桜は無限に散る
桜の香りのする強風が吹き上げた。
埃が顔を直撃するかと思ったが意外にもなく、清楚な香りが肌寒い空気と共に鼻腔に飛び込む。
琴子は風に背中を向け足元をふらつかせた。
黒いパンプスを履いた足が、俯いた目線の先でタップを踏む。
ばさりと顔にかかるセミロングの黒髪。
ああ、結えば良かった、と思いながら右手で抑える。
しつこいくらいに風は長い間吹き抜け、桜の花弁を薄青の空に大量に巻き上げた。
道のずっと向こう側まで花びらの渦が舞い道を白く霞ませている。
風は一度収まりかけてまた強く身体を押した。
町おこしのためとかで道沿いに植えられた桜は、綺麗ではあるが本数が多すぎる。
花びらの散る季節になると、視界の悪さで事故でも起きやしないかと心配になるレベルだ。
琴子は、手で風を避けながらコンビニに入った。
通販で買った品物が届いていたはずだ。
ラピスラズリのペンダント。
丸く加工されたラピスラズリに、銀メッキの桜の花が添えられているデザインだった。
今の季節にぴったりだ。
届いたらすぐに付けられると、ちょっと心が浮き立っていた。
高価なものではない。高校生の子が少々アルバイトでもすれば買えるような値段のものだ。
だが気に入っていた。
通販サイトのアクセサリーのページを見せたら、彼氏の立も「いいんじゃない」と言ってくれた。
立がアクセサリーなんか全く分からないし興味も無いのは知っていたが、ただ話を合わせてくれただけで嬉しかった。
「半分、出そうか」と続けて立は言った。
半分というのがセコいと女友達が言ったが、全く気にならない。
もちろん、この流れで「指輪も見ようか」なんて言われちゃったりして、なんてことも考えたが。
この指輪いいんじゃない、と言われて、え、高いよ。そう答えたところでプロポーズとか。
つい妄想してドキドキした。
無かったが。
コンビニのレジカウンターで、荷物が届いている旨を告げる。
若い男性店員は、無愛想に取り扱い番号を聞いた。
プリントアウトした番号を告げて、荷物を受け取る。
ここで開けてペンダントを付けたかったが、外の強風の酷さを考えたら開けるのはアパートに帰ってからにしようと思った。
コーヒー、買おうかなと迷う。
レジから一旦離れてコーヒーの商品表示を見上げる。
別の客が注いだコーヒーの香りが漂った。
ふりかけられたキャラメルシュガーの香りが、コーヒーの香りに混じる。その香りでやはり飲みたくなった。
レジにもう一度戻り、コーヒーを注文する。
コーヒーを注ぎ終えた客が、口にしながら店の外に出る。
開けられたドアから、はらはらと桜の花びらが入り込んだ。
外は白く霞んで見える。
日差しが強くなったんだろうか。これではもう真夏並では。そう思った。
桜の香りのする強風が吹き上げた。
埃が顔を直撃するかと思ったが意外にもなく、清楚な香りが肌寒い空気と共に鼻腔に飛び込む。
桜の花弁は大量に風に乗り、道のずっと向こう側まで舞い白い渦を作っていた。
琴子は会社の制服に隠すようにして付けたラピスラズリのペンダントを襟元から引っ張りだして見た。
今日もまた強風だ。
万が一破損したら嫌なので、すぐに襟の内側に入れる。
お昼休み。
コンビニは混んでいた。
新発売のおにぎりを目当てに来たが、やはり売り切れている。
春の桜おにぎり。
梅紫蘇で薄いピンク色に色付けされたご飯に、桜の葉のように山菜が添えられているおにぎりだ。
ネットで画像を見て、和菓子のような色合いに興味を持った。
売り場を見回し、別のおにぎりを選ぶことにする。
筋子も好きだし、鮭もいいな。ゆかりなら、春の桜おにぎりに味が近いのかな。
横を見ると、肩に数枚ほど桜の花びらを付けている男性客がいる。
肩に付いた花びらを気付かないのか気にしない人なのか。
どうでも良いことが気になってちらちらと見た。
イヤホンを耳に付けていた。
