ありえない会合
とある高層マンションの一室。
3LDKのLの部分には小さな光が灯っていた。
「いただきます」
テーブルランプが照すのは白い地に青い文字が特徴的なカップラーメンとそれを握る女性の姿だ。ほっそりした印象の女性はもう一方に箸を握って、ふーふーと息を吐いていた。
「ずずぅ~……うん。やっぱりシーフードが一番よね。」
馴染んだ味に舌鼓をうちながら誰が聞いてる訳でもない食レポが自然と漏れる。オーソドックスな醤油味も美味しいがやはりシーフードが一番だ。だぶん舌に合うのだろう。
海鮮味かと言われれば謎なスープを楽しんだ後は縮れた麺を箸で掴み、ずるずると口へと運ぶ。
「はふはふ………うんうん……ふぅ……ご馳走様でした。誠に美味でした。」
カップを机に置き、手を合わせて1つ息を吐く。
鼻腔に通る残り香の余韻に浸る。
「お腹いっぱい…さてと、片付けて寝ましょ。」
空っぽの器と箸を手に真っ暗な台所へと向かう。片付けと言ってもカップを水で濯いでプラゴミへin。洗剤で泡立てたスポンジで箸を軽く擦って流すだけだから5分もかからない。
明かりをつける必要はない。節電節電。
キュッ
真っ暗な台所からテーブルランプが照らす部屋を見る。ソファーもテレビも棚もない殺風景な部屋だ。ちなみに他のLも似たようなもので、明かりがついていないのはお察しだ。
「全く使わないのも勿体ないよね…やっぱり失敗したかな。」
眠るのに使うのも目の前の薄暗い部屋だから他の部屋に入ることすら稀だ。こんなに広い部屋は宝の持ち腐れというやつだろう。後悔する気持ちが沸いてくるのも致し方ない。
「そうは言っても背に腹は変えられないしローンは払わないといけないしここみたいに値段が高い中でも安い優良物件はないだろうし」
手を拭いつつ思い返すのは、数年前の春のことだ。
就職が決まって上京するにあたり住む物件を探すために立ち寄った不動産で提示した条件に当てはまる物件はここしかなかった。
『新築で可能な限り上層階。できるだけ安く。』
いくつか内覧した中で唯一、手が出そうだったのはここだけだった。今更、他を探しても同じようなものだろう。
「でもさすがに手取りの8割が家賃ってのは無茶だった。う~ん、もう少し食費を抑えようかな。今日から始めるモヤシ生活。」
あとでモヤシレシピを検索しよう。
今のモヤシレパートリーなんかナムルくらいしかない。
そういえば節食生活をしているうちに食への欲望もずいぶんと薄くなったなと思う。
気がつけば体重もずいぶんと減って、1日少量の2食で活動できるようになった。人間の順能力ってのも侮れない。だからもう少し無理をしても大丈夫だろう。順応するんだ、私の身体よ。
「でもテレビくらいは欲しいかな」
別に私だってテレビやソファーなんか余計な物なんか必要ない、という断捨離精神に生きている訳じゃない。むしろテレビは好きだ。バラエティーなんか特に。職場でも情報弱者になりがちなのも問題だ。娯楽がないのも寂しい。
「次のボーナスでなんとか…やっぱり無理、だよね。はぁ~。」
頭の中で諸々を計算し、算出した結果に落ち込む。
世の中はお金がモノをいう。そういうのは余裕がある人の贅沢だ。諦めよう。
「私も人のこと言えないけどさぁ」
こうして使いきれない部屋を無駄にしながら住んでる私も十分に贅沢なのだろう。高級マンションに住むという贅沢をする日から私は年中金欠になる運命だったのだ。テレビなんて高級品もまだまだ手の出る代物じゃない。
「いいもん。いいもん。テレビはテレビで危険が潜んでるもん。CMなんか油断したときに不意に出てきたりするし…うっ。考えただけでゾッとしてきた。」
一瞬、頭の中で過った影を振り払う。
そいつと出会わないためにこうして金欠生活しているのに、自ら墓穴を掘るような真似をするなんて馬鹿らしい。
特に夏場が近いこの時期は予防のためにそういったCMも多い。
やはりテレビはしばらくいらないな。
「CMなんか見なくたって私の場合は予防はしっかりしてるから見る必要なし!」
部屋中にお馴染みの団子は置いてあるし、ベランダや網戸にも専用のスプレーを振ってある。入ってこれまい。
新築マンションなら初めから潜り込んでいる可能性も低い。念のため引っ越しの時にはスモークを焚きに焚いた。
そもそも高層階なら上がってくるのも至難のはずだ。
生ゴミだって出ないように食生活に気をつけてもいる。
家財だって買えばそれだけ潜む場所を与えることになる。だからいらない。買う必要はないんだ。
これは正に磐石といえる。一瞬の隙もない。
「だから大丈夫!」
そう。
私がこうしてなんとも苦しい生活を自分に課しているのは一重にそのためなのだから。
何を隠そう私は『昆虫』が嫌いなのだ。
