洋紅色6
(四)
痺れるような疼痛に顔を歪める。僕が今何をしているのか把握するまでに時間ががかる。遡っていく記憶の中には魔女と相対するエドウィン達がいた。
飛び掛かろうとした僕は行き交う人に流された。それでも彼らを追跡しようとした時、首筋を通貫した痛み。
針で穿刺された部位に、手を伸ばした。はずだった。何にも触れられない感覚が、僕を起き上がらせていた。
飛び起きたら鼻先に他人の髪がぶつかる。短い茶髪が持ち上がる。僕の上で四つん這いになっていた男が、真正面から僕を見た。
窶れて落ち窪んだ眼窩に淀んだ碧眼が収まっている。中年の男性は血塗れの頬を緩めて言笑した。それは恐らく返り血。誰のものか、微睡む脳を叩き起こして潜思した。
「おはよう、お嬢さん。私はヘクターというんだ。君の名前は?」
「いっ……」
身じろぎに伴われた激痛。今にも倒れ込みそうに体が揺らぐ。どうにか上体を起こした姿勢で留まり、ベッドに突いている腕を見下ろした。
白布を彩色している緋。唾を飲む。背筋が粟立つ。両腕は肘から先を失い、滂沱たる猩血を延々と広げていた。
引き攣った口端を、虚飾で吊り上げる。嘲罵を吐き捨て彼を睨め上げた。
「魔女を強姦して殺してる変態ってのは、お前のことか? ホントに腕切り落としてベッドに寝かせるんだな、悪趣味すぎるだろ」
「勘違いじゃないみたいでよかった。君、魔女なのに会話が成り立つ。成功作じゃないか」
べたついた手が頬に触れる。沁みてくる体温も、血を塗りつけられる感触も不快でしかなかった。蹴り上げてやろうとしたが、足首に絡んだ縄がフットボードに繋がれており、歯を軋ませる。
「触るなクソジジイ。コレは僕の妹の体だ。それ以上触ったら殺してやる」
「魔女はね、普通の人間じゃ敵わないほどの力を持っている。けれど両腕を失くして、足も繋いでしまえば人と変わらない。違うのは、諦めるなんて思考がないからずっと抵抗して泣き叫び続けてくれるところさ。でも君は心が残っているから、失敗作の魔女よりつまらないかな?」
太腿を掴まれた瞬間、沸騰した嫌厭の赴くままに髪を振り乱した。男の顎に頭を打ち付けて彼を突きのける。バランスを崩して横転した彼に乗り上がる。逆転した形勢。だが、手も足もかざせない。
態勢を立て直そうとした彼の手に歯牙を突き立てた。けれども横腹に容赦ない殴打を繰り出され、力の緩んだ牙は外れて泡を喰った。
再度咬みつこうとすれば頬を打たれる。顎骨がいやな音を立てる。反吐を吐き捨てて唸り声を上げた喉は、掴み上げられていた。
「噛まないでくれよ。まるで躾がなっていない犬じゃないか。失敗作より知能があるのに勿体ないな」
「ッお前らは、魔女を造るのが目的なんだろ。どうして造った魔女を弄んで壊してる」
「そうだな……初めは国から極秘任務を与えられたみたいで、自分が特別になれたみたいで嬉々として研究に没頭していたんだがね。だが成功作の魔女なんて作れないと、半ば諦めているんだ。だから魔女の心臓と脳味噌を材料に、魔女の能力を《譲渡》する薬を造っていたんだが」
魔女を造る薬。アレを造ったのはコイツだったのかと奥歯を噛み締めた。男はベラベラと喋々しながら、僕の首を絞め上げたままベッドへ押し倒した。
衝撃と圧迫感が強くなる。狭められていく気道が、笛の音に似た喘鳴を奏でる。骨が軋んでいた。双脚は彼の後背で暴れるだけで抵抗を示せない。ブーツの踵が擦り切れそうなほど靴底に力を込めた。霞み始めた視界でそれでも彼を睨み続け、踵を何度もベッドへ打ち下ろす。
「ずっと同じことをしているとね、疲れてくるんだ。息抜きが必要になる。化物を屈服させるのがどれだけ快感か、君には分からないかな? 化物よりも強い存在になれるんだよ」
「くっだらないな、なんだそれ。なら正々堂々五体満足の魔女にやってみせろよ。僕みたいな子供相手に、ここまでしなきゃ優位に立てないって、お前の弱さを証明してるようなもんじゃないか!」
