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誅戮のヘイトレッド   作者: 藍染三月
二巻/第一章
32/108

凋落4

 僕もフライドポテトを味わいつつ空の青さを確かめる。晴天が天陰ひしくことはなく、日輪が耀映していて胸を撫で下ろす。このまま糸雨さえも降らなければいい。せっかくサンドイッチを作ってもらったのに、外で食べられなかったら落胆する自信があった。


 食事中に食べ物のことを勘考している自分にハッとして、微苦笑が浮かんだ。ユニスの影響を受けているのかもしれないと思ったが、僕は大食なわけではないから、食欲旺盛なユニスとは異なる。


 多分、好きな人達と食事をするのが楽しいから。普通の家族みたいに旅行やピクニックをして、何も気にせず逸遊と笑い合えるのが、嬉しくてたまらない。


 家族と幸せに過ごす日々を夢見たところで、そんなものは徒夢あだゆめでしかなくて、叶わないものだと思っていた。ずっと憧れていたものに手が届いたよう。


 嬉しい、のに。眼裏で『家族』の姿を見てしまう。妹の哀咽あいえつが思い出の匣から溢れ出して、僕を呪うように泣き続ける。


 病死した母を救う術は本当になかったのか? 妹と僕が縫い繋がれる前に、本当に逃げられなかったのか。そんな追悔が無意味なことはわかっている。


 奥歯を擦り合わせて牙噛きかんだ。


 孱弱せんじゃくな子供のままでいたくはない。だから後ろを向くのはやめたはずだ。元に戻したいんだろ。色の違う二つの粘土を無邪気に捏ね回すように、一つの肉体に旁魄ほうはくされた『僕達』を。


 僕だけが生き残ってしまったことに、いつまでも嘆いていたくはない。心骨で、熄滅そくめつしてしまいそうに揺らぎ続ける決意へと薪を焚べる。この世に留まることが出来た僕だからこそ、成せることを、しかと成せ。


 己に言い聞かせていたら、目の前でユニスの袖がひらりと踊った。


「わっ、なに⁉」


「なにって、メイさんが怖い顔して固まってるから呼んでたんですよ。魚のフライに骨でも入ってました?」


「入ってない。美味しいよ」


「ふむふむ、ではお一つ下さい。あーん」


「手枷してないんだから自分で取って食べなよ……っというか、列車に乗ってからずっと手枷外してない? 大丈夫なの?」


 ユニスは他人との接触にトラウマを抱えており、いつもなら自分を守るために拘束具で両腕を覆っている。マスター(オッサン)やエドウィンに拘束具を外してもらっているのを時々見かけるが、何かを食べる際くらいだ。


 平然としていたから気付くのが遅くなったものの、思い返してみるとコンパートメントから食堂車に来るまでの間も、彼女は手枷をしていなかった。所持していないところから、恐らくオッサンが預かったままなのだろう。


 繊手が白身魚のフライを一つ摘まんで持っていく。


「大丈夫じゃないですけど大丈夫です」


「つまりどういうこと?」


「……メイさんやエドウィンやマスターがいる間は、外してても大丈夫な気がする、と言いますか……。大丈夫、になっていかないと、いけないような気もして、少しずつ手枷を着けない時間を伸ばしてみたり──っなかなか美味しいですねこの魚!」


 真剣な話の流れを断割するユニス。誤魔化された気もするが、ユニスが自身の弱さに叛意を抱えていることはよく分かった。苦手なことに立ち向かい、踏み越えていこうとする彼女を素直に尊敬する。


 だが同じくらいの大患も込み上げてきていた。その心配は口にしない方がいい、と、なんとなく思った。


「……なんだ?」


 エドウィンの独り言は珍しく、僕もユニスも彼を窺ってしまう。彼の采色は砥がれた鋒鋩みたいに鋭い。胸騒ぎが一時だけ僕の味覚を奪っていて、呑み込んだフライドポテトは味がしなかった。


 食堂車よりも奥の車両で、子供が哭泣こっきゅうしていることに心付く。泣き返った子供の哀号は次第に大きくなる。あまりに喧狂としていて、その異常さに肩が震えかけた。


「なにか、あったのかな……赤ん坊の泣き声とも違う感じがするし……」


「……不審者が現れたとか、殺人事件みたいなことが起きていなければいいが」


「そういえば私がぶつかった男の人が言ってましたね。鼓膜が破れそうなほど子供がわーわー泣いてたって。よっぽど泣き虫の子が乗っているとか、虐待されてるとか、お金持ちの人が、奴隷でも連れてるとか」


 彼女の言貌に翳が落ちる。蒼白い顔容は、玩弄物がんろうぶつとして扱われていた過去に歯噛みしているみたいだった。


 おそらく彼女はまだ、穢れが汚泥みたく纏わりついていると思っている。彼女の指先は自らの細腕を抱いて、袖に深い皺を刻んでいた。


 隠隠と、独りきりの世界に閉じこもるみたいにユニスが項垂れる。頻闇しきやみに沈んで行きそうな彼女を、温言が引き上げようとしていた。


「仮にそうだとしても、その子供はお前じゃない。今のお前は奴隷なんかじゃないし虐げられてもいない。俺もメイもマスターも、お前が嫌がることはしない。もし、嫌なことや欲しいものがあったらなんでも言っていい。とりあえず今は……そのケーキを食べきるんだな」


