皎白の魔女5
彼女の言葉を唇の裏で繰り返す。赤子のように泣き喚くだけで、人語を解さないはずの魔女が紡いだ質問。突飛なことに応じられず、返答に窮していればユニスが代わりに答えていた。
「私達は魔女を――」
「そのナイフ」
赤い虹彩の目路を辿る。彼女が眼差しているのは俺が握っている短剣だ。か細い腕は少しだけ震えて見えた。発露していたのは恐怖ではなく燃えさかる心火。鋏を握りしめる姿態を前に、俺はナイフを回転させ、構え直す準備をした。
「殺すつもりでここに……? 先生達に頼まれて『僕達』を処分しに来たのか⁉」
「ま、待ってください! 私達は頼まれてきたわけじゃ」
「殺させない……殺してやる……ッ!」
真っ白な裸足が地を蹴り、彼我の距離が零になる。秒の刻みよりも早い接近。ユニスに被害が及ばないよう彼女を突き飛ばした。その最中も決して白の少女から目を逸らさない。
ぶつかり合った互いの得物。交差した短剣と鋏の向こうで、大きな瞳が見張られていた。自ら仕掛けておきながら瞠若している訳が分からない。
掴めないことばかりで俺も気が緩んでいたのか、色を正した少女に腕を薙ぎ払われた。
否。こちらが集中していたとしても今の力に抗うことは出来なかっただろう。骨の形が分かりそうなほどの細腕。そのどこにこんな力が内包されているのか。彼女自身も同じことを思ったのかもしれない。鍔迫り合いの刃を払い除けておいて吃驚を零していた。
振るわれた腕の赤い紐を目にし、彼女が『魔女』と思われる存在であることを思い起こす。彼女自身、魔女と化した身体能力に順応出来ていないのは明らかだった。
それでも一度溢れ出した激情は留まらないようだ。皎白が舞う。冷静さを欠いた彼女は攻撃の手を収めない。俺は最小限の退避の合間に彼女を観察していた。
「お前、魔女なのか」
「っなんなんだ魔女って! 先生たちも言ってた。僕達は魔女なんかじゃない。信じてたのに……!」
「魔女じゃないなら用はない。武器を収めろ」
「大人の言うことなんて信用できない……これ以上奪わせてたまるか……妹の体だけでも守り抜くんだ‼」
妹。その哀感が、胸に突き刺さる。無表情を貫けない。彼女の気持ちに、苦虫を噛みつぶしたような面貌を形作ってしまう。
まるで妹を奪われた時の自分を、見せつけられているようだった。
昔の感情が蘇ってくる。過去に置いて来たはずのもの。振り返らぬよう捨ててきたはずのもの。胸の底へ押し込んで蓋をしたそれが引き摺り出されそうな感覚。
思い出に沈みそうだった意識は痛みに引き上げられる。頬骨が鋏に削られたのを知覚した直後、切り返した。集中しろと胸裏に吐き捨てる。この程度で揺らぐなと己に言い聞かせる。
一刀。八つ当たりじみたこちらの一振りは、魔女の力でも防ぎきれなかったみたいだ。少女の呻き声と、床を滑った裸足の音が重なる。押し負けた痩身は、けれども果敢に飛び掛かってきた。数度切り結んで舌を打ち鳴らしたくなる。
理性がない魔女は力を全て込め、躊躇なく殺しに来る。しかし殺意のみに任せたその動きには無駄が多い。
いま目の前で鋏を振るう少女は、熱情を原動力にしながらも無駄のない斬撃と退避を繰り返していた。余計な力を加えていない足さばきは蝶のように軽い。
刃を受け流すたびに感じる剣尖の重さ。斬りかかってくる際の接近を利用しようにも、斬るとともに身を引く動作さえ時折入り混じる。空いている手が前に出てくることもなく、生じる隙が少ない。使っているのは鋏だが、振るい方から察するに彼女は短剣の扱いに慣れている。
瞬息だけの衝突。避く距離は間合いから外れる程度。一定の隔たりを保ったままの打ち合いは双方の躊躇を見せつける。攻める好機を窺いながら斬り合っていた。
