ア・リトル・リトル・ハッピー(7)
目覚ましが鳴る、大体二秒くらい前には起き上がった。いつもならこんな感じだ。生活リズムは、今日も絶好調。さっさと着替えて、ドアの前で待機する。階段を昇ってくる、微かな足音に耳を澄ませる。髪の毛がいつもよりちょっと撥ねてるのが気になるけど、オッケイ、許容範囲内だ。
「カザネ、おはよう」
「おはよう、ソウタ兄」
ノックとほぼ同時に、カザネの方からドアを開けた。にぃっ、と満面の笑み。どうだ、これで文句ないだろう。ソウタの良く知っている妹弟子の狩生カザネは、ちょっとずつ大人に近付いている。いつまでも甘えん坊じゃなくて、朝だって自分から起きて待っているというくらいの体裁で。ソウタがそれを望んでいるのなら、カザネはそうするしかない。大事にしてくれているんだから、贅沢は言えないよね。
町屋トヨカとかいう魔法使いに向かって、ソウタはカザネへの想いの丈を述べてくれた。正直、嬉しかった。あれを告白の返事として聞かせてくれたのなら、最高だったのにな。ソウタにはそれができない事情がある。ソウタは宮屋敷に任命された、カザネの後見人だ。例えるなら、学校の先生が教え子の生徒とイケナイ関係になってしまうようなもの。当たり前なんだけど、許されるものではなかった。
カザネは無理を言って、ソウタの内側にまで踏み込もうとした。それはちゃんと判ってる。理解している。あれはカザネの独り善がりの、我儘だった。
でもほんのちょっとでかまわないから、ソウタには本当の「気持ち」って奴を見せてもらいたかった。だってソウタはいつだって真面目過ぎて、カザネのことをどう思っているのかさっぱり表に出してくれないからだ。大切にされているのは、百も承知している。それを踏まえた上で、所謂特別な感情があるのかないのか、ってことですよ。
確かめなければいけない程度のものなら、最初から存在なんてしていない。答えは最初から知っていた。カザネだって、伊達に何年もソウタと一緒に暮らしている訳じゃなかった。
朝ご飯を食べて、玄関でソウタから今日のお弁当を受け取る。いつも、ありがとう。もう、わざと忘れたりなんてしないからね。「いってきます」と元気に挨拶して、玄関から飛び出そうとしたところで――
「カザネ」
後ろから、優しく抱き締められた。そぅっと、それでいて力強く。うん。今日はちゃんと帰ってきます。そんなに心配しないで。カザネは黙って、どこかにいってしまったりしないよ。
「ソウタ兄、遅刻しちゃうよ?」
「うん、ごめんな。今はこれが精一杯だから」
充分だ。ソウタの気持ちは、しっかりと伝わってきた。いつだったか、アキミツがカザネに告げていた。「ソウタはカザネに、自分の気持ちを伝えられないだろう。じれったいと感じるかも知れないが……優しく見守ってやってほしい」その時はそれが何のことなのか、カザネには全く意味が判らなかった。
今なら理解可能だ。カザネも女の子になった。ソウタが一人の男性で、カザネに何を望んでいるのかも解っている。二人とももう、子供ではない。ただ一つのルールは、それを口に出してはいけなかった。それをしたら全部壊れて、台無しにしてしまうから。
するっ、とソウタの腕が離れていった。キスくらいさせてくれても良いのに。ソウタは本当にそういうところ、融通が利かない。不満ではあったが、カザネは笑顔で振り向いた。
「ありがと。大好きだよ、ソウタ兄」
返事を待たずに、ぱたぱたと外に駆けていく。今はこれで良い。カザネの未来は、ソウタに任せてあった。魔法使いなんだから、きっとなんとかしてくれる。ソウタが何を選択したとしても、それはカザネのためを思ってのことだ。
ソウタの考えは、匂いで判った。それがただの親愛の情ではないなんて、バレバレだった。カザネだってもうお年頃、真面目に恋だってしてしまう。ソウタの望むように、まるで普通の人間の女の子みたいに。
「おっす、タケ」
教室に入ると、カザネはまずタケヒロの背中を強めにぶっ叩いた。ばしーん、と心地よい音が鳴り響く。少々加減を間違えたか。「ぐぉわ」とタケヒロは変な声を出して仰け反った。
「カ、カザネ、お前な!」
「ごっめん。鍛え方足りなかった?」
ケラケラと笑って、机の上によいしょっと座り込んだ。昨日の話が噂になっているのか、クラスのあちこちから視線を感じた。さて、じゃあお会計を済ませてしまおうか。
「昨日の約束通り、どこでも付き合うからさ。カラオケ? ファミレス? あ、もちろんタケが奢ってくれるんだよね?」
「お前、それが目当てかよ!」
