凋落6
メイの手をそっと振り解き、硝子片や木屑の転がる地面を踏破していく。そんな俺を足止めするように立ったのはユニスだ。
無数の感情が絡まっているような顔色。それを見て、僅かに戸惑った。
「貴方はあんまり動かないでください。魔力不足か貧血か知りませんが、フラッフラですよ」
足取りは誤魔化せないようで、情けなさに眉根を寄せる。魔法で包み飾ることも今は難しい。魔力が少ないことを耳鳴りが訴えてくる。脱力しない程度の、涓埃ほどの魔力だけを走らせるのが限界だった。
ユニスが熾昌な勢いで俺に詰め寄り、目尻を吊り上げた。
「どうして、そんな……ひどい怪我をするまで無茶するんですか。いつもいつも、死にそうになって……!」
「……悪い」
「い、いえ……謝って欲しいんじゃないんです。一人で戦ってくれて、ありがとうございました。貴方が魔女を引き止めてくれたから、他の乗客は無事ですよ」
「そうか」
今にも怒号を放ちそうなほど気上がったかと思えば、大憂を湛えて微笑んでくるものだから返事に困る。困り眉で微笑する彼女は暗涙しているようにも見えた。
彼女の幽思に胸が暖まるような、同時に面映ゆいような、居心地の悪さを覚えて踵を返した。
そこには切断された手を持ったマスターが待機しており、彼とぶつかりかけた足を咄嗟に引くこととなった。空気を明るくするためか、彼は場違いなほどの高笑みを上げていた。
「手、見つけたんだが随分綺麗に切られたね! 切断面が綺麗だ! さ、繋げるから腕を出してくれ」
「……頼む」
擦り合わされた切断面から血が沁み出したが、繋がっていくにつれてそれも乾いていく。傷を確認する為か、マスターが俺の袖を捲って前腕部を晒した。五年前、仇敵に刻まれた古い傷跡が視界に入り、眉根を寄せて顔を逸らした。
目線を変えた先にあったのは毀棄されたテーブルや椅子、炫耀と煌めく銀器の欠片。切り砕かれ、星散と散らばった日常の残骸を見て、結局顔は顰められていく。
被害者を思って嘆くような優しさは持ち合わせていない。単に、ここまで荒らされる前に仕留められなかった己に対する、後悔に似た苛立ちが湧いてくるだけだ。
透影の眩しさに顔を上げる。列車は森然たる木々の中を走っており、散り透いた木の葉の間から淡碧の空が見える。
陽光に軽く目を伏せ、深呼吸を落とす。既に一日を過ごしたと思う程の疲労感だが、蒼天は未だ赤らむことなく、暄暖な日中であることを報せていた。
こんな場所で遭遇すると思っていなかった魔女と、一般人の男性の死で乱れていた心が虚静としていく。割れた窓から吹き込む颯声が心地良い。木々が立ち並ぶ一路を通り過ぎ、景色は拓いて空だけが広がる。
どこまでも続いている雲際を眺望した。手持無沙汰な閑暇に寄りかかり、閑雲を観察して治療の終わりを待っていた。
「あ!」
「っなんだいきなり」
なにを落想したのか、マスターが突然吃驚を零したものだから俺も動揺してしまう。思わず魔法がかけられた手を見下ろしたが、切断面は綺麗に治っていた。彼は無言で喉を鳴らし、どこかわざとらしい誤魔化しの咳を漏らしている。
「なんなんだ一体。手は……普通に繋がったぞ」
「いや、運転手が殺されていたらマズいなぁと、今更私は気付いてしまったよ。流石に私も列車なんて運転できないから、早くブレーキをかけないと脱線したり横転したり事故になるかもしれない」
深刻さは露ほども感じられない、かわらかな声音。言い淀むことなく語り出した彼に呆然としてしまう。
メイとユニスも彼の説明を噛み砕いており、一瞬だけ静まり返る。マスターだけがひらひらと両手を振って、ふざけた踊りでもするかのように痴めいていた。
笑っている状況ではないというのに、笑みを絶やさない彼の影へユニスが靴底を叩きつけた。
「なんでもっと早く気付かないんですか!」
