神経衰弱4
白光を遮った鳩を見上げていたら、コートの袖をメイに引かれた。
「ねえ、血液型っていつ分かるの?」
「数日後って医者が言ってただろ。聞いてなかったのか」
「あ、注射に、びっくりして……聞いてなかった」
メイが自身の左腕を軽く擦る。刺された感覚がまだ残っているのだろうか。彼女の隣で裁縫をしているユニスの針と糸。それを見てから、魔女の証である紐に目をやった。
身体に針を刺されることは、彼女にとって嫌な思い出でしかないはずだ。採血が怖かったのかもしれないと今更気付き、彼女の頭に手を伸ばした。触れるよりも先に彼女が顔を上げたため、そっと片手を引っ込める。
「エドウィン?」
「なんでもない」
「……それにしても、血液って人それぞれ違うんだね。同じ赤色なのに」
「神様がくれた魔力の種のおかげだそうですよ」
スカートの裾を膝の上まで持ち上げて、僅かに破けている箇所を縫っていくユニス。手を止めることなく彼女は続けた。
「こんなお話があるみたいです。むかしむかし、神様は、人々の心臓に一つずつ魔力の種を植え付けました。種は各々の血の性質を変化させて、四種類の血液が作り出されました。感情によって苦悩したり争ったりする人間が、魔法を使って助け合ってくれれば良いと神様は思っていたみたいなんです。でも力を手にした人間は競い合うようになり、諍いに繋がり、やがて大きな戦争をも引き起こした。怒った神様は人々から記憶を奪います。血液に溶けた魔力の種を抜くことはもう出来ない。だから、魔法の使い方を忘れさせた、って。マスターが持ってきた本で読みました」
童話か何かだろうか。魔法についてそこまで詳しく書いてあることから、俺の故郷から持ち帰った本だろうと思いなした。
「僕は、なんの魔法が使えるんだろう。妹を……救えるのかな」
「系統と使い方次第だな」
その妹が死んでいなければだが、と、続けかけた言葉を呑み込んだ。何の気なしに噴水を観る。生じては弾ける水泡の音が、雑踏と交ざり合って安泰を奏でていた。
「血液型は、A型、B型、O型、AB型に分かれる。A型は《拡張》、B型は《収縮》、O型は《譲渡》、AB型は《吸収》……それぞれ、そこからイメージ出来る魔法を扱える。一見それに結びつかないような魔法でも、イメージが正確なら扱えることもある」
「えっと……?」
「そうだな……A型の場合――拡張、つまり増大させることや広げることだ。魔力を『協力者』だと考えてくれ。魔力を動かす為に必要なのは、術者の求めるモノが《拡張》の意味と近いものだと思わせられる『連想力』。魔法を具象する為に必要なのは、術者の明確な『想像力』だ。例えば速度を上げたい場合、一秒間にどれだけの動作を捻じ込めるかイメージする。だから俺はいつでも時間を聴けるようにしている」
左眉の上から、耳の後ろにかけて編み込んだ前髪。小さな時計が付いた髪留めに軽く触れる。時計は正確に秒を刻んでいた。
「その時計……本物だったんだ。ほんとだ、ちゃんと針が動いてる……」
「私はO型なのですが、魔力を弾として、拳銃に《譲渡》してます」
「む、難しいな……」
「とりあえず、系統から連想できる想像の範囲内なら、色々な魔法が使えると思っておけばいい。血液型が分かるまでは深く考えなくてもいいだろう」
ショートブーツの踵が高く鳴る。ベンチから跳ね降りたユニスが両腕を差し出して来た。
「縫い終わりました! エドウィン手枷つけて!」
「ああ」
「手紙の差出人……依頼者さんのお家に行くんでしょう? お待たせしてすみません、行きましょ!」
コートの内側から手紙を取り出した。そこに書かれていたのは『娘が化物のように豹変して帰って来た』という話。その娘を見かけただけではなく、面と向かって接触したらしい差出人が生きている点から、魔女である可能性は低いような気がした。
住所を確認し、石畳を踏んでいった。
(三)
揺れる木々の隙間から、旭光が明滅して見える。草木に囲まれた庭を抜けて玄関へ進むと、マホガニー材の赤みがかった扉が陽光で艶めいていた。
背後をちらと窺えばメイとユニスが庭の花を眺めている。割れて転がっている鉢植えに、切断されて倒れている木、雑草から垣間見える爪痕。動物に荒らされたような様態から目を逸らし、叩き金を鳴らした。
「はい! ……どちらさまですか?」
数刻後に扉を開いたのは、中年の女性だった。戸惑う彼女に手紙を見せる。
「酒場、化物退治の店員です。リンダ・バーナーズさんから手紙を頂いたのですが」
「あっ……リンダは、私です。え、あの、本当に化物を探して……?」
「はい。手紙に書かれていた、娘さんについて聞かせていただいても?」
