第1回家族会議
日が沈むと下民街には完全な闇が訪れる。
乱雑に物が置かれた小汚い路地なんかに街灯のような気の効いた物があるわけもなく、せいぜい暗闇を照らしてくれるのは月光くらいなものだ。だが、それでさえも立ち並ぶ多階住居に遮られてしまっては足元も見えない。
だから多階住居に住んでいる下民達は夜になれば外を出歩くことはほとんどない。かといって部屋の中でのんびり過ごしているかといえばそんな訳でもない。暗い部屋を照らす蝋燭だって、暖を取るための薪だって無料ではないのだから、よっぽどの理由が無ければさっさと晩飯を済ませて明日のために寝るのが普通だ。
そんな多階住居の1つの部屋に小さな蝋燭が灯っている。
つまり、その部屋の住人にとって"よっぽど"の事態があったに違いない。
「エリアは?」
「寝た。"ぐっすり"な。」
「そう。良かったわ。」
「あぁ……そうだな。」
蝋燭が灯る薄暗い部屋にいるのは2人の人影。
1つは椅子に座りながら縫い物をしている女性。もう1つはずいぶんと疲れた顔をしながら扉から出てきた男性だ。
「エルース……ちょっと話がある。大事な話だ。」
「カガイも?私もよ。」
部屋から出てきた男性はカガイという。
彼は疲れた顔に呆れた顔もくっつけて机に着くと、はぁ、と大きなため息をついた。
それをエルースと呼ばれた女性が朗らかな笑顔で迎える。
机上の小さな蝋燭がその対照的な表情をゆらゆらと照らす。
「お水、どうぞ。」
「ん…すまん」
差し出されたコップをカガイは一気に煽る。
ごくごくっと大きな音と共にコップの中身がみるみる無くなる。
「ぷはぁっ、旨い。誰かさんのせいで喉がカラカラだったからな。これが酒なら言うこと無しだ。」
「誰かさんってもしかしてエリアのこと?そんなこと言ったら駄目よ?かわいそうでしょ。それにこれから大事な話をするのにお酒なんて飲んじゃダメじゃない?」
「……誰かさんにはお前も含まれるんだかな。やれやれ。もう一杯くれ。」
「はい、どうぞ。」
カガイはガシガシと頭を掻きつつ不満の乗った視線をエルースに向けるが、彼女はと言えば意にも介さずにコップに水を注ぐ。それを見つめながら、大事な話をすると言っている重大さを分かっているのかと自分の妻ながらエルースの事が少し心配になる。
「エルース?たぶん俺がしたい話とお前がしたい話は同じだと思うんだが、どうだ?」
「それはどうかしら?いい話?悪い話?」
「悪い話だ。」
「あら、そうなの?じゃあ違う話ね。私のは良い話だもの。」
うふふと笑うエルースを前にカガイの口からは更に深いため息を漏れる。
「エルース。分かってると思うが話ってのはエリアのことだ。あいつは一体どうしちまったんだ?」
「どうって?」
「いくらお前でもそこまでとぼけるなら俺も怒るぞ?エリアがまるで別人みたいじゃないか。」
自分が出てきた扉を見つめる。
その奥にはさっきまで大騒ぎしていた自分の娘エリアが寝ている。
「意識を失うまで必死に床という床。壁という壁に虫除けの草を塗りたくってた……見ろ。手伝った俺の手まで緑色だぞ?」
広げる手の平をエルースが覗き込む。
ゴツゴツした手の平の皺という皺に緑色の葉が刷り込まれている。蝋燭の光だけでは色の一部分しか見えないが、おそらく酷い有り様になっているのだろう。
「あら本当。エリアは満足そうだった?」
「満足……どうだろうな。もう止めたらどうだって言ってもふらふらになりながらやり続けて、最後は気絶しかけたところを布団に寝かせた。」
「そう。無理したのね。」
「……あぁ。まったくだ。」
エルースの言う通りだと、カガイは思う。
だが、エルースがその様子を微笑みながら聞くのに対してカガイの心境はそうはいかない。