虚空を両断する。回避する少女。次いで打ち込まれたのは廻る勢いを纏った鋭鋒。俺がそれを受け止めるや否や、彼女は即座に退いた。
彼女が態勢を立て直すのは早かった。尚もそれを追いかけた革靴が力強い音を立てる。それは簡単に退けないくらいの踏み込み。互いの構えからして彼女の方が先に動けるのは明白。こちらの捨て身じみた追撃の合図に、一瞬だけ彼女が両肩を持ち上げていた。
理性があるからこそ生まれる油断。それを見逃しはしない。
真っ直ぐにその首を裂きにかかる。彼女の左手が首を庇う。右手の鋏は俺の腕を貫きに来る。そのどちらも予測済みだ。ゆえに、本当の狙いは首じゃない。
己の左手首を捻り下方にナイフを捨てる。右手でその柄を握り込んだ。直進した勢いを緩めぬまま彼女の正面で足を止めた。止まり切れなかった速度と余力は全て右腕に注ぎ込む。
「エドウィン、待っ……!」
ユニスの咎めるような叫びが背中に降りかかったが止まれない。
がら空きの腹部を突き上げる柄。不健康に見えるほど細い、子供の体だ。魔力はあまり込めなかった。しかし加減は上手く出来ず、肋骨が軋んだ感触を味わい眉根を寄せた。
力を抜いて引っ込めようとした腕に、少女が縋りつく。臓物を潰された痛みにふらついた体は、そのまま頽れていた。
「っぐ……」
「会話が出来るのなら話を聞いてくれ。俺達は魔女を殺しに来た」
「ま、じょ……」
「大丈夫ですか?」
座り込んで腹部を押さえる少女の傍らに、ユニスが駆け寄る。手枷に包まれた両腕を持ち上げて、ぱたぱたとフリルを揺らす。何をしているのかと思えば、不服そうな顔で視線を送られた。伝えたいことを汲み取れずにいるとユニスに長息を吐き出される。
「見下ろしてないで介護してあげてください。背中さすってあげるとか。私じゃ出来ないので」
「放っておけば痛みは引くはずだ」
「冷たい! 気持ちの問題なんですよ!」
「介護は、要らない……話を、続けて」
多少は落ち着いてきたのか、少女は静かに言った。握られていた鋏が床に落ちる。俺は羽織っているコートを脱いで、少女の剥き出しの肩にかけてやった。
いくら室内とはいえ、木枯らしが壁の隙間から吹き込む季節だ。上腕部の紐を縫いやすくするためなのか、袖のないワンピースだけを着ていた彼女は目を丸めてから、掛けられたコートが肩から落ちぬよう引っ張っていた。
「あ、りがとう」
「お前は……いや、その前に。お前、名前は」
「え……あ……。メイ……」
俺達が敵ではないと認識出来て気が抜けたのか、少女は鋭さを潜め、どこか心細そうに己の体を掻き抱いていた。妹のために戦おうとする姿や刃物じみた佇まいから、少年である可能性も考えた。だがどうやらそうではないらしい。
返答された女性名に「そうか」と相槌を打つ。もしかすると、幼い頃から妹を守り続けていたような、そんな姉だったのかもしれない。
「メイ、魔女については何も知らないのか?」
「童話に出てくる、魔法使いのこと……じゃ、ないんだよね」
「そうだな、別物だ。二人の人間を紐で繋いで、魔法で掛け合わせる。片方は死に、もう片方は死んだ方の生命力や筋力などの能力を全て吸い取って生き延びる。簡単に言うなら、一人で二人分の力を発揮できるような存在。それが魔女だ」
「紐で繋いで……掛け合わせる」
「魔女になった者は大抵自我と理性を失い、血肉を求めて人を襲う。一応確認するが、お前がこの部屋でされたことは、魔女の実験で間違いないな?」
メイの長い睫毛が、床を見つめる両目に影を落とした。追想している彼女の手が外套に爪痕を刻む。傷が痛むのか、寒さからか、彼女の声は吐息に溶け込みそうなほど掠れ始めていた。
