と握手出来て嬉しいよ」
握ったメイの手を引き寄せ、両手で包み込むマスター。恍惚として白磁の肌を撫で始めたものだから止めに入ろうと思ったが、そうする前にメイが勢いよく彼の手を振り払っていた。横顔だけでもわかるほど、彼女の目見には嫌悪が滲んでいた。
「貴方と握手したことを今ものすごく後悔しているよ、最っ悪だ。なんでこのオッサンが変態だって先に教えてくれないんだエドウィン」
「オッサン⁉ た、確かにエドウィンと比べても一回り以上離れてるが、お兄さん、だろう⁉ ってそもそも私は変態ではないよ⁉ 小さくて可愛い女の子を愛でるのは当たり前のことじゃないか!」
「今の僕が可愛いのは分かる。でもこれは、双子の妹の体なんだ。妹を汚されている感覚が気持ち悪いから貴方とは二度と握手しない」
「妹の体って……まさか」
瞠られた瞳が説明を仰いでくる。メイを見遣れば、彼女は自身の手を大切そうに擦りながら唇を歪めていた。彼女の口からは語られそうになかったため、俺からマスターに説明をする。
「そのまさかだ。メイは魔女だよ。人を襲わない、会話も成り立つ、理性的な魔女だ」
そっと離席してカウンターの内側へ回り、グラスを取り出す。氷を入れようとしてから手を止め、眼を持ち上げる。正面に座るメイもこちらを見ていて、ちょうど視線が重なった。
「メイ、水かオレンジジュースかミルク、どれがいい。氷はいるか?」
「いや……あったかいのがいい。紅茶はないの?」
「……分かった、待ってろ」
グラスを元の位置に戻し、食器棚を漁る。ティーポットとティーカップを手にして湯を沸かしていれば、マスターがカウンターから身を乗り出していた。
メイを覗き込む彼と、嫌そうな顔で身を引いているメイ。我関せずといった様子で食事を続けるユニス。視界の隅でマスターの手が持ち上がったのを目にして、彼の首根っこを引っ張った。
「あまりメイを怯えさせるな」
「いやそんなつもりはなかったんだがね。ただ、魔女だというのなら、紐が付いてるはずだと思ってさ」
「紐って、これ……?」
衣擦れの音と共にメイのコートが左肩から落ちる。氷肌を綾なす紅。皮膚に近い部分は赤黒く染まっており、縫われた時に血が染み込んだことを推知出来た。メイの大きな瞳が細められる。冷冽たる眼差しの先では、両手で瞼を覆って天を仰ぐマスターの姿があった。
「なんなんだオッサン、見たかったんだろ」
「細くて可愛くてどうしようかと頭を抱えてしまったよ……」
「そのまま脳死すればいいんじゃないか?」
「メイちゃん私に対して辛辣じゃないかい? 特別扱いかな、嬉しいな」
「こいつと話すのもう嫌だ……」
「メイさん、無視です無視。真面目に応じちゃダメなんですよ」
レタスを咀嚼する快音と、ユニスの呆れ声が混ざり合う。小動物のようにせわしなく口を動かすユニスに、メイが苦笑していた。