芋虫、羽虫、甲虫、毛虫etc
こうして想像するのですら抵抗がある程に嫌いで嫌いで仕方がない。何が嫌いかと言えば、特にフォルムがいけない。気持ち悪過ぎる。
私の出身地はそれはもう田舎で四六時中一年を通して虫が出現した。そんな地獄から抜け出すためにはるばる上京して虫が出ない生活を送っているのだ。
思えば幼少期はそこまで嫌いということもなかった。
嬉々と触るようなことは無かったが視界に入るくらいならどうということもなかった。
それが歳を追う毎に虫への嫌悪感は指数関数的に上昇していった。触ることはもちろん、見ることも嫌で、テレビで一瞬でも目に入ろうものなら条件反射的に視線を背けていた。
そういえば首を痛めたこともあったっけ。
とはいえ、なんとか田舎で生活はできていた。
外出するときは虫除けスプレーを滴るくらい塗りたくり、運悪く見かけても近寄らないように徹底したし、虫が出そうなエリアは通らない。
なんとも生き難かったが、なんとかなっていたのだ。
虫は嫌だったが家族は好きだったし実家を離れる気はなかった。
だけど、それも進路を決める高校3年の夏まで。
あの日は酷く暑いのに実家のエアコンが壊れてしまった。
「おばあちゃん、お邪魔しまーす」
仕方無しに昔ながらの造り故になのか風通りが良くて比較的涼しい祖母の家に滞在することにした。実家よりも更に古い祖母の家に若干の恐怖はあったが熱中症に倒れるよりはマシだろうと思った訳だがそれが失敗だった。
極めつけのトラウマが生まれるなどとは想像もしていなかった。
「あれ?おばあちゃ~ん?いないの~?」
返事のない祖母を心配して、家の中を探し歩いていた私は完全に油断していたのだ。
ポトリ
首筋に何かが降ってきた。
「ぁ」
一瞬、それが何か分からなかったが次の瞬間ゾワリと全身の産毛が逆立ち危険信号を発した。
私は絶叫するために大きく息を吸い……
カサカサカサカサカサカサッ
「ぎゃゃあぁぁぁーーっ………ぁ……」
ぷっつん
目が覚めた時には私は部屋の畳の上で仰向けになっていた。
「春菜ちゃん、大丈夫かい?」
「おばあちゃん…私…」
心配そうに私を見つめる祖母と目が合う。
「目が覚めたかい?外から戻ってきたら春菜ちゃん倒れてるからびっくりしたよ?何があったんだい?」
「何が、あった……っ……」
「えぇ!?春菜ちゃん!?春菜ちゃーん!」
首筋に残る最悪な感覚がフラッシュバックした私は遠くに祖母の声を聞きながらもう一度気を失った。
あれが私が上京を決意した日だ。
「…今、思い出しても…ダメダメ。春菜、思い出しちゃダメよぉ。そんなことよりもモヤシレシピを探さなくちゃ。スマホはどこに置いたっけ?」
嫌な記憶を遠ざけるために暗い部屋で自分のスマートフォンを探す。確か机の上に置いたはずだ。
テーブルランプの灯りを頼りに机に向かう。
「えーっと、あったあった。」
机の上に目的のスマートフォンを見つけて手を伸ばす。
硬い感触が指先に触れた時にフワッと髪が靡く。
「あっと、そういえば窓開けてたっけ?換気のためとはいえ私ってばうっかりしてた。虫でも入ってきたらどうするのよ。」
視線を上げるとカーテンが小さく揺れていた。
「すぐに閉めないと……ん?っう!?あぁあっ!?嫌ぁああっあ」
突然の出来事に慌てて逃げ出す。
甦ったのは思い出したくもない記憶だ。
「なんでなんで………なんで、ゴキブリがいるのよぉっ!?」
揺れるカーテンに乗じて、首筋に触れたカサリとした感触。
それは忘れたくても忘れられない最悪の感触だ。
「どっどうっしって!?痛ったぁっ!?」
暴れた拍子に脛に強い衝撃が走る。机が当たったのだ。
悶えながらも勢いは殺せず、そのまま前に倒れるようにバランスが崩れる。
(やっば!?このままじゃ転ぶ!)
なんとか姿勢を戻そうと身を捩りながら、正面の窓に手を着く。
……が、そこにガラスはない。
「え?」
私の体重を支えられない網戸と一緒にベランダに飛び出す。
「あ」
気づけばそのまま手摺を越えて、身体は真っ逆さまに宙にいた。
突然の出来事に頭が追いつかない。
(私、落ちる。落ちてる。ここ何階だっけ?助かるような高さじゃないよね。私、死んじゃうんだ。せめて殺虫スプレーを撒きたかった。まだ首に奴もいるし。)
そこまで考えたところで首に乗る気持ち悪い感覚がなくなる。
「ぁ……カップラーメンの包装…」
ヒラヒラと舞うビニールゴミが月夜を反射して光っていた。
「なんだ、良かった…ゴキブリじゃなかったのか。紛らわしい。」
しょうもないな、と我ながら呆れるしかない。
ビニールゴミをゴキブリと間違えて取り乱して、ベランダから落っこちて死ぬなんて。
「……神様。もし、そんな私が可哀想だと思うなら次は虫がいない世界に生まれたいです。」