皎白の魔女6
直感に任せて身を引く。銃弾が首筋を掠め、扉に突き刺さった。
部屋の扉は鉛を貫通させないほど固い。それに胸を撫で下ろし、初老の男性に向き直る。睨み合った乃時、彼の爪先を踏む勢いで距離を詰めた。
銃口を向けてきた腕を掴み照準をずらす。発砲音はしない。けれども射出する都度彼の腕が跳ねる。数発無駄な弾を撃った彼に切りかかった。
剣先を返し、切り続けながら余地を狭めていく。腕を止めない。切る。ひたすらに空気を寸断する。静止する間もなく斬撃を打ちすがう。思考するよりも体に沁み付いた連撃の方が早い。
さながら終わりのない円を描き続ける襲撃。退避に徹する男性の革靴。彼の背が壁にぶつかった。刹那。間髪入れず喉を狙った刺突。彼は首を傾け、避けるとともに俺の腕を掴んでいた。
額に触れた銃口。上体を反らし弾丸を躱す。銃声に鼓膜が痺れる。腹部を蹴り上げるべく足に力を込めた。けれども掴まれたままの腕を引かれ、投げ飛ばされる。
夜色が砕けた。割れた窓硝子の砕片がこめかみに刺さり奥歯を噛み締めた。痛みと出血で視界が歪む。目尻を吊り上げ、ナイフを振るった先には彼がいない。負傷で目を瞑ってしまった寸隙、たったそれだけの間で後ろを取られた。
振り向いた時には頭上で照明が弾けていた。檠灯が霧消した廊下は闇に包まれ、敵の居場所が見えなくなる。音を頼りにしようにも、やはり彼は一切の物音を立てていなかった。
夜の閑静、硝子の割れた窓枠から吹き込む風韻、己の呼吸音ばかりが五月蝿い。ナイフを構えたまま、扉を背にして立った。
視界の端で散った光。ナイフを振るえば刃物とぶつかりあった感覚が腕首に伝う。拳銃だけではなく短剣まで持っていたらしい。
彼の構えも間合いも、濃藍に染まっていて窺えない。けれども向こうは正確にこちらの反撃を弾き、肉を貫きに来る。俺が立てる靴音で位置を把握しているようだった。
どうにか去なし、切り傷を受ける程度に留めるも、防戦一方を強いられていく。
下唇に歯を突き立てた。血の味を噛み締めながら夜間視力を上げる。甲高い悲鳴に似た耳鳴りが鼓膜を劈いたが、魔力を双眼に浴びせ続けた。
暗れ闇を裂く眼光。彼の姿をきかと虹彩に映せる。首を獲りにきた彼の腕を受け流し肉薄。こちらの夜眼が利くようになったのを、彼も理解したはずだ。彼は懐から再度拳銃を抜いた。
握りながら起こされる撃鉄。リボルバーが火の粉を散らす。弾道を避けて詰め寄る。こちらの狙いは首。されど切り裂けたのは鎖骨。もう一度踏み込む。月桂を帯びた利刃が描く軌道。それは正確に彼の頸動脈に向かった。
割り入ってきたのは彼の手だ。刃を握り込んだ白手袋が赤く染まった。彼は短剣を離さぬまま銃口を持ち上げた。銃撃に応じようと身構えた矢先、払われたのは足首。焦燥を呑んだ肺が揺れる。
倒れ込んだ体は影に覆われた。立ち上がるべく床板に爪を立てた。けれども手の甲にはナイフが突き刺さり、彼の革靴が側頭部に打ち付けられていた。
「くっ……」
「殺す前に一つ聞いておこう。魔女の話をしていたな。君達は何故この施設が、魔女を造るものだと知っている? どこからか情報が洩れているのなら、情報源も断たないといけない」
四肢に入る力が薄れている。先程、いとも容易く刃を掴まれ、足払いに踏みとどまることすら出来なかった。魔力不足であることは明らかだ。
帰路を辿る事すら危ういかもしれないな、と自嘲していれば、未だ流血している耳に靴底が叩き付けられる。彼を睨め掛けると銃創を踏みしだかれ、頭蓋が軋んだ。
「聞こえていないのか? 耳を撃ったのは失敗だったかな。質問しているんだよ、少年」
「……手紙をもらったんだ。アヴリル・ホーキンズは、お前らが始末したのか」
この街に来たきっかけである、手紙の差出人。素手で人体を切断した化物の目撃情報。
睨み上げた先で、男性は瞠然としていた。それから不愉快だと言わんばかりに歪んでいく面様。冷めた目でそれを捉えながら、片手に刺さるナイフの柄を握り込んだ。