「私だけを責めるのかい⁉」
「いいからオッサンは先頭車両まで走れ!」
「うーん、うちの子達は私に対して辛辣だね! 可愛いからいいんだがね!」
マスターの思い過ごしであればいいが、前方車両からは人の気配がなく、話し声もしないことから、この先には死体が溢れている可能性の方が高い。
とはいえ、先頭車両には魔女も行っていない可能性がある。運転手は異変に気付かないまま運転を続けているかもしれない。
一つ前の車両に進むと、細い通路にはいくつもの死体が転がっていた。コンパートメントの窓硝子も割れており、扉が壊れている部屋もあった。廃墟のごとく寥落とした道は、何も踏まずに通ることすら困難だった。
切断された頭部が列車の揺れで足元に転がってきたため、それを軽く避けていく。
罪のない人々の冤鬼が彷徨っているような、陰陰とした空気が深まっていく。死者の服装や荷物から察するに、裕福な旅行客が多い。彼らもこんな事態に見舞われるなど思いもしなかっただろう。
僅かな憐れみを瞼の裏へ押し込んで正面だけを見据えた。亡骸を踏まぬように、革靴を赤く染めていく。
引き出された臓物や裂かれた脳髄──血という汚穢で満ちた通路は魔女の乱悪さを黙示しているようだった。
沈思していると、純白が視界で波打つ。メイが一歩先へ進んで俺を見上げていた。
「エドウィン、歩くの辛かったら掴まっていいからね。大丈夫?」
「大丈夫だ。メイは、怪我してないか?」
「うん。僕が来た時にはもうトドメを刺すだけだったし。エドウィンのおかげだね!」
眩燿とした笑顔に面食らう。死者が寂寂と行き交う空気を、彼女は容易く取り去ってしまう。
先程まで彼女は、男性を死なせたことで暗然としていたはずだ。けれどももう立ち直ったかのように破顔してくるものだから、俺も苦笑してしまった。彼女はどこまでも真っ直ぐで、俯き続ける性質ではないのだ。
「……よかったな」
「え⁉ えっと、うん。エドウィンが生きててよかった!」
メイの白らかな頬に熱の色が灯る。あかいオッドアイは暖かな燭花を宿しているみたいで、粋美な眼差しが心地よかった。
「わー、お二人ともホントに仲良しですね。楽しそうでよかったですね」
清香を振り撒いたユニスがやけに冷たい視線を刺してくる。妬視を思わせるそれが俺に向けられているのか、メイに向けられているのかは分からないが、メイはユニスを除け者にしてしまったと感じたらしく「ご、ごめん!」と困り顔で謝っていた。
秒を刻む速さで進みながら何気なく窓枠を横目で映した。不規則に振れる車体。その振動がどこか、これまでと違って見えた。
風の爽籟が乱れて聞こえたのは一瞬のことだ。足元が傾いたのを感知してすぐ声を上げていた。
「メイ! 受け身を取れ!」
「え──」
メイは一人でどうにか出来るだろう。そう判断してユニスの腕を掴んで引き寄せる。
倒れていく車体の中で、飛んできたアタッシュケースにぶつからぬように引き避いた。空空の場に浮いた感覚は一瞬。仇の風が吹き荒れ、地面とぶつかった窓硝子が跳ね上がる。
ユニスをコートで包み込み、肩から窓枠へ倒れ込んだ。遺体も同様に床から転げ落ちていた。
大風が通り過ぎて蕭散が訪れる。目の前を包んでいた砂埃が少しずつ晴れのいていく。打ち付けた体と、硝子が刺さった頬の痛みに眉根を寄せてから上体を起こした。自身の頬から硝子を引き抜いて、魔法で止血する。
喀血しそうになった口元を押さえて目線を下げると、俺に凭れかかっているユニスがいた。震えている体に気付いて離れようとしたが、彼女が俺の足に乗っているせいで離れることが出来ない。
「ユニス」
「っ……!」
持ち上げられた顔は惶惑し、怯えきっていた。涙眼が怨みを込めて俺を刺し貫く。他者との接触を抗む彼女の手枷が、鈍い音を伴って俺の胸に打ち付けられた。