なぜなら彼らの娘であるエリアはとても病弱だからだ。布団から立ち上がるのもやっとだった娘が倒れるのも厭わずに嬉々と壁に草を塗りつける様を見た。
「なぜ?」「どうした?」という疑問を飛び越えて恐怖を感じたと言ってもいいだろう。とても"頑張った"で片付けられる内容ではない。
「なぁ、エルース?」
「何かしら?」
「よく聞いてくれ。」
そこでカガイは1つ息を飲む。
今から言おうとしている考えがいかに突拍子の無いものか分かってるからだ。もし、自分の妻が『エリアの病気が治って元気になった』と思っているなら、よっぽどそっちの方がいいし、そう思わせておいてやりたいとも思う。
だが、頭を過った可能性はそんな理想ではなかった。
薬師や教会に相談しても手の施しようが無いと言われた自分の娘が寝ているだけで良くなったとはどうしても思えなかったのだ。
「ふぅ……俺はあのエリアは本当のエリアじゃないかもしれないと思っている。まるで別人みたいだ……そう思わないか?」
意を決した自分の口から出た台詞を改めて自分の耳で聞くと、本当に馬鹿な考えだと笑えてくる。
本当に突拍子もない考えだ。
声も背丈も全く同じで、あれほど瓜二つの他人がいるわけがない。更にそんな奴が気づかれることもなく本人と入れ換わる。
ありえない。
ありえないのだが、そうとしか思えないほどに豹変した娘の様子を他に説明する答えが見つからない。もしくは、そう感じたのは親としての直感なのかもしれない。
カガイはエルースを見つめる。
その顔は……よく見えない。さっきまで小さな蝋燭の火でも見えていた顔が今はよく分からない。
「お前の良い話ってエリアの病気が治ったという話だろう。あの姿を見たらそう思うのも仕方ない。俺だってそう思いたい。だが、な。あそこまで性格が変わるとは思えない。」
「別人だから仕方ないわ」
「そうだろ?別人なんだから元気なのも……ごぼっ!?」
「ちょっと、あなた?大丈夫?」
カガイは無意識に口に運んでいた水を派手に吹き出し、立ち上がったエルースが背中を擦る。
「かほっ、ごほっ……こほっ。ちょっと待て。お前今なんて?」
「大丈夫?」
「そっちじゃない。エリアが別人だって知ってたのか?」
責める口調にエルースは「そうね」と言いつつ口に指を当てる。
「そうねって、お前。エリアに似た全くの別人を部屋に寝かせてるのかっ!!」
「しーっ。あんまりうるさくするとカイファまで起きちゃうでしょ?」
「いや、お前、こんな話を静かにしろってのが無理……って、あぁ、もうお前はそういうとこばっかり頭が回る。たくっ。」
「こうしないとゆっくり話せないでしょ?」
「あぁ、くそ……だが、まぁ、な。」
こんな話を冷静にしろってのが無理な話だ。
だが、娘達どころか近所の連中も眠り静まったこんな時間に大声を出そうもんなら、明日にでも夫婦喧嘩を聞き付けた噂好きの連中に何を言われるか分かったもんじゃない。
『こんな話』を娘達、ましてや他人に聞かせるべきじゃないのは百も承知だ。なんといってもこの住居は壁が薄いのだから。落ち着いて話すしかない。
「はぁ……だから、こんな時間まで詳しく話さなかったのか?たくっ。仕事から帰って来るなり、『虫除け用の草を買って来い』って言われてから訳分からんままだぞ?もう一回帰って来たら帰って来たで、今度はエリアの相手をしろだ。だけど、何があっても驚いたり狼狽えた怒ったりするなと来たもんだ。まったく。」
カガイは袋いっぱいの虫除け用の草を手にエリアの部屋に入った瞬間を思い出す。そうだ。思い返せば、エルースは最初から事情を知っていたとしか思えない。
「そうか……他人なのか。本当にか?」
「えぇ」
「そうか……」
カガイは自分の考えが間違っていなかったことに安堵する。
……訳もなく、沸いてくるのは疑問ばかりだ。
(どうしてエルースはこんなことを?)