「知られちゃいけないことをしているのなら、もう少し気を付けるんだな……!」
手の甲から刃を引き抜けば痛みが迸る。けれどそんなことはどうでもいい。彼の顔面目掛けてナイフを投擲。息を呑んだ彼が後ずさる。逃がしはしない。懐から引き出した短剣で彼の片足を切断。床を転がってから起き返り、獲った足を放り捨てた。
返り血を拭って彼を見下ろす。脹脛を失くした膝を抱え、眼窩から零れそうなほど目を見開く彼。それでも戦意はあるようで、俺を見るなり銃を構えていた。
「クソガキが……!」
「今度はお前が始末される側だ」
弾雨を掻い潜り近接。魔力を剣鋩に伝わせる。一閃。斬り落としたのは銃を構えていた彼の手首。マズルフラッシュが隕星のごとく幽暗を駆ける。
宙に跳ね上がった拳銃を反射的に手繰り寄せ銃身を回転させた。グリップを握り込み撃鉄を起こす。打ち放った銃弾は男の耳殻を僅か抉り取る。
空になった銃を捨て──口元を袖で押さえた。咽喉を焼いていく熱。込み上げた血。喀血と脱力感。魔力が枯渇しているという警告だ。それでも、力を振り絞って足を踏み出した。座り込む彼の傍へ、崩れ落ちるように片膝を突いた。
構えたナイフを彼の喉元に突き付け、呼吸を整えてから低声を落とす。
「二つ聞かせろ。お前、その力はどこで知った」
「は……?」
「片耳を撃たれた程度で質問が聞き取れないのか? 魔法の話だよ。お前の気配も足音も、銃声も、魔法で静められていた。一階にいた魔女の声を、あの廊下だけに留めていたのも魔法だな。お前はまず魔女を黙らせ、子供達を宥めに行った。戻ってみれば魔女と職員達が死んでいた。そして侵入者たる俺達を探しに来た……そんなところだろ」
否定は示されない。明かりのない紺青で塗られた瞳は、彼の鬼胎を透かしていた。
「その力は本来、普通の人間が知るはずのないものだ。どうしてお前なんかが知っている?」
「ア、アテナ様が、教えてくださったんだ! この施設の長は私だから、守れるように知っておけと……」
「アテナは、どこにいる」
「それは……わからない。だが、たまにここへ、様子を見に来てくださっていた。メイとシャノンのことを気に入っていて……そうだ、あの子は成功作なんだ! アテナ様に渡したいんだ! 連れて行かないでくれ……!」
震えた手が俺の腕を掴む。片手と片足を切断されたことで、流石に俺を殺すことは諦めたようだった。とはいえ、この状況で『生き延びられる』と思っている愚かさに頭痛がしてくる。
彼の手を振り払い、月明を刃で反射した。
「二つ目の質問だ」
「なあ、君があの子を連れて行ったところで、何にも利用できないだろう⁉」
刃口が、揺らいだ。手袋と柄が不快な音を立てるほど、拳を固めていた。平静が波打って、怨声が込み上げる。
「お前らに利用させないために、連れて行くんだ。これ以上、罪のない子供を傷付けさせはしない」
メイはきっと、アテナのもとへ連れて行かれたら更に苦しめられる。そんなことはこの男も分かっているはずだ。
なぜ、子供達と家族同然に過ごしていたはずの職員が、彼らを平然と傷付けられるのか。理解できなかった。だからこそ殺意が苦々しく動脈を巡っていく。
魔女を生む者達を、殺さなければならない。理不尽に壊される命が、なくなるように。実験体として囚われている人間を、一人でも多く解放出来るように。
心音は落ち着いていた。温度を失くした息差しを淡々と落としていった。
「質問に答えろ。コーデリア・アッシュフィールドという少女はこの施設にいたか? お前は昔からココにいるんだろ」
「コー、デリア……そんな名前の子供は、いなかったはず……」
「……ここでもないのか」
力無く零した音吐。それは独言に過ぎない。拳に魔力を纏わせる。言葉を待ち受けていた彼へ、言外に告げた終わり。頭部を切り離された体躯が音を立て、床に寝転んだ。