 寒声にも聞こえるエドウィンの声遣いは僅かに途切れ途切れで、慰めることに慣れていないのが僕にまで伝わってくる。伏し沈むユニスへ、僕も温かな気味合いで励ましたくなった。


「ユニス、大丈夫だよ。僕は君を守りたいって、言ったでしょ。その気持ちは変わらない。何かあっても、僕もエドウィンも君を守るから。君を一人ぼっちで泣かせたりなんかしないからね」


 こくん、と、小さな頭が頷く。ゆっくりと面を上げたユニスが打見したのはエドウィンのいる方向。彼のティーカップの隣を、繊指が示した。


「チョコケーキ、食べたいです。エドウィン、取って」


「ああ。……ユニス、ほら」


 ユニスを慰解いかいする優しい声音。彼は片手で皿を持ち上げ、もう片方の手で一口大に切り分けたチョコケーキをフォークで刺すと、ユニスの方へ差し出していた。食いつこうとしていたユニスが、はたと固まって、拳をテーブルへ叩きつけた。


「た、食べさせてなんて言ってません! そんな恥ずかしいことよく出来ますね⁉」


「……悪い、子供相手だとつい……」


「五歳しか変わらないんですから子供扱いしないで──」


「うわぁあああ⁉」


 卒然と、男性の悲鳴が上がった。それを皮切りに、食堂車には泣哭きゅうこくが鳴り満ちる。


 助けてと鳴りかかりながら後方車両へ走り出していく人達。驚怖する彼らを横目に、僕が席を立って振り向くと、前方車両へ繋がる扉の前に少年が立っていた。


 窓硝子を割りそうなほどの喧擾けんじょうが充満していく中で、ただ唸っている少年。その手は女性の首を握っており、彼女の胴部を引き摺っていた。


 頭部を失くした断面から溢れる腥血。四肢までも千切られた、トルソーのような躯幹。朱殷が少年の足元を満たしていく様に、惨慄して立ち竦んだ。


 腥羶せいせんたる血の臭いが鼻を刺す。震恐して尻餅をついている乗客の前に、エドウィンが立っていた。


「立てますか」


「え、あっ、あ……」


「……メイ、ユニス。彼女を安全なところに避難させてくれ」


 エドウィンはこちらに背を向けると、傍にあったテーブルの上からナイフを手に取っていた。戦闘用のナイフを所持していなかったからか、食器で代用するつもりのようだった。


 僕達が会遇したあの少年が何であるのか、彼はけだしく見当が付いているのだ。普通の子供とは思えぬ異様さに、僕もアレが『魔女』なのではないか、と感じていた。


「エドウィンはどうするんですか⁉ 私も残ります!」


「残ってどうする。武器がなければ戦えないだろ。一度コンパートメントに戻って──」


 虚ろにどこかを見つめていた少年が、僕達を斜眼する。ひっ、という女性の恂慄しゅんりつを耳にしてすぐ、僕は彼女を抱き上げた。


「エドウィン、すぐ戻るよ。ユニスも早く!」


「わ、かってます!」


 少年の哀叫が耳を刺す。今にも泣き出しそうな、悄愴しょうそうで染まる叫び声。それを無視して駆け出した。


 錚然そうぜんとした刃物の衝突音と、エドウィンの舌打ちが重なる。彼なら大丈夫だ、と自身に言い聞かせて食堂車を飛び出した。


 のんびりしていられない。空気を切る速さで馳せる。震怖する女性を強く抱きしめて先を急げば、集まっている乗客達に足止めをされる。


 この先にたぶれ人がいるなどと思いもしないのか、食堂車へ近付こうとする者達。彼らを説得しなければならないことに煩わしさを覚えながらも、僕は叫んだ。


「食堂車に行っちゃダメだ! 人が殺されてる! 危ないから逃げてください!」


 死人が出ていると聞いた彼らは、この先にどれほどの危険が待ち受けているか理解したようで、蒼褪めた顔で慌てふためく。そうして焦るあまり、転びそうな足取りで逃げ出す人や、男性になんとかしろと泣きつく人、列車の乗務員に怒鳴る人などが立ち騒ぐ。


