知らない部屋
(ありがとう)
そう告げる小さな声が聞こえた。
感謝を伝えるはずの言葉だ。
なのに、その声はそれはもう寂しそうな響きで、聞いた私はなんでそんなに寂しそうにお礼を言うのか分からなかった。
「ん…ぅ」
ぼんやりと意識が覚醒していく。
身体には血液が巡るように感覚が戻り、肌に触れる布の感触が伝わってくる。
(ん、…朝…か。)
瞼を通して瞳が光に照らされる。その眩しさに薄目を開けると差し込む日光が私の顔を照している。それは毎朝経験する私を憂鬱にする光だ。
(起きたんだ……なんか凄く身体がだっるい。こんなの仕事に行っちゃダメなんじゃないかな?休んじゃおっかなって、まぁ、そうもいかないんだけど……えっと…私、いつの間に寝ちゃってたんだろう。確か、昨日の夜は部屋で。)
モゾモゾと身体を蠢かしながら昨晩の記憶を探る。
いつも通りに晩御飯を済ませた後でいつも通りに片付けして、それからいつも通りに寝、て?
っ!?
ドクンと心臓が大きく鳴り、瞬間にして全身に大量の血液が回る。
「はぁっあ!?ゴキブリぃいっ!?」
慌てて身体を起こし、辺りを伺う。
奴は?奴はどこだ?奴の存在を許してはいけない。絶対に。
そうだ。思い出したぁっ!
昨日の夜、奴が私の首にぃっ!?
慌てて首を触るがそこには何もいない。
もう一度、部屋を確認するが近くにもいない。
「ひぃ~、良かったけど気持ち悪いぃ~~、首を洗いたい~」
昨晩の記憶を抹消したくて首を必死で擦る。
まさかあんだけ高い額を払った新築高級マンションにゴキブリが出るなんて!信じられない!
もう、さっさと売って違う所に引っ越さないと。
「って、そんなことは後で考えりゃいいじゃん。早く殺虫剤を撒かないと。ホウ酸団子も置き直して。あぁ、でもその前に部屋中スモークした方がいい…か…な?」
殺虫剤が置いてある場所に向かおうと布団から片足だけ抜け出したところで大きな違和感に気がついた。
「え……ここ、どこ?」
ゴキブリを殺すことでいっぱいだった頭が一瞬で真っ白になる。
改めて部屋を見回す。ゴキブリはいない。だが、それ以上に気にすべき物が目の前に広がっていた。
寝起きの感覚こそいつもと同じだったが目覚めた場所がそうはいかなかった。
見るからに古そうな木造の天井は今にも崩れそうで、壁に空いた小さな穴からは日光が差し込んでいる。
私が寝ていたのは6畳あるかないかというボロボロな狭い部屋だった。
「お婆ちゃん家……じゃないよね?」
築80年のお婆ちゃんの家でもここまで酷くない。
更に辺りを伺うが木箱や木材が積んであるくらいで、目新しい情報はない。精々、ボロボロだなって印象が補強されただけ。
もちろん私が住んでいる部屋とも違う。
壁紙は白くないし、ツルツルのフローリングじゃないし、こんなに狭くもないし。
まとめると……ここは見覚えのない部屋だった。
「もしかして、夢?」
くるくると寝起きのボケた頭で今の状況に対する解答を探し、導き出された答えはやっぱりボケた答えだった。
身体に触れる布の感触は本物だし、湿っぽい埃臭さはずっと鼻を満たしているし、身体を襲っている気だるさは徹夜明けのそれのようで、夢にしては現実感がある。ありすぎる。
「えっと、じゃあ……はっ!?もしかして、誘拐されて、監禁された、とか?」
辿り着いた答えに一瞬、身震いする。耳を澄ますが特に物音はしない。とりあえずすぐ近くに犯人はいないようだ。
「どうしよう。そう考えるとそうとしか思えなくなってきた。」
映画やドラマではよく見るシーンがまさか現実に起こりうる訳がないと思う一方で、テレビの向こう側でたまに耳にするニュースや事件が我が身に降りかかったのではないかと心配する気持ちも沸いてくる。
「逃げないと」
確定した答えは何もない。だけど、このままだとロクな目に合わないと本能が訴えている。ならば選択肢は1つだ。
身体に乗っかっているガサガサとした手触りの布団をひっぺがしここから脱出するしかっ!?