彼女、リンダは頷いて、扉を大きく開いた。中へどうぞと言われ、メイとユニスを引き連れて上がらせてもらう。シトラスの香水、玄関の隅に置かれたいくつものハイヒール。リンダと娘だけで暮らしているみたいだ。
思惟しながら進んだリビングで、十歳ほどの少女が食事をしていた。俺を見るなり目を丸め、ユニスとメイまで現れると幼い顔が怪訝で染まっていく。
「お母さん、誰?」
「あ、えっと……アビー、部屋に戻ってなさい。お客さんと話があるから」
「……わかった」
アビーと呼ばれた少女は食事を中断し、食べかけのパンを置いたまま椅子を降りる。通り過ぎる前に彼女がこちらを見上げたため、膝を折って目線を合わせた。苦笑を浮かべると彼女は僅かに俯いていった。
「ごめんな、食事中に」
「う、ううん。お兄さん、もしかしてお姉ちゃんの恋人?」
「は?」
「お姉ちゃん言ってたの。カッコイイ彼氏出来たって。でもそれからおかしくなっちゃって」
「ちょっとアビー、その人はカレンと関係ないわ! いいから向こう行ってなさい!」
アビーは不満げな顔で廊下へ歩いていった。気になったのは、三角巾で吊られている彼女の片腕。母親であるリンダに事情を聞こうとしたら、リンダはメイとユニスに紅茶とクッキーを差し出していた。
「お嬢さんたち、お菓子たべる?」
「お菓子好きです! ありがとうございま――」
「やめろユニス。結構です、そのお菓子は娘さんにあげてください」
飛び付こうとしたユニスの頭を押さえる。四人掛けのテーブルに、ユニスとメイが並んで座っている。正面にはリンダが座るだろう。かたわらに立った状態で待っていたら、リンダがティーカップを俺の前に置いた。
「すみません、狭い家で……座って大丈夫ですよ」
「いえ、俺は立ったままで大丈夫です。座ってください」
「あ、ありがとうございます」
「娘さんの腕、どうしたんですか」
「……手紙に書いたほうの娘が……カレンが、折ったんです」
香りの良い紅茶を一口嚥下する。温かなアールグレイは蜂蜜が入っているのか甘かった。美味しそうに飲むメイと、カップを食い入るように眺めているユニス。ユニスの手枷を外してやってから、リンダに問いかけた。
「なぜカレンさんは妹の腕を?」
「私が見たカレンは、カレンじゃないみたいでした。アビーの悲鳴が聞こえて、庭に行ったら、アビーが腕を押さえてて。お姉ちゃんが……って、それだけを何度も泣きながら叫んでて。多分、言葉が見つからなかったのだと思います。カレンは唸ったり叫んだりしながら、庭を荒らしていました」
「何を叫んでいたんですか、カレンさんは」
「……言葉じゃなかった。だから、何を訴えたいのかもわかりませんでした。庭は見ましたか? 木が倒れていたでしょう? あれ、カレンがやったんです。この目で見たのに、信じられなくて。大の男が殴ったって木なんて折れないでしょ……娘なのに、怖かった」
庭の木を追想する。鋸で切ったような断面ではなく、強風か何かでへし折られたような有様。剥げた樹皮に、突き出す形で露出した心材。殴ったのか、素手で切ろうとしたのかは分からないが、刃物が使われていないことは確かだった。
「カレンさんは、今どこにいますか」
「分かりません。あの日、カレンって叫んで呼びかけたら、彼女は動きを止めて。それから、どこかに逃げてしまって。帰ってきてないんです」
「腕に、赤い紐のようなものが付いていませんでしたか? 彼女みたいな」
「いえ……コートを着ていたから分からないわ」
メイの肩を指し示すと、リンダは首を傾げてから左右に捻った。話を聞く限り、カレンという女性が魔女なのか魔女でないのか推断できない。人の呼び声で留まり、逃げ出すなんて、魔女はしない。
しかし叫びながら妹たる少女を骨折させ、素手で木を折るといった行為は、魔女を連想させた。部分的に一致する情報が、この事件から身を引かせてはくれなかった。
「カレンさんが行きそうなところに心当たりは?」
「さあ……職場かしら。でもどこか分からないのよね。踊る仕事をしているって言っていたのですが……」
「――違う、お姉ちゃん、お酒出す仕事してるって言ってた」
割って入ったのは、転がる鈴のようなソプラノ。立ち去ったはずのアビーが廊下から歩いてくる。小さな片手が、腕に巻かれている三角巾を握りしめていた。吊り上がる眉と泣き出しそうな瞳が、彼女の憤りを物語っていた。
「アビー。向こうに行ってなさいって言ったのに、ずっと聞いてたの……?」
「ねえお母さん、この人たち、探偵さん? お姉ちゃんなんかのために、お金で頼んだの?」
「ちょっと、お姉ちゃんなんかって、なんて言い方するのよ……!」
