ア・リトル・リトル・ハッピー(4)
ムシャクシャする。もう、何もかもが上手くいかない。心の奥底がもやもやとして、ちっとも冷静になんかなれやしなかった。
それもこれも、悪いのは全部ソウタだった。あの真面目人間は、カザネの気持ちなんてこれっぽっちも理解してくれていない。別にカザネは、ソウタに対してそこまで特別なことを望んだ訳じゃなかった。いつもの日常に、ほんの僅かな愛情のエッセンスを添えてくれる。本当に、それだけで良かったのに。
ソウタだって、カザネのことを嫌いなはずではないだろう。家族的な愛情は常に感じているし、それ以上のものだってあるのに違いない。……カザネの勘違いでなければ。
カザネにしてみれば、一世一代の大勝負だった。だって既に同じ屋根の下で何年も一緒に暮らしている、血の繋がっていない兄に対して愛の告白をしてしまうとか。それどんな萌えシチュエーションだよ。カザネは日頃の感謝の気持ちとかその他諸々を、ようやく素直になってソウタに伝えられそうかな――なんて、期待で胸をいっぱいに膨らませていた。
それがあっさりとパーだ。「カザネ、そういうのはちゃんと好きな男の子に言うものだ」って何だよ、オイ。少しは顔を赤らめるとか、動揺するとかさぁ。取るべき態度ってものがあるだろうに。だからちゃんと、好きな男の人に言いました。面と向かって、目と目を合わせて、大きな声ではっきりと伝えました。
ド畜生。
真っ直ぐ家に帰るつもりになんか、当然なれなかった。部活に入るのは、目立つので禁止されている。いつもならコソコソとしているところだが、今日ばかりは例外だ。カザネは授業が終わると、自分からタケヒロの前に歩み出た。
「暇なんだよ。練習に付き合ってやる」
タケヒロの喜びようったら、なかった。ジャージに着替えてグラウンドに出ると、陸上部の面々が笑顔で出迎えてくれた。なんだ、そんなに嬉しいのか。是非タイムを計らせてくれ、とチヤホヤされて、カザネは悪い気がしなかった。
とはいえ、本気で走ったりなんかしたら先週の比ではない大目玉が待っているのに相違ない。あれは酷かった。こ汚いオッサンの全裸を目の当たりにさせられて。間違って止めを刺さなかっただけでも、一言「偉い」と褒めてもらいたいものだ。後一歩間違えれば、ミディアムまで焼き上げてしまうところだった。くわばらくわばら……というおまじないは、カザネが相手ではあまり洒落にならない。
何本かショートトラックに付き合ってやると、タケヒロが良い感じに温まってきた。見るからにご機嫌だ。うん、こんなタケヒロが拝めるのなら、部活に入るのも悪くない。思ったよりも楽しいじゃないか、と思い始めたところで。
「カザネ、俺と勝負してくれ」
いつになく真剣な表情で、タケヒロが勝負を挑んできた。
「良いけど、勝てるなんて思わないでよ?」
高校に入学してすぐ、カザネはタケヒロをぶっちぎっている。そりゃあタケヒロは普通の人間だ。そもそも次元が違うというか、種が違うのだから仕方がない。「地を這う」者たちがカザネを追い抜こうなど、おこがましいにも程がある。
自信満々にふんぞり返ったカザネの姿を、タケヒロはじっと見つめてきた。
「じゃあ俺が勝ったらさ――付き合ってくれないか?」
「はぁ?」
訊き返す間もなく、タケヒロはさっさとスタート位置に向かっていった。なんだそりゃ。えーっと、帰りにコンビニまで、とかそういうノリかな。
カザネはそう思ったが、陸上部の部員たちが軽くざわついて、固唾を飲んで二人の様子を遠巻きに見守り始めた。ちょちょちょ、ちょっと待ってちょっと待て。
え、マジ?
「タケ、あのさ――」
「すまん、集中したいんだ。質問は終わってからで良いか?」
タケヒロはストレッチをしながら、カザネに背を向けた。いやいや、勝てるつもりでいるのか、人間風情。いくらカザネの正体を知らなくったって、今まで散々背中を見せられ続けてきたでしょうに。それを何だ、負けるの前提でそんな話にするのは反則っぽくはないですかね。
カザネがスタートラインに並んでも、タケヒロは一瞥もくれようとはしなかった。ああ、本気だ。それが判って、カザネは自分の鼓動が早くなってくるのを感じた。どうしよう。この勝負が、カザネはたまらなく楽しかった。
ピストルが鳴る。タケヒロの身体が、素早く反応する。多分、今までで一番良い発進だ。タケヒロは陸上選手として、確実に成長していた。こんなんでも一応女子人気が高いのはうなずける。スポーツマン、ってのは判りやすいよね。
カザネもいつも通りに、ゆっくりと身体を動かし始めた。手加減なんてレベルではない。その気になれば、人間の世界の時間なんて止まっているのも同然だった。ちゃんとその視界に留まる程度の動きにはしておかないといけない。それが若干面倒なだけで、後はどのタイミングでゴールの位置にいれば良いのか、そこが考えるべき唯一の事柄だった。
タケヒロの横顔を、カザネはじっくりと眺めてみた。少しもぶれない。その視線は、前にのみ向けられている。うん、ちょっとカッコイイな。馬鹿っぽいのはやや減点とはいえ、タケヒロといてつまらないとは感じない。隣にいて退屈はしないだろうし、そこまで嫌だとは思わない。
付き合う、か。
ソウタはカザネのことを、妹としてしか見ていなかった。だとすれば、カザネとソウタが結ばれる可能性なんて、万に一つもないのではないか。カザネの告白を、まるで世迷い事みたいに簡単に切り捨ててしまって。次の日には、何もなかったとでも言うような顔で接してきて。マジで、人の心がないのかと思った。そのぐらいは冷たく感じたし、正直カザネは傷付いた。
タケヒロなら、カザネに対してそんなことをするだろうか。まあ馬鹿だし、不用意な発言程度ならたまにはやらかしてくれそうか。カザネの席にやってきては、いつも良く判らない発言をして混ぜっ返してくる。そんなことをして、何が楽しいんだか。カザネにはタケヒロの行動の動機が今一つ良く判らなかった。
でも、それも良いかもしれないな。
ソウタはカザネに、普通の女の子になってほしいのだろう。だったら一般の女子生徒が熱を上げるような、陸上部のエースと交際する、なんてのも一つの手かもしれない。ソウタがそうしてくれというなら、カザネはそうする。今だって、ソウタが通えというから高校に入って、学校生活を送っている。ソウタが望むなら、カザネは他の誰かと一緒になって、そのまま人間としてその生を終えたってかまわない。
だってソウタが、カザネにそうあって欲しいと願うから――
先にゴールラインを超えたのは、タケヒロの方だった。カザネはその後ろから、数秒遅れて追いついた。やってしまった。見るからにわざとらしいが、勝負は勝負だ。言い逃れなんかしない。カザネはこの結果を、黙って受け入れるつもりだった。
うつむいて立ち尽くすカザネの前に、タケヒロが無言で近付いてきた。おめでとう。えーっと、さっきのは何の冗談? とりあえず帰りに、コンビニとか寄ってく? あ、それとも日曜日に買い物に付き合ってほしい、とか?
