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溺死  作者: 紫月
1/1

その恋は呪いだった

.


身悶えするほど、息苦しくなるほどの、恋。

一生で一度味わうか味わわないか、それくらいの恋情を私は欲していた。新しい、過去を超える深いものがないと、私はずっと過去に溺れたまま。酸素を求め沈み続けるだけ、だ。


「せんせい、」


私の酸素はもういない。

私の恋い焦がれた酸素は、あの人は、先生は、すべてシルバーリングに吸い込まれてしまった。

あのひとを殺してしまえたら、どんなによかったか。



五月、時期のおかしい転校はきっと好奇心の格好の的になるだろう。面倒臭いな、と思いながら視線を下にやった。


東京から大阪へと転校が決まった。

本格的に学校に入るのは、明日から。転校日前日の今日、私は明日からお世話になる高校の室内プールにいた。なんとなく惹かれて、なんとなく、前の学校の制服のまま、入ってしまった。


休日で水泳部の部活がオフということもあるのか、水は腰あたりまでしかなく、温度調整もされていなくて冷たかった。けれど入ってしまえばその冷たささえも変に心地いい。


別に水が好きなわけでも、前に水泳部だったわけでもない。


むしろ水は嫌いだ。


体は思い通りに動かないし、何より苦しい。圧力が肺を潰し、生きるのに必要な空気がない水中は、私にとってもはや地球ではなかった。


水を含んだ制服は重い。水中で揺らめくスカートを見て、ああやっぱり別世界みたいだと、水中を黙然と見た。


ぐっと制服を絞ると、ぼたぼたと水が落ち、水面がその度にゆらゆらと揺れる。波紋が広がり、それはまるで私を睡眠術にかけようとするように不安定に揺れる。


「なにしてんだろ」


ぽつりと呟いたそれは、口にした途端急に自分に虚無感を伴って襲いかかってきた。乾いた笑い声が溢れて、深く息を吐く。



──ほんと、なにしてんだろ、わたし



静まらない水面に自分が映り、揺れて原形をとどめない。いっそこのまま沈んでしまおうか、なんて考えた時、ふと何かの気配を感じた。

それは背後にあるプールの入り口付近から。


警備員か、それともオフなのにきてしまった水泳部の部員か。誰だとしても、こんな私を見たら驚くに違いない。明日から学校に通い始めるのに目立つようなことをするなんて、我ながら馬鹿だなと思う。



「おい!」



その声に応じるように振り返る。髪がやわく頬を叩いた。



「お前何しとんねん!」



明るい髪色の少年は、整った顔でプールサイドから私を見下ろしていた。


「ちょ、なんや自分、水着忘れた水泳部か! それ以前にどこの学校の制服やねんそれ!」


さすが関西人、よくわからないが多分彼は私にツッコミをいれてくれたのだろう。笑うことはなかったが、彼の印象は良くなった。


「学校名言っても分かんないよ」

「とりあえずほら、上がれ!」


私に手を差し伸ばしてきた彼は、当たり前だけれどさっきから関西弁を話していて。本当に遠いところまできたのかと、不思議な心地がした。


差し出された手は大きくて、掴むことなくじっと見ていると、もう一度促すように「ん」と手を伸ばす。親切な人だと思いながら、ある好奇心が湧いた。


そう、それは意地悪心でもなんでもなく、好奇心、だったのだと思う。伸ばされた手に自身の冷たい手を重ね、あろうことか私は、彼の手を、引いた。



「え」

「あ」



予想だにしなかっただろう私の行動に、気の緩んでいた彼の体はぐらりとバランスを崩した。

ばしゃん、と水が跳ね、私に覆いかぶさるような形で落ちた、彼。


自然と二人水の中に沈んでしまった。そして、いつもは開けないのに、私は水中で目を開けたのだった。


ガラス張りのプールだからか、外から太陽の光が射し込んできていて眩しい。水が光を吸い込んで、水面がキラキラと輝いていた。


水泡が頬を撫でる。

彼と目が、合った。


そのときどくりと何かが疼いた。何が、というわけではないけれど、ああ、これが運命ってやつなのかなと思うくらいに、ゾクゾクしたのだ。


「っは!」


空気を吸い、お互いに目を合わせる。水中でも私が彼の手を離さなかったからか、距離が近くて互いの荒い呼吸を感じ取ることができる。

ツーブロックと言われる髪型だった彼の髪も、水を含んで重たそうだった。



「なにすんねん、濡れてもたやんけ! もー、部活終わっとったからええものを」


頭を横に振って髪の水をとばす彼は、犬のようだ。


「ねえ」


声を出すために深く吸い上げた空気は新鮮で、喉奥が乾くことはなかった。


「あなたの名前は、何?」


髪をかきあげ、不機嫌そうに私を見下ろす。筋肉のついたがっしりとした腕を、筋を伝うように雫が垂れた。

「……藤昴ふじすばるお前は?」


こんな言い方は変だと思うが、はじめ、私は彼がどういう人間かなんてことはどうでもよかった。ただひたすらに、私をこの苦しい海から掬い上げてくれる存在ならば、と勝手に彼に期待したのだった。