タケヒロは体育バカの癖に、随分と察しが早い。にやり、と薄ら笑いまで浮かべていた。ありがと、タケヒロ。ソウタがいなければ、カザネは間違いなくタケヒロと交際していた。ただし、高校を卒業した後くらいの話だろうけどね。
「そうでもなきゃ、あたしがタケに負ける訳なんてないでしょー」
「言ったな。今度こそ実力で勝ってやるからな。吠え面かかせてやる」
カザネはタケヒロにとって、遠くで強く光り輝いている星でなければならなかった。星は、安易に掴めてしまってはいけない。少なくとも、この教室で机を並べている間は。
馬鹿なタケヒロ。そんなタケヒロのことが、カザネは嫌いではなかった。男性の中では、ソウタの次点にランクインしている。これは破格の高位に置かれているといえた。
憧れの人には、強くあって欲しい。宮屋敷アマネを慕う町屋トヨカの気持ちが、理解できた気がした。タケヒロのカザネに勝ちたいという気持ちは本物だが、そこで勝ってしまっては意味をなさない。タケヒロはカザネを追いかけていたいのだ。カザネはタケヒロの前を走り続ける。もし手が届いてしまえば、このゲームはおしまい。その時にはちゃんとした答えと――賞品を用意しておく必要がある。
だから不用意にズルして勝ってしまったりしては、いけなかった。
「……カザネ、サンキュ」
タケヒロがぼそりと呟いたのを耳にすると、カザネはひょいと床の上に飛び降りて自分の席に向かった。ひらひらと手を振ってみせる。どういたしまして、こちらこそ。タケヒロとは、良い友人でいたい。恋人にはなれないから、せめてこれぐらいはしてあげないとね。
そしてタケヒロ自身も、それを判っている。カザネが負けてあんなに怒ったのも、それが理由だった。素直じゃないし、素直になんかなってしまっったら大変だ。でもいつの日か、告白くらいは聞いてあげても良い。その時にはタケヒロの想像通りの答えを返してあげるつもりだ。
「マキ、おはよう」
「おはよう、カザネ。淀木くんと仲直りしたんだね」
「いや、喧嘩してないし。あいつが奢るのケチっただけだし」
「ちょっと待てい! 聞き捨てならんぞコラァ!」
「じゃ、ステーキ。あたし五百、マキに二百ね」
「加減ってものを知らんな、お前は」
「あ、カザネ。私二百五十に挑戦してみたい」
「だってさ」
「ふざけんな!」
ここには、獣なんていない。いるのは狩生カザネという、恋する女の子だけだった。
今日は一日非番で、のんびりと楽器の手入れをして過ごす予定だった。それが昨夜のゴタゴタのせいで、何も彼もがおじゃんになってしまった。ほとんど徹夜で宮屋敷への報告に、町屋トヨカの連行。カザネの朝食の支度、お弁当の準備。そこまででも手に余るほどの仕事量だというのに。
「悪いねぇ、ソウタくん。ウチもソウタくんからきちんと事情を聴いてこいってうるさいからさぁ」
近隣の喫茶店で、一ノ宮ダイトを相手に異言語話者からの聞き取り調査だ。そもそもダイトだって当事者の一人であり、現場にも居合わせていたではないか。それをなんでソウタに対して、改まって聴取などする必要があるのか。これは異言語話者からの、嫌がらせか何かだとしか思えなかった。
コーヒーを置いていった店員の表情が、明らかに訝しげだった。傍目には、チンピラの取立人に絡まれた善良な一市民にしか見えないだろう。大仰に足を組んで、ダイトはわざとらしい仕草でコーヒーを口に運んだ。その一つ一つの所作が演技みたいに感じられて、違和感の塊でしかない。ソウタは一刻も早くこの不愉快な時間から解放されたかった。
「じゃあ町屋トヨカとかいう魔法使いは、そこまでの厳罰は受けないんだね?」
「そういうことになる」
短時間の内に、トヨカの周辺は宮屋敷の調査部隊によって徹底的に洗われた。その結果、背後関係の存在は見受けられなかった。トヨカは『結社』残党組織の関係者ではなくて、完全に独立した宮屋敷アマネの信奉者、ということだった。
ただしそれはそれで、大きな問題でもあった。末端の魔法使いたちの中には、まだアマネ失脚の影響が色濃く残されている。これは現在の宮屋敷頭首では魔法使いたちをまとめきれていないことの、揺るがぬ証拠だ。今頃宮屋敷の本家では、頭を抱えているはずだった。
「で、その宮屋敷アマネが動いたってのも本当かね?」
「……良く知ってるな」
その話をダイトの耳に入れたつもりは、ソウタにはなかった。異言語話者の情報網もしっかりとしている。ダイトは仰々しく肩をすくめてみせた。報告会、というよりは宿題の答え合わせみたいだ。ソウタも観念して、緊張を解いてコーヒーカップに手を伸ばした。