「うわっととと!?痛ったぁ!?」
と、思ったが勢い余って派手に転ぶ。痛い。
咄嗟に手を着いたが勢い余って額を床にぶつけた。
ズキズキぐわんぐわんする。
(うぅ~…急に動き過ぎた。焦らずゆっくり迅速に。)
そう自分に言い聞かせながら改めて床に手をつく。
すると手の平にジャリジャリとした砂の感触が伝わる。
(うっわ、汚い部屋。レディを監禁するならもう少し綺麗にするとか気を遣ってくれてもいいんじゃないかな?)
見れば小さな手にはびっしりと砂がまとわりついている。
指先を擦り合わせればじゃりじゃりと不快だ。
「手を洗いたい。どこかに水道があればいいけど。」
見た感じこの部屋の中に水道らしき物はない。
手を洗うなら外に出るしかないようだ。
「逃げる道中に公衆トイレでも公園でもいいんだけど。うん。」
……手を…見る
少し骨張っているが色白で綺麗な小さな手だ。
汚して置くにはかわいそうじゃないか。うん。
「そうと決まれば善は急げってね。いつまでも床に座ってる場合じゃないっと。」
足に力を込めてなんとか立ち上がるがどうしてもフラりとバランスを崩してしまう。かなり長いこと寝ていたのかな?こりゃあ、リハビリが大変だ。
それでもなんとか姿勢を保つ。
「えっと…………ずいぶんと視線が低い気がする。」
立ち上がった景色はもちろん寝ていた時に比べれば高い、のだがどう見てもいつもの感覚に比べると低い。床もだいぶ近い。
手を………見る。
小さな手だ。もともと大きい訳ではないんだけど。
そういう意味じゃなくて普段の一回りも二周りも三周りも小さい。
「これじゃあ、まるで子供の手みたい。あはは…はは。」
そんな馬鹿な、ね。
はは。
はは……
ペタペタ
顔もずいぶんと小さい……ような気がする。
よく見れば足も短い。こりゃあバランスを取れない訳だよ。
いつもと長さが違うんだもん。
あれれ?なんてこったい。
よく見れば手だけじゃなくて腕も短いじゃん。
「はぁ……はぁ……はぁ……どこか……どこかに…」
せっかく立ち上がれたことも忘れて、手が汚れることも厭わずに必死に床を漁る。
その腕がなんとも頼りない。
私の腕はいつからこんなに細くて短くなってしまったのか。
あぁ、そっか。
やっぱりこれは夢だ。
だってそうじゃなきゃ。
そうじゃなきゃ、ありえないもん。
床に着いた膝。床を探る手の平が砂に擦れて痛いのに夢から覚める気配はない。だけど、これは夢に違いない。そうじゃなきゃそうじゃなきゃ…私、もしかして…
「あ……あった!」
その時、壁の穴から差し込む光をキラリと反射する物が視界の端に見つかる。短い手足を犬のようにバタつかせてその光る物まで辿り着く。
「はぁ…はぁ…………う、そ」
そこには水の張った桶。
恐る恐る覗けば、その向こう側からずいぶんと頬の痩けた少女が私を見つめついた。
私が指を水に浸けると、水の中の少女も同じように指を当てる。指先から広がる波紋の向こう側で、見知らぬ彼女は頬に触れている。
「嘘、どうして。何がどうなって。」
頬に触れる手の平から砂の感触が伝わる。
私の顔ってこんなに小さかった?
私の耳は?鼻はこんな形だった?
髪の色だってこんなんじゃ…ない…
「私の声ってどんなんだっけ?」
聞いたこともない声は小さく震えていた。