皎白の魔女4
互いの影はすれ違うことなく重なる。俺の横を跳び抜けようとした魔女。その腹部に、犀利な秋霜が突き刺さっている。服に皺を刻むほど深々と沈めた刃。嘔吐いた彼女が体液を吐出する前に、刃口を空気に晒した。俺が尺鉄を引き抜いた寸時、顔を歪めたのは双方。
上腕部の肉を削がれた熱さに眉を顰めた。先に追撃の刃を動かしたのは魔女だった。
抉られた痛みに舌を打つ。細く狭まった眼路の中で灯色が閃く。呻いている暇が与えられるわけもない。胸を穿とうとする魔女の爪。その場に踏みとどまって刃金で受け止めた。
「え、エドウィン! 私も戦います!」
「お前は下がってろ……!」
魔女の狙いは俺ではなくユニスだ。切り結んでいる刃が甲高い擦過音を立てる。押し負けそうなほどの腕力に切歯して魔力を指先まで伝わせる。それでようやく互角。
俺を押し飛ばそうとする魔女を睨め付ければ、彼女の両腕が何度も出鱈目に叩き付けられた。
鉤爪の切れ味は鋼の劔と同等。受け止め弾きながら待望する隙。全身に魔力を注ぎ続けて魔女の獣じみた連撃を追いかける。左腕を払う、次いで右。左右交互に繰り出される殺意は単調。けれども魔法なしで追えるほど遅くはない。
魔力という熱を全身に走らせる。視野、動体視力、反射神経、両腕の速度そして腕力全てを魔法によって《拡張する》。
手首を素早く返しナイフを振るい続けた。刃音を伴わない剣戟。鮮少の血糊だけが衝突を明かす。痛覚を忘れた魔女は双腕を裂かれようと邁進し続ける。
魔女の肌に数え切れぬほど切り傷を刻む。蒼白い皮膚がまだらに色付いていく。鮮やぐ線条の緋色が絡み合い、彼女の前腕を染色していった。赤い手袋でも嵌めているような痛ましい姿情。だが、腕だけではなく所々流血しているこちらの方が劣勢だ。
こちらの急所を一直線に目指す魔女の指先。突き除けたところで退くはずもない。勢いを止めず突き進んだ爪は空を切らず、本能による軌道修正ののちに俺の血肉を削いでいった。
まだ、この体が魔女の速度に追い付いていない。表皮を掻い殺ぐことが出来ても四肢を断ち切るには至らない。だからこそ髪留めの時計に耳を澄ませた。
秒針が、鳴る。
防ぎ凌ぐだけで精一杯な現状を両目でしかと把捉する。向かい来る一撃を明瞭に捉える。一秒に満たない寸陰、その瞬刻を打ち眺めた。
これまで、滲んだ色彩を頼りに判断していた一挙一動。その輪郭をようやく掴んでいく。
本来一秒間に収まらない動作を一秒間に捻じ込む想像。魔法によって延伸された秒間の中でナイフを構え直す。針はまだ進まない。
現前で散った己の前髪。睫毛を掠めた魔女の爪。鋭いそれは肉片と血液を溜め込んで赤黒く変色している。魔女が再度細腕を振りかぶった。彼女が構えてから切り込むまでの間など、常人の目では認められなかっただろう。
緩やかに迫る腕、その手甲に走る血管、浮き出した骨、それらが現然と見えるほど魔女の速度に適応していた。
徒手という凶器がどこへ向かうのか。軌道を推測出来る緩慢な刻。それゆえ彼女の容貌もあざあざと映してしまう。
血走った瞳が潤んでいるように見えた。彼女が無辜の子供だったことを、思い出させられる。同情から目をそばめ、細い足首を蹴り払う。
倒れゆく彼女の体。追撃はその傾きに追従させる。間髪入れず剣鋒を叩きつけると、刃は彼女の胸骨を圧砕し、嫌な音を立てていた。
秒針が、聴覚を揺さぶる。しかし、それを掻き消すほどの轟音が、己の足元に打ち付けられていた。
「ッ……!」