イヤホンからラジオのような音声が漏れ聞こえている。
男性は、ガクガクと手元を震わせていた。
気分でも悪いのかなと琴子は見詰める。
大丈夫ですかと声をかけようとしたとき、外から大きな爆音のようなものが聞こえた。
ガラス製の自動ドアを振り向く。
自動ドアの外で、火のようなものが上がっているのが見えた。
事故かと思い目を見開く。
交通規制とかで、遠回りしなきゃならなくなったらどうしようと思う。
火の手が大きい。かなり大きな事故なのではないかと思った。
もう一度爆音が上がる。
自動ドアの向こう側が、真っ赤になった。
桜の香りのする強風が斜めに吹き上げた。
埃が顔を直撃するかと予想したが意外にもなく、清楚な香りが肌寒い空気と共に鼻に飛び込む。
先日コンビニの前で起こった事故は、大した被害も無かったのかその日のニュースにすらならなかったようだ。
コンビニ前も何事も無かったかのように綺麗で、桜並木にも被害の跡は無い。
相変わらずの強風で、花びらが目に入りかけた
今日はセミロングの髪はアップにしていた。顔の横に垂らした髪を両手で抑える。
今日も変わらず強風だ。やはりアップにして出勤したのは正解だった。
お昼休み。
出来る限り会社を早めに出てきた。
春の桜おにぎりあるかな。
少し期待しながらコンビニの自動ドアを通る。
おにぎり売り場を見ると、春の桜おにぎりは無かった。
代わりに期間限定、新発売の札が付いていたのは、五月の新緑おにぎりというものだった。
五月。五月って。
随分気が早いと思った。まだ桜が咲いているのに。
すぐ横で屈んで作業をする女性店員と目が合う。
「もう五月のおにぎりなんですか?」
そう話しかける。
「え……五月?」
店員は外の桜並木を見た。
考えたことは同じようだ。
「まだ桜が咲いてるのに、気が早すぎですよね」
店員が苦笑し、手元でガサガサと売り物のパンを弄ぶ。
「……今日って、何日でしたっけ」
自動ドアの外をじっと見ながら店員が尋ねる。
「ええと……四月の」
琴子は答えようとして、日付の感覚が曖昧なのに気付いた。
「就職しちゃうと、曜日の感覚とか案外なくなりますよね。日付も納品の日とかくらいしか……」
琴子は笑いながらそう言い、スマホを取り出す。
「あ、いいですよ。カレンダー見ればいいし」
店員はそう言い、レジカウンターの奥の方を眺めた。
いえ。そう言って琴子はスマホを見る。
五月六日と表示されていた。
「え……」
「桜……咲いてますよね」
カレンダーを遠目で見たのか店員が言う。
二人でほぼ同時に自動ドアの外を見た。
ドアが急にひしゃげてガラスが割れる。
激しい風が店内に吹き込み、粉々になったガラスと桜の花びらが猛烈な勢いで店内にいる人々を襲う。
琴子は身を庇うことも忘れて立ち尽くした。
桜の香りのする強風が吹き上げた。
埃が顔を直撃するかと思ったが意外にもなく、清楚な香りが肌寒い空気と共に鼻腔に飛び込む。
「すっごい風」
琴子は笑いながらスマホの通話相手に言った。
社内で持参の弁当を食べている女性の同僚だ。
やっと辿り着いたコンビニの前で、ガラスの自動ドアを確かめる。
随分と早く新しいガラスに変えたのか、すっかり元通りの綺麗なドアだった。
ガラスにうっすらと映る桜の満開の様子を、何となく目で確かめる。
「じゃあ、後でね」
琴子は通話を切ろうとした。
ちょっと待って、と同僚が切るのを引き留める。
琴子はコンビニの自動ドアが開くのを横目で見ながら「なに」と尋ねた。
同僚の話は要領を得ない。
「なに? どうしたの?」
テレビが、ニュースがと慌てた様子で喚いているが、何が言いたいのかさっぱり分からない。
「後でいい?」
琴子は眉を顰めた。
同僚は、今度はネット、ネットとバタバタし始める。
「切るよ?」
次には同僚は「待って! 待って!」と通話口で喚いた。
「すぐ戻るし」