「だって! もういいじゃない、お姉ちゃんなんか放っておけば! また痛いことされるかもしれないのに、帰ってこなくていいもん! お姉ちゃんなんて、二度と会いたくない!」
叱責の代わりにテーブルを叩いた音が響く。リンダが机上に両手を叩き付けたのと、メイが席を立ったのは同時だった。ビスクドールじみた容色は悲憤に染まって見えた。白栲の髪を揺らした彼女の背から、感情は感じ取れない。
落涙しているアビーの頬に、メイの細い指が添えられた。アビーはしゃくりあげて肩を揺らしながらも、メイに動揺しているようだった。メイの声が静寂を攫う。
「君が、腕を折られて痛かったのも、お姉さんにそんなことをされて悲しかったのも分かるよ。でも、そんなこと言っちゃダメだ。本当に二度と会えなくなったら、きっと、もっと悲しい」
「っ、知らない! あなたには私の気持ちなんて分からないよ……!」
「君とお姉さんのことは分からないけど、でも、仲が悪かったわけじゃないんでしょ。家族に代わりはいないんだよ。君にとってお姉さんが、他人じゃなくて、まだ『お姉ちゃん』って呼んでいたい人なら、もう少し大事にしないと」
メイの手が持ち上がって、アビーの頭を優しく撫でる。アビーが顔一面に広げていた怒りは、涙に溶かされていくみたいだった。涕泣するアビーに、メイが小さな声で「大丈夫」と繰り返していた。
「でも、先に傷付けたのはお姉ちゃんだもん……大事にしてくれなかったもん」
「ああ、だからお姉さんが悪い。きっとお姉さんも後悔してるし、謝りたいと思ってる。……あのね、僕も妹がいるんだけど、妹って、すごく可愛くて、守りたい存在なんだ。君のお姉さんもそうだと思う。本当は、傷つけたくなんてなかったと思う。ちゃんと仲直りしよう?」
「……うん」
メイは、自身の妹にもそうやって接していたのだろうか。優しく慰め続ける背中に、苦笑と嘆息が溢れる。リンダに目を向けると、彼女は瞳を潤ませていた。紅茶を飲み干してソーサーに置く。小さく響いた磁器の音にリンダが振り向いた。
「とりあえず、俺達はカレンさんを探してみます。踊りと酒なら、そういう酒場でしょうから。お茶、ありがとうございました」
「いえ、その、カレンを……よろしくお願いします」
軽い会釈を交わしたのち、離席したユニスに手枷を着けてやってから家を後にした。庭を出て街路に進み、付いてくる足音を後目で捉える。
真っ直ぐに前だけを見つめて歩くメイ。彼女に言うべきか言わぬべきか逡巡してから、俺も正面を見据えて吐き出した。
「メイ、期待させるようなことを言わない方がいい」
「……どういう意味?」
「アビーに言っただろ、仲直りしろって。もう手遅れで、二度と出来ない可能性だってある。カレンが魔女になっていたなら無理だ」
「それは……けど、魔女って本当に会話が出来ないの? 本当に、普通に生きられないの? 僕は魔女なんだろ、でも普通に生きてる。カレンさんだって、母親の呼び声で止まれたのなら、僕みたいに普通にいられるんじゃないか?」
足を止めて爪先を返した。斜日に落とされた俺の影が、メイの皓白を蒼然と絵取る。赤いオッドアイに灯る激情は、幽暗の中でも眩しかった。
けれど、それもいつか消える灯火なのだと用心しなければいけない。彼女の意思が、決して消えない陽光なのだと信じたい己を握り潰した。
秋風に靡く白髪と魔女の紐。赤い紐が虚空を泳ぐたび、鮮血の幻が見え隠れする。想い起しかけた過去に口元が歪んだ。
「お前は自分がどれほど不安定で歪な存在なのか、ちゃんと考えて言っているのか? 本当に成功した魔女なのかなんて分からない。お前がいつまで普通にいられるのか分かったものじゃない。今だけかもしれないんだ。数秒後には自我を失くして人を襲っているかもしれない、お前は自分がそんな存在だってことを――」
「エドウィン!」
ユニスの槍声が耳底を突き刺す。何か言いたげに唇を震わせ、声を伴わない開閉を繰り返したユニスは、結局黙り込んでいた。足元を見つめるメイが拳を固めている。かんばせを窺うことは出来ず、怒っているのか、傷付いているのかさえ分からなかった。
事実を突きつけて覚悟させることは必要だ。だが、その伝え方と時期は誤ったかもしれない。魔女は研究者達に壊されただけの被害者だ。責めるような言い方は適切ではなかった。
子供の魔女でも殺せるよう、復讐の為に砕いてきた優しさを、今更掻き集めた。
「……悪い。不安にさせるようなことを言った」
「いいよ。どうせ僕は『アテナ』を見つける為の餌だ。繕ったような優しさなんていらない」
真っ向からぶつけられたのは綺麗な一笑。見えない隔たりを看取して、苦々しく笑うしかなかった。




