エリア
「あなたは……誰ですか?」
私の耳に届いた幼くか細い声が小さく震えているのは何かに怯えているからだろうか。
声の主だろう水の中の少女の唇は小さく震え、瞳は左右に揺れ表情が歪む。それは水面に広がる波紋のせいだけじゃないだろう。
その表情に胸が締め付けられる。
何にそんなに怯えているの?怯えないでいいよ。
怖くないよ。怖くなんか…ない。
あなたを助けてあげられるなら私は何だってしよう。
助けてあげたい。その不安を取り払ってあげたい。
だから、私も助けて欲しい。
この訳の分からない状況から救い出して欲しい。
「これ、本当に…」
分かってる。
水の中の少女の願いは叶わない。私の願いも叶わない。
目の前の少女を助けることはできないし、私が救われることもない。
同じようにどんなに他人事のように振る舞おうとその聞き覚えのない声か私の口から発せられている事実は覆らない。
あなたが誰かって?そんなの聞くまでもない。
水面の少女が質問に答えるのを待つだけ無駄なんだ。
「わた、しなの」
声に出してもそれを自覚する余裕がない。
でも本心では理解している。
これは私だ。
絶対に、間違いなく。
分かってる。
分かってるけど…
「なんで…どうして…」
不理解が。疑問が。意味不明が。
その事実を認めようとしない。
「私、一体どうなったのぉおあ"ぁ!?痛ぅ!?」
突然の痛みに思考が中断される。頭を抱え、床に転げ回る。
ガンガンと頭の中を金槌で打たれているかのような酷い頭痛に襲われる。
「あ"っ…あぁっ!?止め…止めて…」
頭の中を殴られる。ずきずきと白い稲妻がちらつく。
視線の端を小さな星が光っては消え、消えては光りを繰り返す。
その度に私じゃない何かが意識を塗り替えていく。
痛い。痛い痛い痛い。
痛い痛い……痛くて……寒い。寒くて寒くて…
「寒いよ……お母さん……」
吐く息は白くない。雪が降るにはまだ早い。
身体を縮込ませても自分の体温が分からない。
どうしてこんなに寒いんだろう。
まるで身体の熱が1つもないみたい。
身体を少しでも動かしたら温かくなるかな。
あれ?手も足も動かせない。動かない。
こんなに寒いのに身体がちっとも震えない。不思議。
「寒いなぁ……暗い……眠いよ」
まだ夜でもないのに真っ暗なのはなんでだろう。
あぁ、そっか目を閉じてるから…か…眠くて眠くて……目を開けていられない。
目を開けたくても、力が入らない。暗い…暗くてすごく寒くて眠い。いつも眠いけど今はもう本当に眠くて。我慢できない。もしこのまま寝られるならもう目が覚めなくてもいいかな……
「駄目よエリア!寝ちゃダメ!頑張って元気になって!寝たら死んじゃうだから。」
あれ?お姉ちゃんの声がする。
ふふ。相変わらずうるさいんだから。
寝たくらいで死んじゃうなら私はもう何回も死んでるよ。お姉ちゃんだって昨日死んじゃってるんじゃない?
そう言ったら、お姉ちゃんは怒ったっけ。
そんな訳ないでしょって私を揺さぶるんだ。
でも全然、乱暴じゃなくて優しくて温かくて、私は凄く嬉しくて楽しかったよ。
ごめんね、お姉ちゃん。
いつもたくさん励ましてくれた。
けど私、もう頑張れないや。
元気になったら一緒にたくさん遊ぼうって約束したけど約束守れそうにないよ。
ごめんね。
「エリア。無理はしなくていい。」
今度はお父さんの声がする。
落ち着いた声で楽しい話を聞かせてくれるお父さん。
今日はどんなお話聞かせてくれるのかな?
変な物を売りに来た人の話?許可もないのに無理矢理通ろうとする人?堅くて仕方ない貴族の人?