「貴方の、言う通りだよ。妹と一緒に、この紐を縫い付けられて、寝かせられて……部屋が光ったと思ったら、気を失ってた。気が付いたら、僕は僕の体じゃなくて、妹の体、で……僕、は……」
「っおい」
ぐらついた上体が倒れていく。彼女が側頭部を床にぶつける直前、咄嗟に屈みこんで手の平を差し伸べた。抱き起こした体は眠りについており、閉じた瞼が持ち上がる様子はない。
苦し気に寄せられた柳眉を見てしまったせいで、労うように華奢な肩を撫でていた。この小さな体に、どれほどのものを背負わされたのか。想像して、同情しかけた自身に顔を顰めた。
「気を失ってしまったみたいですけど、エドウィン、どれだけ強く殴ったんですか?」
「魔力はそれほど込めてない。普通に殴っただけだ」
「女の子のお腹を殴るのが最低です、もっと止め方あったでしょ」
「魔女かもしれない、殺されるかもしれないって時に優しい止め方なんて出来るわけないだろ。それにしても、メイは……」
腕の中にいるメイを改めて見つめる。床に垂れている赤い紐。魔女の証は何度目にしても嫌悪してしまう。
メイの、陶器のような頬に影を塗る睫毛。それが持ち上がったなら、今度こそ彼女は、魔女らしく人を襲うのではないか。そんな不安さえ湧いてくる。
しかし先刻の彼女を思い返してみれば、それが杞憂であるようにも思えた。会話が成り立ち、人の血肉を求めることもない。そして魔女を引き付けるらしいユニスにも反応を示さなかった。
「今までの魔女は、失敗作と言われていたんですよね。つまりメイさんは、成功した魔女?」
「そうかもしれない。連れて帰ってマスターに」
音のない衝突に、息が詰まった。
肩口に熱が走る。撃ち抜かれた感覚。咄嗟にメイを抱き込んだ時ようやくユニスも異変に気付いたらしい。強張った童顔が俺の背後を振り仰ぐ。金属音も、衣擦れの音も、靴音さえ聞こえない。ただ後頭部にぶつけられた銃口だけが、敵の存在を告げていた。
「その少女をそこに置いて、武器を捨てろ。そして孤児院から出ていけ」
「ぶ、武器を捨てるのはそっちです! 撃ちますよ!」
「君も動くな。この青年が撃ち殺されてもいいのか?」
銃創から滲み出す血液。止血に魔法は使わない。戦闘に使える魔力を残しておいた方がいい。左腕が痺れていくなかで痛覚を忘れようとした。
痛みより考えるべきは今どうするか。ユニスもメイも傷付けさせずにこの男を倒す方法。
額に滲んだ冷汗が零れ落ちる。表皮を滑った生温いもの。それが汗ではなく血液だと察したのは、弾丸が床を貫通した時。左耳の付け根を掠めた鉛は血痕を散らしていた。
「エドウィン……!」
「次君が動いたら、今度こそ彼の頭を撃ち抜く。君達のことは殺したって構わないからね。孤児院に押し入って職員を殺した強盗……そんなものだろう。私が君達を殺しても、子供達を守るための正当防衛だ」
「ハッ……子供達を守る、か」
威嚇射撃で彼が狙ったのはどちらも左側だ。自身の右手に目を下ろす。支えているメイの頭がそこにある。長い雪白の髪が右腕に絡まっていた。守るような仕草で彼女の上半身を起こし、正面から抱き竦める。
「アタマ、撃ってみろよ。俺が避けるかお前の手元が狂うか、弾が運悪く貫通すればこの子が死ぬかもしれないが、いいんだな?」
「お前……!」
片腕を床に突き、振り向きながら足を高く突き上げた。蹴り飛ばしたのは敵の前腕部。けれど正確な位置が読めなかったため掠めただけに等しい。銃を取り落とすこともなく握り直す姿。旋回させた足で跳躍しつつ立ち上がる。素早くメイの胸倉を掴むとユニス目掛けて投げ飛ばした。
「わっ⁉」
「メイを頼む。そこで待ってろ」
半ば吹き飛ばされる形で、たたらを踏みつつメイを受け止めたユニス。その足が廊下ではなく、暗室の絨毯を踏みしめているのを目視し、重い扉を叩き付けて閉めた。