仰向けに倒れた魔女の五指が革靴に突き刺さっている。咄嗟に身を引こうとしたが、床に縫い留められた足は一歩も引くことが出来ない。魔女が拳を固める。彼女の指と、己の中足骨が触れ合う酸痛を噛み殺し、もう一度心臓を刳りなした。
突先が拍動を潰した感覚。それでもなお沈める。体重と魔力を刀鋩へ注ぎ込み更に深く、深く、深く。臓腑を穿孔していけば魔女が躁狂した。一気に引き抜いたナイフは夥しいほどの紅を振り舞いた。
「エドウィン‼」
ユニスの呼声は発砲音と重なっていた。革靴と血肉が引き千切られる鋭い痛み。全身から力が抜け、思わず片膝を突く。心臓を抉っても魔女の哄笑は止まなかった。
眼前で魔女の細腕が揺らぐ。俺に向けられていた矛先は中空で射抜かれていた。ユニスの透明な弾丸が、正確に尺骨を穴だらけにしていく。
二発。三発。銃声が絶叫と絡み合う。終焉を願う弾雨が魔女に降り注ぐ。起き上がろうとしては跳ねるように倒れる様が、幾度も繰り返される。無終を思わせる銃撃は、やがて出し抜けに薙ぎ払われた。
飛び出したのは魔女。恐怖を垣間見せたユニスが身を引く。それは退避にすらならないほどの後退。割って入るのは間に合わない。判断に先行してナイフを放擲していた。
鉄を染め上げた魔力が空無を裂いて走る。魔女がユニスに触れる──その前に、ナイフが銃創だらけの腕を断ち切っていた。
片手を失った魔女に着地はさせない。意識は時の刻みに凝集させる。
針の音が木霊した。血濡れた足を引きずりながら魔力で馳せる。秒間の中で魔女はまだ上空。青黒い影に踏み込んで、魔女を見上げる。
放った視線は空虚な硝子玉と交わる。魔女は損傷のない腕を振り上げ方向転換しようとする。
その息骨を絶つべくホルスターから抜いた刃。見交わした間の沈黙はあまりに寡少。銃声が空隙を喰い破る。一音を皮切りに、氷刃が室内光を弾き散らした。
「うあああぁぁああああああ!」
高く上がった魔女の悲慟。ユニスに撃たれた魔女が腕を構え直すより早く――咽喉を切り上げた。魔力で研がれた刃は容易に皮下組織に至る。頸椎が鳴き騒ぎ、首が跳んだ。
割れるような叫びの遺響が鳴り満ちる。篠突く雨に似た血液が顔を濡らす。嗅覚を突き刺す腥気に、奥歯を噛み締める。
重力に落とされた魔女の体躯を、片腕で抱き止めた。頭部を失くした身体は動かない。腕に凭れる重みは、まだ幼い子供の重さだった。魔女の実験体として目を付けられなければ、もっと長く生きられたはずの、少女の体躯。
彼女をそっと床に寝かせた。悼むようにほんの数秒だけ交睫し、絡ませた睫毛をほどいて背後へ冷眼を向ける。
未だ硬直している職員達に歯切りしてから、自身の怒りを取り鎮める。ひとまずユニスに向き直ると、肩を上下させる彼女は拳銃を構え続けていた。緊張を解くことが出来ずに固まっているのだろう。息が上がっている彼女の頭に、軽く手を置いてやった。
「怪我はないか」
「は、はい……だ、大丈夫、です」
「無理はするな。落ち着いて、深呼吸しろ。ゆっくりだ、出来るか」
「は……はい……、っ、はぁ……」
「ああ、それでいい。落ち着くまで少し休んでろ。……――お前」
ユニスの横を抜け、座り込んだままの職員にナイフを突き付けた。先端から血が滴る。自身の手袋も赤く染まり、手首からも血が溢れているのが見えた。
己の負傷から焦点を移すと、怯え切った顔の男性がそこにいた。
「コーデリアという少女を知っているか?」