嘲笑う呼気は崩落の音に呑まれた。かち割ったベッドが穴を起点に断裂して傾く。壊れたベッドを滑って転げ落ちる男。僕は重い足を振り上げた。
右足首の骨を砕いて枷から外した。左足は千切れたフットボードを引き連れて男に迫る。一蹴。轟音が塵埃と舞い上がる。避けられたと了知するや否や再度足を構えた。
しかし足元はぐらついた。見下ろした左足から迸った紅色。断絶された膝から下の在処は、立ち上がった男の掌中だ。
血の海に倒れ伏す。残っているのは骨という支えを失くした右足だけ。自分の血に頬を擦りつけ、顔を上げる。闖入者の靴音が五月蝿くて眉を顰めた。
「――ヘクター、魔女の代わりにガキを連れてきたぞ。ってそいつ……」
「メイさん!」
「キース見てくれ! この子は成功作の魔女だ……!」
暗闇に覆われそうな眼路には、ユニスを抱きかかえる赤毛の男がいた。ユニスは涙ぐんでいる。この男が彼女を泣かせたのかと思うと、立ち上がりたくて仕方なかった。
「成功作なんて貴重じゃねぇか。殺さなけりゃ玩具にしても問題ねぇよな? 俺にも遊ばせてくれよ」
「やめてください! メイさんに触らな――」
「うるせぇガキだな」
「いやぁああ! 触らないで!」
「ユニスを離せ……‼」
赤い水たまりの中で上腕を滑らせる。地を這ったままユニスのもとへ向かおうとするも無力感ばかりがせり上がる。
赤毛の男がユニスの首輪を引き千切っていた。手枷が音を立てて転がる。生成色の髪を掴み上げられた彼女の叫声が割れるように響き渡った。
「やだぁぁ! たすけっ、助けて……‼」
「やめろ‼」
ユニスの悲鳴が、妹の悲慟と重なった。僕に助けを求めた妹。助けてやれなかった最期の瞬間が脳裏に浮かぶ。
ふざけるな、と己を叱咤する。ふざけるなと奴らに赫怒を注ぐ。それなのに手足は動かない。
赤黒い水で溺れる僕に、茶髪の男が覆いかぶさった。掴み上げられた唯一の足。歪な笑みと向かい合って体温が下がっていく。
押し殺し続けた恐怖が溢れるようだった。今にも叫んでしまいそうな息を嚥下して、零れ出しそうな涙を押し留めようとした。
妹も、ユニスも、この体も、守れない。悔しさに掻き曇っていく目の前。
滲んだ景色を、深緋が綾なしていた。
男の側頭部から血が噴き出す。壁際に蹴り飛ばされる男の身体。夥しい血液を零している黒手袋が、男の頬骨を握り潰した。
長いコートがたなびく。男を壁に押し付けたまま、エドウィンは彼の頭に刺さったナイフを引き抜いた。
いつの間にか室内を包んでいる闃寂。俯いていたエドウィンの横顔がおもむろに上げられる。秋霜のような炯眼に身が竦んだ。
紅い虹彩の中で揺らめく業火。浄罪さえ許さないほどの熾烈な憎悪。それを向けられているのは僕ではないのに、硬直してしまう。
「――地獄に落ちろ」
吐き捨てられたのは冽々たる低声。彼は絶命している男の頭蓋を打ち砕く。やがて解放された亡骸が地へ伏す前に、剣鋒は空無を薙いだ。
断ち切られた頭部。怨嗟に突き動かされた処刑の刃。まばたきさえ出来ぬまま乾ききっていく瞳で、僕はそれを呆然と眺めていた。
「ッくっそ野郎‼」
喚いたのは赤毛の男。はっとして見れば、男は片腕を切断されていた。へたり込むユニスと、彼女の前に転がる腕。エドウィンは僕を助ける前に彼を退けていたようだった。
残っている腕を構えてエドウィンに向かっていく男。黒髪が靡く。端正なかんばせは険を孕んだまま緩慢に振り向いた。僕が動くまでもない。それは分かっていた。だけど何も出来ないまま終わりたくなかった。
上腕を地面に突き立てる。切断面を焦がす痛み。そのまま体を旋回させて男の足を払った。
「メイ」
エドウィンの呼声は、いつもみたいに優しさを内包しているような気がした。それに少しだけ安堵した。
僕の上へ倒れ込んで来る男を見上げ、力を振り絞って飛び出す。喰らいついたのは彼の喉頸。噛み締めたまま顎を持ち上げる。血汐が雨のように降りかかる。人肌を思わせる体温が表皮に伝う。僕の血と彼の血が混ざりあっていた。