瓜二つの人間がいること事態をかなり怪しいと思っていたカガイも、そんな存在が目の前に現れてしまって納得せざるを得ない。だが、その瓜二つの他人がエリアと入れ換わるとなれば話は別だ。
どうしたって協力する人間が必要だ。そして、エリアが他人だとエルースが知っているということは、その協力者はエルースということになる。
悪戯というには悪質過ぎる。
「エルース?本当のエリアはどこだ?」
「その部屋で寝てるわね。」
「そうか。よし、迎えに……は?そりゃあ、どういう意味だ?」
カガイの軽く浮きかけた腰が停止する。
もう、カガイの頭の中は疑問でいっぱいだ。
「中身は違う人で、身体はエリアのままみたい。不思議よね。」
「…………………さては、お前もエルースじゃないな?」
「そんな訳ないじゃない。何言ってるの?」
「それはこっちの台詞だ。埒があかん。こうなったらエリアに直接聞いてくる。」
「もう寝ちゃったからダメよ。しかも怖い顔して問い詰めるつもりでしょ?そうならないように先に相談してるんだから。」
「お前、そんなこと言ってる場合か?」
もし、エルースの言ってることが万が一本当だとしたらエリアの身に起こってることは一大事だ。カガイとしてはのんびりしている訳にはいかない。
「教会に連れていく」
「ダメよ。」
「どうしてだ?」
「………」
そこで初めてエルースが口を塞ぎ、黙ってしまう。
カガイは腰を落ち着け、今度はエルースが語るのを待つ。
「………私、エリアと代わってあげたいってずっと思ってたのよ。」
「それは………知ってる。」
エルースの口から出てきた言葉はカガイにとっては聞き覚えのある話だった。いや、聞き覚えがあるどころじゃない。直接漏らすこともあったし、寝言で言うのも聞いたことがあるくらいだ。
『どうしてエリアが?』『あんな小さな子なのに。』
『どうして私じゃないの?』『私だったら良かったのに。』
だか、そんな望みは叶うわけもない。
例え娘だろうとどうしたって人の代わりになることなんて…
「あ"!?お前、まさか。」
「私は何もしてないわ。本当よ。何もできなかったダメな母親だもの。」
「いや、そんなことはないが……」
咄嗟にフォローを挟むが、その言葉に力はない。
今の状況はエルースの望まぬ形とはいえ、少なからず彼女の願いに沿っている。エリアの辛さを見知らぬ誰かが請け負っている。
「もし、こうなったのが私が願ったからだとしたら私にあの子を責める権利があると思う?」
「そんなわけあるか。ありえない。あれはたまたまだ。それも教会にでも行けばすぐにわかる。」
「………それだけじゃないわ。ねぇ、今のエリア。ちょっと前のエリアに似てない?」
「似てる?性格がか?とてもそうは思わんが。」
急に変わった話にカガイは、寝る前のエリアの姿を思い出す。
「ううん。そうじゃなくて…ちょっと前の症状に似てると思うの。1年前は起き上がれなくなるほどじゃなかったわ。それこそ今くらい元気があったと思うのも。だから……」
そこまで聞けばカガイにもエルースが考えが分かる。
「……今は元気に見えるエリアも一年もしないうちにってか。そんな身体にまたエリアを戻すのは……堪えられないか?」
エルースは小さく頷く。
「もうエリアは戻って来ないのかもしれないわ。でも、戻って来てくれるなら……元気な身体に治ってからに……どうしてもそんなことばっかり考えちゃう。それを良い話だなんて。私は本当に酷い母親だわ。エリアのためなら、今、エリアの中の人がどうなってもいいと思ってしまっている。」
「……そうか。」
カガイは渇く喉に水を流し込んだ。