彼女は衝撃の反動を利用して後方へ跳び上がると、我に返ったのか戸惑い始める。怨憎の色は消え、蒼褪めていく相貌を前に、俺は出来るだけ穏やかに話し出した。
「悪い、怖かったよな。お前を……傷付けたくなかったんだが……精神面への配慮が欠けていた。すまない」
「な、なんで……私が悪いんです。守ってくれたのに、殴るつもりなんて、なかったんです、嫌だったとか、貴方が嫌だとか、そういうことじゃなくて……!」
殴られたことなど気にしていない。彼女にとって、他人に汚された過去は拭い去れないものだ。だというのに、その嫌な記憶を想起させるような接触をした俺が悪い。
かといって慰めるべく手を伸ばしたなら、きっとそれだけでも怯えさせてしまう。言葉でしか安心させてやれないというのに、その言葉すら泡影のようだった。慰めになどならず消えていく。
「いい。無理はするな。お前が無事なら、それでいい」
「無理なんてしてません! 私はエドウィンになら……!」
ショートブーツが硝子を踏み付ける。涙を零し始めたユニスが俺に詰め寄った。涙痕が乾く前にその道筋を辿り落ちる雫。穢れなき硝子玉のような、朗徹とした双眸に唇を噛む。
自責の念に駆られる彼女を諒するため、俺が出来ることなど一つしか浮かばなかった。首を左右に振ってから、ユニスの横を通り過ぎる。
「大丈夫だ。助ける時以外は、お前に触らない」
陽光がほとんど差し込まなくなった冥暗の下で顎を持ち上げる。頭上にあるのはコンパートメント。部屋によっては開いたままの扉が垂下していて、今にも落ちてきそうだった。車内の電気も衝撃で壊れたのか、灯影さえない。コンパートメント内の窓から落ちてくる僅かな日輪のおかげで、仄暗い、と思う程度で済んでいた。
少し歩くと、メイまでどこか傷付いたような目をしており、瞬刻言葉に詰まった。
「……メイ、無事か?」
「う、うん。二人は、大丈夫?」
「俺は平気だ。ユニスは……怯えさせてしまったな。俺は離れるから、メイはユニスの傍にいてやってくれ」
「わ、かった」
薄れ日を頼りに、晦晦とした道に躓くことなく前方車両を目指す。だが車両を移動するよりも先に、マスターが走って来た。俺の前で足を止めると、彼は後頭部を掻きながら放笑していた。
「あはは、派手に倒れちゃったね!」
「笑い事じゃない。マスター、停車させるのは間に合わなかったのか」
「いやあ、運転台なんて初めて見たから、どれがどういう機能を持っているのか一つ一つ観察してしまってさ。このレバーか、それともこっちのレバーか、これはなんだろうって見てるうちに楽しくなってきて」
「ああ……結論だけ言ってくれるか」
いつまでも結論に辿り着かない迂言にうんざりしてきて急かしたら、今度は笑ったまま頬を掻き始める彼。自身の口からため息が溢れた。
「止める前に曲がり道に差し掛かったんだな?」
「いや、適当なレバーを思いっきり引いたら倒れてしまったんだ。ははは……」
「……」
「エドウィン黙らないでくれるかい⁉ 無視されてるみたいで辛いよ⁉ せめて叱ってくれ⁉」
「俺だって列車の運転なんて出来ないからな、叱る権利なんてない。楽しんでいるうちに横転していたのなら軽蔑したが、停めようとしてくれたんだ。責められないだろ」
自分が倒したという事実を隠さず、正直に語ってくれたのだからなおさら何も言えない。目を皿のようにしていた彼が、次第に喜色満面になる。その表情を訝しんでいたら頭を撫でられた。
不快に思って振り払うも、彼は再び手を伸ばして撫でてくる。こちらの嫌厭を意に介さず撫で続ける彼の腕を、今度は払うのではなく、握り潰す勢いで掴み止めた。
「っなんなんだ、やめろ」
「君が良い子に育ってくれてお父さん嬉しいよ……」