男の骨が折れる。たわんだ皮から絞り出される紅血。命の欠片が、僕に注いでいた。
これを僕のものにしたかった。妹の身体に流れる血は、他を取り込んで自分のものに出来るのだろう。ならば吸い込めばいい。妹と一つになった瞬間を想い起す。五感も思い出も痛覚も心も奪われていく感覚。
思い出せ。魂が取り込まれる形を、命を取り込む様を、僕は身をもって知っているはずだ。
「っ、く……」
喉が引き攣った。血に対する不快感が薄れていく。神の恵みを受けるように、赤い雨を浴び続ける。上腕から零れる血が虚空を辿っていた。
重力に抗う血痕が赤黒い腕を形成していく。神経の繋がった拳を握りしめた。血によって作り上げられた腕が、やがて元の白皙を取り戻す。僕は再生していた足を引き摺った。
これが、魔法。四肢を取り戻し、傷はなくなったのに、座り込みたくなるような疲労感が体を巡っている。例えるなら発熱した時の気怠さだ。
命を吸いつくした死体を放ると、エドウィンが気抜けたように僕を見ていた。彼に「ありがとう」と微笑みかけてから、ユニスに駆け寄った。
「ユニス、大丈夫?」
「大丈夫です。……ごめんなさい。克服なんて言って、結局なにも出来なかった」
「それは僕だって同じだよ。怖かったね」
項垂れる頭を撫でようとして、彼女が肩を跳ねさせたため手を引っ込めた。大きな怪我は見受けられず、良かった、と一息吐き出した。ふと、ユニスの団栗眼が瞠られていく。
脈打った胸元を押さえ、振り向いた。エドウィンが崩れ落ちるように座り込んでいた。壁に背を預けたまま、肩で息をする彼。慌ててその顔色を覗き込む。
「っエドウィン⁉」
「悪い……先に帰っててくれ。いや、お前らだけだと危ないか……」
「……教えてください。魔法がないと、手足が動かないって、ほんとなんですか。本当にそんな体で、ずっと無茶してたんですか」
ユニスの問いかけに一驚を喫した。一時的に四肢が使えなかっただけでも、僕は叫びたいほどの絶望感に襲われた。
彼を苛む塗炭に顔が歪んでいく。生まれつき動かないのか、それとも、誰かにもたらされたものなのか。もし誰かのせいだったのなら、許せそうになかった。
エドウィンを苦しめるものにも、ユニスに傷を負わせたものにも、憤懣が沸き立つ。拳を固めて腕を震わせていれば、彼が困ったように苦笑していた。
「そんなの……見れば分かるだろ」
力無く自嘲を吐露した彼が、傾いていく。魔力も体力もとっくに限界だったのだろう。
先ほど魔法を使ってみて思ったが、一度使っただけなのに、今も全身が疲弊している。薬物事件の際、ユニスも数発の魔力を撃ち放って血を吐いていた。魔法を長時間使い続けるなんて無理だ。魔力不足に陥って倒れてしまう。
だからこそ、エドウィンが一日中自分に魔法を掛け続け、戦闘時にも魔法を使っていたという事実が恐ろしい。毎日命を削っているようなものじゃないか。
彼の腕に触れる。冷たさに動揺して己の手を見つめた。
湿ったシャツの袖には、夥しい血液が染み込んでいた。彼の黒手袋からもぼたぼたと血が零れる。心痛が込み上げて彼を見上げた。気を失っている彼の、抜けるように白い肌。このまま死んでしまうのではないかと寒気立つ。
ユニスも酷く蒼褪めた顔でエドウィンを見ていた。彼女をこれ以上不安にさせるわけにもいかない。エドウィンの腕を肩に回し、彼女に笑いかけた。
「ユニス、エドウィンは僕が運ぶよ。大丈夫だから、帰ろう」
薄暗い室内から外を目指した。小さく呼気を漏らす彼に胸を撫で下ろす。剥き出しの腕に圧し掛かる彼の体温が、暖かくて安心した。
ふと、気付く。彼にもらったストールが見当たらない。街で落としたのだろうか。今すぐ探しに行きたい気持ちを抑えて、夕暮れの満ちる街路へ踏み出した。