魔物と戦うお父さんの話は格好良かったなぁ。
そんなお父さんのお話、大好きだからもっと聞かせて。
でもそんな私にお父さんは辛そうな顔をしてた。
そんな顔しないで。
無理してた訳じゃないんだから。
お父さんが毎日聞かせてくれるお話は本当に楽しかったもん。
私が笑ってる最中に急に苦しくなっちゃつたから心配させちゃったんだよね。もっと上手に笑えたらお父さんをいっぱい心配させずに済んだのかな?
ごめんなさい。
「エリア?何かわがままはない?」
優しい声…お母さんだ。
頭を撫でながら、そう言ってくれるお母さん。
わがまま?そうだなぁ。思いつかないや。
私は、お母さんがこうして側にいてくれるだけで十分。
だから私は「わがままなんかないよ」って言った。
そしたらお母さんは少しだけ寂しそうな顔をしてずっと頭を撫でてくれたっけ。
それからは、同じ事聞かれたらいつも「ないよ」って答えるようにしたんだ。そしたら、ほら作戦通り。私のわがままは叶うんだ。
私、実はズルい子なんだ。
お母さんが眠るまでずっと頭を撫でてくれるの知ってるんだから。
え?
でも、本当にわがままは無かったのって?
う~ん、何かわがまま言った方が良かったなら…そうだ!じゃあ、私。お母さんのお手伝いしたかったかな。一緒に料理したり、お掃除したりね。
でも、そんなこと言っても私は寝てばっかりだからお手伝いできないでしょ?言ったら困らせちゃうから言わないんだ。
…ごめんなさい。
もっと元気な子なら良かったよね。
「そんなことない」
皆はきっと優しくそう言ってくれるかな。
本当はどう思ってたんだろう。
ずっと寝てばっかりの私がいて迷惑じゃなかったかな。
残念だなぁ……今はやりたいことできちゃった。
もっと元気になりたかったでしょ。もっともっと笑いたかったでしょ。もっともっともーっとわがまま言いたかった。
皆と一緒に遊びたかったし、色んな所にも行きたかった。
甘えたかった。働きたかった。頼って欲しかった。
ごめんね、お姉ちゃん。
ごめんなさい、お父さん。
ごめんなさい、お母さん。
ごめんね、何もできなくて。
「でも、こんな何もできない私だったけど、最後に1つわがまま言ってもいいなら………」
嘘みたいにすぅっと頭痛が消える。目の前をチカチカと光っていた星のような光も今はもう見えない。
だけど、決して頭はスッキリしない。
色んな感情が心を満たして、収集がつかない。
「生きたかった。生きたかったよねぇ……ごめん…ごめんね……ごめんなさい。私なんかが代わりになっちゃって。ごめん。」
私は頬を伝わる涙をそのままに謝った。
この小さな命を助けてあげられなかった事に。
その命の代わりに私が生き長らえている事に。
それから、それから…
「あぁ……もう……私も……死んじゃったんだ」
しかも、この少女のような病気じゃなくて部屋に出たゴキブリにびっくりして逃げた結果だ。違ったビニールゴミだ。しょうもない。
「本当に申し訳ない。」
私が飛び降りたマンションは曰く付きになることだろう。
会社だっていい気分はしないはずだ。ブラックじゃないのに風評被害とかさ。
何よりも私のお母さん、お父さんに申し訳ない。
わざわざ東京に見送ってくれたのにまだ何の親孝行もできてない。しかも死因が娘がマンションから飛び降りなんて知ったらさぞや悲しむことだろう。
泣いちゃうかな。
……泣いてくれるかな。
「あぁ、もう、本当になにがなんだよ……ごめんなさい」
考えれば考えるほど謝ることばかりだ。
何に謝ってるかわからない訳だ。
謝ることが多すぎる。
「ぐすっ……う、ぅう……あぁ、ぅ」