「茶番はいい。運転手は亡くなっていたんだな?」
「ああ、そこでね」
芝居がかった閑雅な動作で示されたのは俺の足元だ。傍に在ったのは男性の亡骸。彼の纏う布帛は血にまみれているが、確かに乗務員の制服だった。
「恐らく魔女による殺人に気付いて、運転室から出て止めようとしたんだろう」
「それで、そのまま殺された、というところか……」
俺と彼の臆説は一致していたようで、彼は首肯を返してくる。
「とりあえず列車を降りて、線路を辿って駅を目指そうか。そこから目的地に向かおう。と、その前に魔女を連れていた男性の所持品を見てこないとね。私が見てくるから、エドウィンは先に外で待っていてくれ。運転室の正面の窓を壊しておいたから、そこから出られる。メイちゃん達も一緒に……」
マスターの目線は持ち上がり、陰路と言える薄暗い通路をぐるりと見回していた。彼が黙ったおかげで声のない空寂が広がる。ユニスのしゃくりあげる呼気が響いてきて顔を顰めた。それはマスターも同様で、弱り切った彼女の姿を心配そうに眺めていた。
「エドウィン、どういう状況だい? 可愛いユニスが泣いてるじゃないか。メイちゃんも悲しそうだし」
「列車が倒れる際に、ユニスが怪我をしないよう引き寄せて庇ったんだ。だが……彼女のトラウマへの配慮が欠けていた」
「ああ……うん、それは、仕方ないね。きっと私でもそうしただろうし。ユニスが落ち着くまで待った方がいいかな……君だけ先に外で待っていて。私が出る時に二人にも声を掛けるよ」
「……分かった」
俺の方こそ叱られるかと思ったが、許してもらえたことに胸を撫で下ろした。マスターの後ろ髪を目で追えば、メイとユニスの姿も視野に入る。
メイも応じ方に困っているようだ。ユニスはメイの気遣いを受け止めつつも一定の隔たりを保っていた。
ユニスにとってメイほど仲の良い相手でも、彼女の過去が接触を拒むのだろう。慰めてやりたいが、少女であるメイよりも、男である俺に対する嫌悪感の方が強いはず。一声掛けるだけでも怯えさせる可能性が高く、近付くことを躊躇う爪先が、向かう方向を定めてくれない。
花瞼を力強く瞑りながら、声を殺して袂を絞るユニス。堕涙し続ける姿を見つめていたらメイが振り向いた。声を出さずに唇の動きだけで「大丈夫」と告げた彼女の、典麗な顔が柔らかに微笑む。ほんの少しだけ安堵した。軽い点頭を返して、二人に踵を向けた。
先に列車の外へ出ると、幽静な草原が広がっていた。遠くへ目を凝らしても、線路の果ては見えてこない。駅と駅の中間ほどの位置なのか、幽境じみたこの場には民家や建造物も見当たらなかった。
緑一面の景色を眺め、深く息を吸う。耳鳴りが、頻き降る雨音のようだった。魔女との戦闘後から未だに魔力が回復していない。駅までの道を歩き抜けるか──。
思惟した時にはもう、身体は崩れ落ちていた。
魔力という炎が消えていく。意識が、暗闇の淵へと漂溺していく。瞼の裏で、無影が残夢を映し出す。
それは、忘れかけていた記憶だ。離れ果てていた故郷に、五年もの年華を経て訪れるからだろうか。
整った顔で母が泣き笑う。濡れた眼を泳いだのは戒懼だった。何を戒め、何を恐れていたのか、幼い俺には分からなかった。
か細い小指と指きりをして、言い交わした言葉。
絶対に──してはいけないのだ、と。誓わせられた内容は思い出せない。その約束に背くことなく、しかと守れているのか、分からない。
ただ、祈られたことだけは覚えている。
──貴方が少しでも長く生きられますように。
暖かな陽射しの中で見る華胥の夢は、底なしの暗闇に落ちる。意識しか存在し得ない無色界。手を伸ばして夢裏から這い上がろうにも、そこでの俺は実体を持つことさえ許されていなかった。
人は簡単に肉体を手放す、脆く如幻な存在なのだと、暗幕が告げていた。