「『結社』関係ということで、保護観察中のアマネ様にも連絡がいった。すると即座に、宮屋敷本家に対して減刑の嘆願が届いたというんだから驚きだ」
町屋トヨカは、『結社』とは本来関わりのない善良な魔法使いである。もしトヨカが道を誤ったのであれば、それはアマネの存在が狂わせてしまったに違いない。宮屋敷本家においては、どうか寛大な措置を望む。
アマネのその願いにどの程度の重みがあったのかは知らないが、宮屋敷頭首の判断は早かった。厳重注意、謹慎一週間、最低一年間の観察処分。これは『結社』を名乗った者に対する罰としては、あまりにも軽すぎるものだった。
例えそれが微々たるものであったとしても、『結社』の名前を用いることはそれだけで重罪となる。見せしめとして厳罰に処すべきだとの意見もあったが、宮屋敷頭首の考えは変わらなかった。
「それは魔法使いの『原理』に反する、と。町屋トヨカの評価を、宮屋敷は見誤っていたんだそうだ」
「なるほどね。なかなかやるじゃないか、今の宮屋敷は」
ダイトの表情が、今までに見たことがない形にほころんだ。サングラスの向こうで、うっとりと目が細められる。ダイトの言わんとすることが良く判らずに、ソウタはきょとんとしてしまった。
「同じ魔法使いであるソウタくんには、ピンとこないかもだがな。俺とか、カザネちゃんには痛いほど判るんだよ。その――宮屋敷アマネの気持ちって奴がさ」
そういえば、カザネもそんなことを口にしていた。「それでアマネが喜ぶとでも思っているのか」と。カザネは確かに『結社』にいた時期はあるが、アマネと直接の面識はないはずだった。名前くらいはあちこちで聞いたことはあるにしても、その気持ちが推し量れるほどの情報を持っているとは思えない。腑に落ちない顔をしたソウタに向かって、ダイトは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「宮屋敷アマネといえば『死』の魔法使いだ。どんなに足掻いたって、殺すことしかできない。それは俺たち、異言語話者の人外たちだって同じことだ」
異言語話者に住む者たちが、自らを人の世界から遠ざける理由。それは彼らが、不用意に他人を傷付ける力をもっているからに他ならない。ダイトにしても、カザネにしても同じことだった。その力は、どこまでいっても破壊でしかない。世界の法則を打ち破って、あってはならない現象を引き起こす。
ソウタははっとして顔を持ち上げた。
「羨ましいんだよ。誰も傷付けることなく、人を幸せにできる力があるなんてさ」
『小さな幸運』。トヨカの力は、魔法使いでない人間たちに無条件に幸せをもたらすものだった。それは決して強くはないかもしれないが、最も魔法使いとしてのあるべき姿を体現している。それこそが、魔法使いの『原理』――宮屋敷の目指している、『究極の未来』だった。
「そうか……」
あの時、カザネは怒りに任せてトヨカを殺すことをしなかった。カザネも大人になったのだと感心していたのだが、それだけではなかった。カザネはアマネと同じく、トヨカの力の本質に気が付いていた。その力は、正しく使われるべきものだ。そう思ったからこそ、カザネはトヨカの命を奪わなかった。
「カザネちゃんはさ、年相応にしっかりと成長しているんだよ。それはソウタくんが傍にいてくれてるおかげであるとも、異言語話者は認識している」
子供だったカザネも、ソウタの知らない間に徐々に大人に近付いていた。それは同時に、ソウタに決断の時が迫っていることも意味している。ソウタはテーブルの下で、固く拳を握り締めた。ソウタは、どうするべきなのか。カザネを誰かの下に送り出してやることが、カザネ自身のためにもなることなのか。
あるいは――
「魔法使いの事情については、異言語話者から口を出すことじゃない。俺としてはソウタくんが、しっかりとカザネちゃんのことを考えてくれればそれで良い」
ソウタの顔色が悪くなったのを察して、ダイトは両手を挙げておどけてみせた。異言語話者にとっては、そうだろう。宮屋敷がどうなろうが、知ったことではない。そこで生きるソウタと、カザネの未来がどこに向かって流れていくのか。
愛する人のためを思うのならば、ソウタは何を選択しなければいけないのか。
テーブルの上の一点を見詰めたまま微動だにしないソウタの様子に、ダイトは短い溜め息を吐いて独りごちた。
「本当に……ちぐはぐな関係、だな」
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第一幕 ア・リトル・リトル・ハッピー - 了 -