 彼らを前に、どうするべきか思考した。ひとまず抱えていた女性を近くにいた乗務員に預けることにした。


「この人を安全なところまでお願いします」


「あ、ああ。君も早く避難しなさい! ──エリック達は犯人の確保に向かってくれ!」


 二人の乗務員が彼の指示で食堂車へ向かおうとする。彼らは乗客を守れるよう訓練を受けているのかもしれないが、それでも魔女を相手にするのは死にに行くようなものだ。


 乗客のように惑乱してくれたなら良かった。けれども乗務員たちは正義に従い足を踏み出す。僕は慌てて彼らの進行方向へ躍出やくしゅつした。


「っ待ってください危ないんです!」


「大丈夫だよお嬢さん、私達は乗客の皆さんを守らないといけないからね」


「そ、れは、そうだけど……! あんなの相手にしたら貴方達が死んじゃうって!」


 彼らの命はすぐに散ってしまう徒物あだものだ。魔法について知らない人間が魔女と相対したところで、殺されずに在り果つことなど出来ない。


 魔女は和談出来る相手ではない。僕は彼らに生きてほしい。どうすればこの意念が伝わるのか分からず、唇を噛み締めて彼らを見上げるしかなかった。


 いっそのこと、食堂車に近付けば殺すと威迫した方がいいのかもしれない。自分たちでは敵わない相手に立ち向かい、禍敗を味わわせるよりは、どんな手を使ってでも引き止めるしかないと思った。


 けれど上手い言葉は見つからず、無言のまま歯切りして、乗務員の袖を強く握ることしか出来ない。すると彼が、僕の頭に手をのせて優しく撫でてくれた。


「お嬢さん、心配してくれてありがとう。君も早く奥の車両まで避難を」


 逃げていく乗客の波に逆らって、見慣れた男がこちらへ走ってきていた。しろつるばみの長髪を振り乱し、マスター(オッサン)が僕と乗務員の影を荒々しく踏み付ける。難色で顰められた彼の顔は真っ直ぐ乗務員だけに向けられていた。


「そんなところで何をしているんだ! 列車の乗務員ってのは客も守れないのか⁉ 早く犯人を捕らえてくれ!」


「す、すみません。今から向かうところで……」


「そっちじゃない、向こうだ! 奥の車両で人が撃たれて、犯人が人質を取ってる!」


「え? けど皆さん前方車両から逃げてこられて──」


 乗務員の男性の声を遮ったのは、少女の悲鳴と数度の銃声。食堂車に向かおうとしていた彼らは顔を見合わせ、オッサンに頭を下げてから後方車両へ走り出した。


 オッサンは息を一つ吐いてから熱を静め、僕を見て微笑んだ。彼は腰を屈めて僕につつめく。


「これで大丈夫だ。私達はエドウィンに加勢しに行こう」


「大丈夫って、時間稼ぎにしかならない……! だって今の悲鳴と銃声ってユニスだろ⁉ 不審者がいないと分かればすぐこっちに戻ってくる!」


「──時間稼ぎで良いんですよメイさん。早くそっちの車両に移ってください」


 僕たち以外誰もいなくなった車両に現れたのはユニスだ。乗務員が素通りするよう、どこかの部屋コンパートメントで待機していたのだろう。


 オッサンに着けてもらったのか、華奢な諸腕もろがいなは拘束具でおおわれていた。その掌裡にはきっと、まだ拳銃が握られているはず。じっと彼女を見つめていたら、彼女は呆れたように息を吐く。


「はぁ……メイさんってば、なに私に見惚れてるんです?」


「え、違うけど……」


「分かってますけど! 冷静に否定できるのなら冷静に判断して早く隣の車両に移動しなさい! さっきの乗務員が戻ってくる前に前方車両と後方車両を切り離しますから!」


 説明されてようやく彼女らの作戦を理解する。先に前の車両へ移っていたオッサンに続いて僕も急いで移動する。ユニスが僕の隣へ踊り入る。


 響いた靴音が消えていくまでの寸隙。そののち、筒音が轟いた。袖のフリルが舞い上がる。垣間見えた拳銃の火身はユニスの魔力のせいか光って見えた。それは錯覚かもしれないが、強い魔力が込められていたのは確かだ。


 たった一発の透明な弾丸は、車両の結合部を圧砕。僕達のいる前方車両と、他の乗客や乗務員がいる後方車両を切り離した。


「ユニス、すごい……!」


「ぶ、無事切り離せてよかったのですが……ちょっと、魔力を込めすぎました……耳鳴りが……」


「後は私とメイちゃんとエドウィンに任せてくれればいいさ。ユニスは安全なところで待っていて」


 労おうとしてか、頭を撫でようとしたオッサンから勢いよく身を引くユニス。普段通りの様子で、整った紅顔を苛立ちで染めていた。


「触らないでください!」


「ああ、済まないね……いや、帽子の上からならエドウィンには触れさせてるじゃないか⁉」


「たっ……確かに服の上からなら耐えられますけど! 嫌なものは嫌なんです! いいから早くエドウィンのところへ行きますよ! 私も一応近くで待機しますので!」


 僕達を足早に追い越したユニスの、聖水みたいな香気がふわりと散った。遠くから高く聞こえてくる鍔音つばおと啼哭ていこくに、僕は唇を噛み締めた。やがて銃声が耳を突き、焦慮が込み上げる。


 食堂車へ踏み入れば、敵影が遠くに見える。そこにはエドウィンと、魔女と思われる少年と──少年を庇蔭ひいんするように立ちはだかる、壮年の男性の姿があった。


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