頭が回っていないのか、彼は問いかけに開口したまま言葉を発さない。片膝を突いて彼の胸倉を掴み上げる。首に剣先を宛がえば、喉仏が引き攣りながら上下していた。
「し、知らない……! あんたらはなんなんだ!」
「余計なことに思考を使うな。この施設にコーデリアという少女がいたかだけを思い出せ。それとも、飼っている子供の名前なんて一々覚えていないのか?」
「っ本当に知らないんだ! うちの施設にそんな名前の子がいたことはない! そうだろ⁉」
流血している首を曲げ、彼が仰いだのはもう一人の生き残り。へたり込んでいる若い男性が、青い顔のまま数度うなずいた。とぼけているわけではないらしい。
探し人はここにもいない。その落胆とともに彼の骨を抉った。あ、と零れた彼の息は滂沱とした血に飲まれていく。
床に倒れた彼の絶命を確認しながら、左方へナイフを棄擲。短く上がる悲鳴。立ち上がって二人目が死んだことも横目で窺い知る。ほとんどの人間が魔女に殺されていたため、仕留める相手はもういなかった。
眉間を摘まむ。耳鳴りが酷い。深く呼吸をし、身に纏っていた魔力を最小限までほどいていく。靴音の余韻さえも聞き届けられる深閑。心身を落ち着かせ、近付いた気配に瞼を持ち上げた。
「エドウィンは、大丈夫ですか……?」
「ああ。大した怪我はしてない」
「な、なに言ってるんですか! 全身傷だらけですし、足! 足大丈夫です⁉」
「とっくに魔力で止血してある。まだ生き残りがいるかもしれないし、孤児院内を見て回るぞ」
床に広がっていた血液はいつの間にか凝固していた。水音を失った血溜まりを踏み越えて、廊下の奥を目指した。
先にある部屋は二つ。一つは内側から戸が破られ、厚い扉が廊下に倒れていた。恐らく魔女は、ここから出てきたのだ。推察してから室内を覗き見る。
家具はなく、鉄製の枷がいくつか転がっている。頭部を落とされた子供の死体が三つ。血痕はまだ新しい。先刻、ユニスの香りに反応して騒ぎ出した際に殺されたものと思われる。そして殺しきれず、返り討ちにあった結果があの惨状。
俺達がここに来るまでの間で何があったかを予測し組み立てていく。違和感に目を細めた。この部屋で死んだ魔女の阿鼻叫喚は騒然たるものだったはず。しかしそんな声は聞こえなかった。
懐からライターを取り出して燭明を灯す。魔女を収容していた部屋の床には、模様が描かれていた。円や多角形を組み合わせた魔法陣。
魔女研究施設をいくつか見て回ったことがあるが、魔女を生む魔法陣は多角形を使わず円だけで構成されている。
ここに刻まれている魔法陣は、きっと魔女の声をこの部屋だけに留めるためのもの。一つの味解を飲み下し、退室しようとしたらユニスとぶつかりかけた。
「私っ、エドウィンはてっきり自分の身体能力を上げる魔法が使えるのかと思ってたのですが、もしかして視力とかは元々異常なくらい良くて、魔法は治癒魔法が使えるんですか?」
「魔法なしにそこまで目が良いわけないだろ……。どっちの魔法も使ってるだけだ」
「どっちもって……だって系統が違います。マスターが言ってました。魔法は血液型で系統が決まってるんでしょ? A型だと『拡張』の魔法なんですよね?」
「勉強会でもしたのか? 悪いが今は授業をしている場合じゃない」
最奥の部屋の戸を開ける。噎せ返るような異臭に踏みとどまる。中を窺おうとしたユニスを片手で制止し、「入るな」と彼女に告げてから明かりを点けた。