ナイフをショルダーホルスターに収めて立ち上がる。けれども数歩歩いたところで倒れかけ、ドアノブに手が届かぬまま、壁へと凭れ掛かった。
力の入らない膝が笑っていた。肩を大きく揺らし、深呼吸を繰り返す。喉元に溜まっていた血のせいで噎せていれば、扉の向こうでユニスが声を上げていた。
「エドウィン? 静かになりましたけど……終わったんですか?」
魔力が足りない。どうにか歩くことは出来る。けれどもメイを抱きかかえて帰れるだろうか。気を抜けば倒れ込みそうな羸弱さに自嘲した。
妹を攫われたあの日、『あの女』に何度も貫かれ、この手足は死んだ。魔法を使わなければ四肢を動かすことさえ叶わない。
せめて、ユニスに余計な心配を抱かせぬよう、もう一度深呼吸をしてから返答をした。
「……ああ、終わった」
(四)
昨晩こびりついた血の香りは清らかな風に攫われ、今は甘い匂いだけが漂っている。閉じたままのカーテンは陽光を孕んで暖色に染まり、窓の向こうからは時折賑やかな雑踏が聞こえてきていた。室内に響いているのは秒針の音と少女の寝息、そして少女のはしゃぎ声。
ユニスには助けられた部分もあったため、今朝、ケーキを買ってきてやった。ソファで寝ていた彼女は、起床してすぐ目の前の食卓に飛びつき、手枷を付けていない両腕を振り回していた。そんなにケーキが食べたかったのか、テーブルの周りを何度も歩き回っては嘆声を上げ続けている。
魔力を使いすぎた翌日の倦怠感は凄まじく、歓喜しているユニスの声にも頭痛がしそうだった。寝ている間に魔力は回復したため、最低限の魔力を四肢に伝わせて静寧に寄りかかる。
「わぁぁぁ! わー! ケーキですよケーキ!」
「俺が買ったんだから、わざわざ言わなくても知ってる」
「エドウィンに言ってるんじゃないもん~! メイさんみてみて! ケーキ!」
「やめろ、寝てるだろ……」
「ん……ケーキ……?」
長机に凭れてナイフを拭っていれば、蠢いているベッドが見えた。布団から這い出たメイが辺りを見回している。ドレッサーを見つめて固まった彼女に、僅かな不安が生じる。
メイの本来の姿を俺は知らないが、彼女にとって鏡に映る姿は『メイ』ではないのだろう。丸い懸珠がちらと動いた。鏡越しに視線が絡んだ気がして、俺はナイフを机上に置いた。
「メイ。昨日の事は覚えているか?」
「……覚えてる。今の僕は、シャノンの体だったな……」
「魔女のことも、覚えているか」
頷いた彼女がカーテンに手を掛けていた。眩い朝影を浴びた白髪が煌めく。虹彩異色の諸目を細めてそのまま外を眺める彼女。細い指が左腕に絡んで、縫い付けられた赤い紐を撫でていた。
「確か、僕と妹がされたような目に遭って、理性をなくした人たち、だったよね」
「そうだ。俺達は魔女を狩っているが、魔女を生み出した魔法使い『アテナ』も探している。恐らく、アテナにとってお前は喉から手が出るほど欲しい存在だ。なにせ成功作らしいからな」
「……アテナ様」
「だから、一応お前をアジトに連れて行ってマスターに……俺達のリーダーみたいな人に、お前を会わせたい。構わないか」
緘黙が降りてくる。街並みを眺めるメイの顔は、柔らかな横髪に隠されて窺えない。
成功作、と口にした自身に嫌気がして、手の平に爪を突き立てた。人を実験体にし、理性を壊して、失敗作だの成功作だの評し、モノとして扱う――その全てに抱く唾棄。それでも、アテナと対峙するにはメイを利用せざるを得ない。
全てを奪った魔女と、魔女を生んだ仇への報復。そして妹を見つけ出す為に、優しさは不要だ。そんなことは分かっている。だから、ここでメイに断られたとしても力尽くで連れて行く。そうすべきだと思うのに、顔を顰めてしまう。
形は違っても、結局奴らと同じくメイを利用しようとしている。
外道を殺す為には、同じところまで堕ちなければならないのだなと、手を汚すたび実感していた。