「蒼依。松岡、蒼依」


マツオカアオイ、と私の名前を口でなぞると、彼は靴下を脱いでペタペタとプールサイドを歩いていく。私も水に浸かるのは飽きてしまったから、彼を真似てプールサイドに上がった。


藤昴は私を一瞥し、太陽のよく当たるところに座った。試しに隣に腰を下ろしてみたが、嫌がられることはなかった。



「そんでお前はどこからきたねん」

「東京から。明日からここに通うの」

「転校生とか聞いてへんけど」

「二年生なんだけど。……待って、もしかして先輩?」



普段は初対面の人に砕けた話し方はしないのに、なぜか彼に対しては敬語を使うのを忘れていた。それほどまでに、いろんなことがどうでもよくなっていたのかもしれない。


「……いや、俺も二年」


彼はスポーツバッグを引き寄せると、ごそごそと漁りだした。そして、そこから取り出した黒いタオルを私の頭にかけた。うちとは違う柔軟剤がふわりと香る。


「使ってへんやつやから」

「ありがとう。藤は?」

「俺は別にいらん」

「なんでこんなところに来たの? 水泳部ってわけでもなさそうだし」


背中に日差しを感じながら、借りたタオルで軽く髪を挟んで水気を取り、頭から手を下ろした。このくらい日差しがさしこんでいたら、あとは自然に乾いてくれそうだ。


「帰ろうと思っとったら見たことない奴が制服のままプールに入っとったんやで? そらくるやろ」


そのまま無視して帰ることもできただろうに。宮、藤はあえてここにきた。彼を突き動かしたのは、お人好し精神なのか、好奇心か。まあ別にどっちだっていいのだが。


湿気と太陽の日差しで気持ちの悪い暑さがあるけれど、髪と服は少し乾いていた。



「藤は何部なの?」

「バレー部」

「意外。見た目だけだと軽音っぽい。ギターとか弾いてそう」

「俺音楽あかんねん」



初対面で、しかもプールに引っ張り落としたのに、彼はそんな私と何事もなかったかのように話してくれる。藤はカラッとしていて、話しやすかった。


半乾きの制服が少し重たいのも、日差しと湿気で蒸れる服の中も、宮と話していると気にならなかった。


よく通った鼻筋と、長い睫毛。男の子らしい顎から耳にかけての骨格。綺麗な横顔だと思った。水に濡れた明るい髪が眩しく、睫毛に乗った水滴が光を反射する。


彼を水の中に引き込んだ時、その双眼を捉えた時。そこに映り込んでいた自分と目が合うくらいに近い距離で、世界は静かで。スローモーションのように感じて不思議な心地だった。



「じゃあ俺帰るわ。家でしばき倒さなあかんやつおるから」

「なにそれ」

「一緒に帰る約束破られたねん。彼女やないけどさ。……ま、それがあったからお前とこんな出会い方したんやけどな。……じゃーな」

「今日はごめんね、なんかありがとう」



ひらりと手を振って、藤は鞄を肩にかけて去っていった。

ガラス窓に背を預け、少し上を向いて息を吐く。

新しい学校で話した同級生第一号だ。


立ち上がって湿ったスカートをパタパタさせていると、するりと頭からタオルが落ちた。私の髪の水気を吸い取ったタオルはぐったりとしている。


「忘れてた……」


落ちたタオルを拾い上げる。今から追いかけたら間に合うだろうか、という考えが頭によぎったが、自分が方向音痴だったことを思い出してやめた。


そうしていると、携帯が震えた。きっと母からだ。担任になる先生との面談の後、わがままを言って一人でこの高校の敷地内を歩かせてもらっていたことをすっかり忘れていた。自分でも驚くほどにプールに惹かれてしまったから。


もうすぐ帰るということだけメッセージを送って、立ち上がる。



「ふじ、すばる」


目をつぶって、その名を繰り返す。力強い双眼と、呼吸、と。ああ、この呪縛から、どうか私を救って。すじすばる。


記憶の中で「あの人」が私の名前を呼んだ。もう忘れなければならない人。もう永遠に私のものにはならない人。



「せんせい」



薬指にキスをして、噛む。ふっと脳裏にシルバーリングが浮かび、噛む力が強くなった。最悪な恋愛ごっこは早く忘れてしまいたい。


自分の姿を見下ろすと、纏っている制服から前の学校の思い出が蘇る。明日にはこの制服も脱ぎ捨てて、全てが真っ白になる。


私のことを誰も知らない環境の中で始まる新しい生活は、確かに怖いはずなのに。怖いという感情がないほど、私は藤昴という存在に期待していた。


感情が激動するほどの、狂おしいほどの


「……さむ」

急に襲った刹那的な冷たさに体は勝手にふるりと震えた。

そして、身震いするとそれまで何を考えていたのかをすぐに忘れてしまう、便利な頭。忘れたいことは忘れられないのに。


いや、忘れても事実が変わるわけではないのだから、忘れないほうがずっといいのかもしれない。


「切り替えよう」


忘れようじゃなくて、切り替えよう。

ここで、私は歩きだすのだ。


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