重なり合って伏している少年少女の亡骸。蠢いたのは蝿と蛆。確認のため、少年の体を転がせば頭部が外れ、群がっていた虫も散らばる。嫌悪で顔が歪んでいくのを感じつつ、見下ろした死体はどれも赤い紐を縫い付けられていた。
処分した魔女達と思われるが、腕や足の肉が削ぎ落されており、何のために埋めていないのかは分からなかった。家畜の餌にでもしていたのだろうかと適当に結論付け、扉を閉める。
「今の部屋、なにがあったんですか?」
「ただの死体置き場だ。魔女の実験に使われていた部屋がないな」
「子供達がいるほう……はありえないですよね。二階とかでしょうか」
「その可能性が高い。行ってみるぞ」
階段は廊下の扉よりも内側にあった。何の気なしに顔だけ振り向かせると、ユニスの長い袖が揺れていた。手枷から零れるフリルが両手を覆い隠しているが、その内側ではまだ拳銃を握りしめているかもしれない。
戦闘時の銃撃を想起し、彼女に問いかけながら階段を上り始める。
「ユニス、魔力は大丈夫か?」
「あ……あんまり。魔女に結構撃っちゃいました。耳鳴りがすごくて」
「そうか。もしまた魔女に遭遇したら、お前は隠れてていい」
魔力は枯渇すると最悪死に至るものだ。不足し始めると耳鳴りが起こる。呼吸によりある程度回復できるが、万全な状態にすぐ戻るわけではない。止まない幻聴を意識の外へ追いやり二階へ上がった。
「エドウィンは大丈夫なんですか?」
「なんとかする」
「なんとかって――」
「ぁああああああああああ‼」
少女の嘆きが痛ましく響いてくる。哀傷に塗れた声柄は泣き出しそうに震えていた。叫びはその一度だけ。静まり返った廊下に人影はない。
窓硝子を叩く木々の音を踏み潰していく。後目で窓外を一瞥した。夜を淡く色付ける月気。遠い月明りから時の経過を知り、嘆息を零した。
「っ魔女、ですか?」
悲鳴に動揺していたのか、遅れて付いて来たユニスが横に並ぶ。人の気配や微かな物音を拾いながらいくつかの部屋を素通りしていく。
「二階に来たお前の匂いに反応して起きたのかもな。仕留めてくる」
「私も行きます」
「お前……今日はもう魔法を使うな。危ないから下がってろ」
「それは、分かってますけど……」
足を止めた。鉄の音が一つ響いたからだ。ドアノブを捻った時のような涼しい金声。音の出所では再度金具がぶつかり合って騒ぎ、静まった、と思いきや、今度は鈍い音が扉を強く打っていた。
扉を蹴破れないほど非力な魔女なのだろうか。部屋の鍵は廊下側に取り付けられている。その一室を前にし、片手で執刀した。警戒を緩めることなく、決然と錠を解く。
開扉した暗室から飛び出したのは――白だ。
烏夜の影さえ明色に変えるような、眩い真珠色の長髪。透き通った白皙。咄嗟に身を引いた少女の、純白のワンピースが風を孕んで揺れていた。
少女は、ぶつかりそうになった俺から距離を取り、暗い部屋へ後退する。震えた手に握り締められている鋏。それで鍵を壊そうとしたのだろう。理性を失っている魔女ならば取らない行動に、構えかけていた腕を垂下させる。けれども無彩色を泳いだ真紅が、目を射った。
紐を縫われたばかりなのか、彼女の上腕部は桜色に腫れていた。数度交差して縫い付けられた赤い紐。その先端は細腕の前でひらめいていた。
「貴方たちは……誰だ」
凛然とした鈴の音が、幽かな不安を滲ませている。
花貌が、持ち上がる。柔らかな髪の隙間から覗くワインレッドとカメリアのオッドアイ。真っ直ぐにぶつけられた瞳は鋭い敵意を纏い、揺らぐことのない芯を宿していた。