手袋を嵌めていない己の手を眺める。生命線に刻まれていた爪の跡はすぐに消えていく。「わかった」と、メイが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「僕もアテナ様に会いたい。あの人なら……妹をこの体に戻す方法を知ってるかもしれない。だって、このままじゃダメだ。僕の体は死んでるのに、妹は生き延びたのに。妹の体で僕が生きてるなんて、ダメだ。どうしてこんなことになったのか……あの人と、ちゃんと話をしたい」
メイの切願を、咀嚼するように反芻した。推測でしかないが、メイの妹はもう死んでいる。思うに、一つの肉体に収まる魂は一つだけ。メイの魂がその肉体にいる時点で、彼女の妹の魂はそこから出て行っている可能性が高い。
仮に、魔女と化した肉体に二つの魂が宿っていて、彼女の妹が眠っているだけだとしたら。妹の目覚めの後、メイはどうなるのか。
メイ自身の体はあの孤児院で朽ちている。もう戻れやしない。姉妹仲良く笑える日は、もう訪れない。
それでも縋っていたい気持ちを蔑ろには出来ず、口を噤んだ。
不意に『あの人』という言葉に引っ掛かりを覚える。加えて昨晩殺した男の言葉も追思していた。
「昨日の職員は、お前がアテナのお気に入りだったって言ってたが。アテナに会ったことがあるんだな?」
「そもそも、僕とシャノンを買ってくれたのが先生……アテナ様だ」
「先生?」
「ああ、えっと。孤児院の大人のことは、名前のあとに先生を付けて呼ぶ決まりだったから、それも先生なんだけど。僕はアテナ様も先生って呼んでいたんだ。妹を守りたいって言ったら、会うたび戦い方を教えてくれたから。だから、先生」
ビスクドールのような麗容が柔和な雰囲気を滲ませる。アテナのことを、心から慕っていたのだろう。碧落に背を向けたメイの微笑。逆光を受け、蒼然とした影に絵取られた彼女が、桜唇を噛み締めていた。
「……再会、出来ると良いな」
妹との再会。恩師との再会。それがメイにとって良いものになるかは分からない。俺の気休めじみた慰めに、メイは薄く笑んで首肯していた。
銀器が軽快な音を鳴らす。フォークを両手に持ったユニスが、それを楽器みたいに交差させていた。卓上にはまだ、手を付けられていないショートケーキがあった。
「真面目な話終わりました? ケーキ食べましょ! メイさん半分こしましょ! も~、話長いからお腹空きました……!」
「え、ああ……うん」
フォークを突き立て、ケーキを二等分していくユニス。大きめのビスケットに挟まれた生クリームと苺が、零れ落ちそうになっていた。メイがその様子を穏やかな目見で眺めている。砂場で遊んでいる幼児みたいな二人に、微苦笑が浮かんでしまう。笑い合う二人は姉妹のようで微笑ましい。
年相応な姿から目を逸らし、ナイフの手入れを再開した。
「そういえば、僕はまだ貴方達の名前を聞いてない。二人とも、名前は?」
作業を中断し、ユニスと顔を見合わせた。大きな藤色の瞳が俺をじっと見つめてから、得意げな笑みだけを残してメイへと向き直っていた。
「ユニスです、ユニス・アストリー。彼はエドウィン・アッシュフィールド。お兄ちゃんって呼んであげたらきっと喜びます」
「ふざけるな。二度とケーキ買ってやらないぞ」
「ごめんなさい嘘です普通にエドウィンって呼んであげてください」
「いいから早く食べろ。それを片付けて、身支度を終えたら帰るんだ。あんまり遅いと置いていくからな」
「置いてかないでください!」
くす、と、解語の花が綻んだ。メイの朗笑につられて、ユニスも頬を緩める。メイは咀嚼していたケーキを嚥下して口元を拭った。
「よろしく、ユニス。エドウィン」
嬉しそうなユニスの笑声が聞こえる。俺はナイフに目を落とした。磨かれた秋水に映り込んだのは、喜色を湛えた自分。それに気付き、相好が歪んでいく。
平穏が心地良い、と、そんな気持ちを抱いた心を許せそうにない。
日常など仮初だ。焦がれ掬い上げても、両手から零れ落ちる。砂漠の水のようなもの。