紅霞が休らう空は普段より赤く、彼のひとみみたいで、綺麗だった。それなのに不思議と、暗く沈んだ気持ちが引き出されそうになって、空から目を背けた。
(五)
夜に包まれた街並みは、星空と鏡映しになっているよう。藍色の道を斑に色付ける明かり。照明と月光が混ざり合っている道を窓から眺め、僕は飛び降りようとして──踏み止まった。勝手に出て行ってエドウィンやユニスに余計な心配を抱かせるわけにはいかなかった。
数時間前、酒場に戻った僕達に、マスターが傷の手当てをしてくれた。僕は怪我が治っていたため、すぐに香水屋のあたりまで戻りたかったが、結局エドウィンの意識が戻るまで彼の傍らで待っていてしまった。
気付けば夜は深まり、酒場も開店していて階下が賑わっているのを感じる。今外出したら迷惑だろうかと悶々しているうちに、時間ばかりが過ぎていく。
肌寒さに肩を抱く。白いワンピースから着替える気力もなく、嘆息を零した。エドウィンがくれた暖かいストールが恋しくて、意を決する。
階段を下って店に顔を出すと、マスターとエドウィンが接客をしていた。アルコールと煙草と果実が撹拌された大人の匂い。暖色の電球に目を細める。
エドウィンが向き合っていたのは、今朝新聞を持ってきた女性だ。彼は優しい顔で、女性にイヤリングを手渡していた。それを受け取るなり女性は泣き始める。一部始終を見守っていたら彼が振り向いた。彼は客に一声かけてから僕に歩み寄った。
「メイ、どうした。着替えないのか? 寒いだろ」
「あ……あとで。その、事件現場を見に行った時に、忘れ物したみたいで。すぐ取ってくる」
「一人じゃ危ない。俺も」
「――エドウィン! おかわり持ってきてくれ!」
「こっちにもお願いね!」
屈んでいた彼が体を起こす。少々お待ちください、と客に微笑む彼に背を向けて、僕は酒場を後にした。
夜気はひどく冷たかった。鳥肌が立つ腕を擦り、身震いする。やはり上着を取りに行こうかと思ったが、時間が惜しかった。すぐに戻って、仕事中の彼を安心させたい。
大通りに向かって馳せた。どこで落としたのか正確な記憶はないが、意識を失うまで羽織っていたのは確かだ。犯人たる男に攫われた時だろう。
鼻を刺す夜風に甘い香りが交差する。辿り着いた香水屋はひどい有様で、人気がなく明かりも灯っていない。周囲を見回すも、ストールは見当たらない。風で飛ばされた可能性も考え、更に進んでいく。
ふと、事件現場だった路地を横目に見て、足を縫い留められた。点滅する街灯の下で、長い黒髪が風に遊ばれていた。
黒いワンピースが揺れる。裾に縫い付けられたカランコエの赤い花が、無彩色の晦冥に色を与えていた。
少女が――否、女性が、僕を仰いだ。
その麗容は少女としか称せないものなのに、張り付いた表情は大人びている。その面貌が平明に、彼女が子供じゃないことを物語っていた。
視線が絡むと同時に、ナイフを抜こうとした。しかし身に着けていたのは昼間ユニスから預かった拳銃だけで、使ったこともないリボルバーを彼女へ突き付けていた。
「久しぶりに会えたって言うのに、随分な挨拶じゃないか。シャノン。……いや、君はメイなのかな?」
ヒールの音が明に響く。彼女は手にしていた新聞を放り捨てた。震えた銃身に、彼女の白い指が絡みつく。大通りから降り注ぐ街灯が、彼女の輪郭を鮮明に浮き上がらせる。
童顔は綻んでいた。片側だけ編み込まれた前髪の下で、長い睫毛が眼窩に影を落とす。洋紅色の瞳が柔らかにしなった。
呼吸が乱れていく。いくつもの真情が絡まって窒息しそうだった。言いたいことが溢れて止まらない。聞きたいことが溢流するのに一つも言葉に出来ない。ただ、やめてくれと叫びたかった。
笑った時の『彼』に、よく似た眼差し。ほんの少し目尻を下げる笑い方。炎を宿した虹彩。嫌な想像ばかりが脳髄を駆け巡る。冷静になりたくて唾を飲んだ。
こんなヤツと、『彼』を重ねたくなんかない。
畏懼を闇夜に溶け込ませ、僕は撃鉄を起こした。
「会いたかったよ、先生」