琴子は、すぐ近くの自社の入るビルを見上げた。
太陽がやけに赤く、巨大に見える。
こんな風に見えたりするものだっけと怪訝に思う。
太陽が、どんどん近付いて来たように見えた。
暑いなと感じる。
すぐ傍にある桜の見事に咲き誇った花が、ざあっと揺れ、熱を持った。
桜の香りのする強風が斜めに吹き上げた。
コンビニの自動ドアを通り、琴子は駆け足で中へと入った。
一緒に桜の花びらが二、三枚侵入する。
制服の襟の下に隠したラピスラズリのペンダントを、手で触って確認した。
今日は何食べようか。
コンビニの食べ物って続くと飽きるなと思う。
お弁当でも作ってこようか。それともたまには別の店に。
コンビニの店長がレジカウンターの奥でテレビ画面をじっと見ていた。
手元ではタブレットをスクロールしている。
テレビの音声が大きすぎる気がした。
店内を流れる店の宣伝アナウンスに混じって少し耳障りだ。
それ以前に接客態度がどうとか言い出す人もいそう。
琴子は、弁当の売り場の前で屈んだ。
パスタでも食べようかと思ったが、男性が商品棚の途中で立ち止まりずっと一点を見詰めているので、少々見づらい。
早くどけてくれないかなこの人。そう思い男性を見上げた。
男性は、イヤホンでラジオか何かを聞いて青ざめていた。
この前の人だと気付く。
また具合が悪いのかなと思った。
声を掛けた方がいいだろうか。
春はおかしな人が増えるというのは本当だろうか。ちょっと怖いけど。
「あの……」
琴子はおずおずと話しかけた。
「もしかして具合、悪いですか?」
男性は、ガクガクと震えながら琴子を見た。
ゆっくりと片方のイヤホンを外す。
「お姉さん、……まだ知らないの?」
「え?」
琴子のスマホが鳴った。
「あ、すみません」
琴子は制服のポケットから自身のスマホを取り出した。
立からだ。
今どこ、と聞かれる。
「コンビニだけど」
それより、昼休みとはいえ勤務時間内に電話して来るなんて珍しい。
「どうしたの?」
立は慌てていた。
コンビニか。コンビニの建物内なら……ああ、やっぱり駄目かと、ひとりで呟いている。
かなり混乱しているようだ。
「何なの?」
琴子は急かすように尋ねた。
「ニュース、スマホで見られる?」
立は早口でそう言った。
「見れるけど」
ああ……見ない方がいい、と続ける。
「何なの?」
琴子は眉を寄せた。訳が分からない。
イヤホンを付けていた男性が、震えて座り込む。
「もう駄目だ……報道関係はとっくに逃げた。根性あんのは地方局くらいだよ。今ラジオで喋っているのは、アマチュアでやってるのだけだ。ネットの書き込みも、もう遺書みたいなのばかりになった」
「あの、大丈夫ですか」
琴子は男性に声をかけた。
「だから、小惑星が衝突するんだよう……」
男性が頭を抱える。
上空から、大きな落下音が聞こえた。
酷い熱さの爆風と、無数の火の玉が店の出入口を突き破り、壁を壊して周囲を掻き混ぜる。
ああ……思い出した。
四月六日、桜の並木がまだ満開だった時期に、地球には小惑星が衝突した。
一カ月くらい前だ。
角度の計算から、僅かな差で逸れるであろうと思われていた小惑星は、その後の宇宙塵との衝突や様々な要因から、地球に直撃する角度に変わっていたのだ。
発表があったのは、当日の昼。
対処のすべもなく、地球は崩壊した。
琴子は、直撃の衝撃で店外に投げ出され、桜の木の下に叩きつけられたあと、遺体は桜の木ともども蒸発し消えた。
ほんの僅かに残った体内の水分は宇宙に放り投げられ、飛散した。
幽霊になっても、夢って見るものなんだ……。
琴子は、ぼんやりと思った。
目が覚めて見る景色は、霊界の景色なのだろう。
いつまでも続く春先の肌寒い空気の中、花々が永遠に咲いている霊界。
無限に散る薄い香りの桜の花びら。
目が覚めても、見る景色は大して変わらないと思った。
終