頭の中に、意味のない言葉の羅列が浮かんでは消えた。白々しい。カザネはずっと、気付かない振りをしてきた。タケヒロの気持ちなんて、馬鹿なんだから火を見るよりも明らかだった。もうちょっとは隠そうとしてほしい。他の女子たちからいらないやっかみを受けて、カザネは学校の中で目立たないようにするので必死だった。
「タケ――」
「どういうつもりだ、カザネ!」
何か言おうとしたところで、カザネはタケヒロに激しく胸倉を掴まれた。足が宙に浮いている。この、筋肉馬鹿。カザネでなければ、息が詰まって失神している。タケヒロの形相を間近で見て、カザネは心の底から反省した。
「ごめん……タケ」
真剣勝負だった。タケヒロはカザネに、負けて欲しくなんかなかった。タケヒロの気持ちは本物だ。だからこそ、こんな形で勝ってもちっとも嬉しくなかった。
馬鹿の癖に、何もかもはまるっとお見通しだった。悔しいな。ちょっとときめいてしまった。ソウタがいなければ、カザネは間違いなくタケヒロのことが好きになっていた。タケヒロは本当に、良い奴だ。
「悪い。この勝負はノーカンだ。クールダウンしてくる」
カザネをそっと離すと、タケヒロは足早にトラックを去っていった。陸上部員たちがひそひそと会話を交わしている。カザネのせいで、明日にはタケヒロ絡みで悪い噂が広まってしまうだろう。カザネも何も言わずに、更衣室の方に小走りに向かっていった。
問答無用でぶっちぎって、「あーくそ、カザネには敵わねー」ってタケヒロが吠える。それで良かったんだ。二人で大きな声でゲラゲラと笑って、すっきりする。タケヒロがせっかく準備してくれたその場面を、カザネは台無しにしてしまった。タケヒロの想いが判るからこそ、カザネはつらかった。
タケヒロは馬鹿なのに、やたらと気が利く。カザネのことになると、実に敏感に反応してくれる。マキに言われなくたって、そんなのバレバレだった。カザネは判っていない振りをしていなければならなかった。だってタケヒロは――ソウタでは、ないから。
きっとあの脳味噌筋肉は、そこまで察しているに違いなかった。カザネの中に、自分はいない。それでもなお、カザネのためにあれこれとしてくれる。今日だって陸上部の練習に、快く飛び入りで参加させてくれた。カザネの様子が違うことに、ちゃんと気が付いていたからこその対応だった。
だからこれは、カザネのミスだ。
陽が落ちても、家に帰る気にはなれなかった。お小遣いの残りは相当に厳しい。自動販売機で缶コーヒーを買うことですら躊躇われる。ぶらぶらと駅前を散歩して、本屋を冷かして。百円ショップで無駄に時間を潰して。
後はどうすれば良いだろうか。
携帯は静かなままだった。時刻的に、そろそろソウタから「早く帰ってこい」の連絡が来るはずだ。今日は、どうしようか。無視しても、どうせ今も人知れずコランが監視しているのに違いなかった。先週問題を起こしたばかりだし、そこは確実だ。
だったらそれこそ、放っておいても問題はないのではないか。カザネの動向は、どうせ一部始終が筒抜けだ。目一杯遅くなったところで、心配なんかされようがなかった。いっそまた別な痴漢でも見つけて、軽くのしてでもやろうか。ソウタと気まずい毎日を送るくらいなら、異言語話者の里に引きこもってしまった方がマシなのかもしれない。いけすかない一ノ宮ダイトに頼み込めば、二つ返事で連れていってくれるに違いなかった。
そうなってからカザネにいて欲しいと思ったって、もう遅いんだからね。
薄暗いガード下に足を踏み入れると、ぞわり、と背筋に悪寒が走った。おっと、夢に沈んだな。これは魔法使いたちが使う、一種の結界だ。世界の一部を、自分にとって都合の良い空間に半分程作り換える。そうやって世界に対して地味な干渉と書き換えをおこなうことで、現実に「ほぼ」有り得ない事象を作り出すのが所謂「魔法」だった。
そういえば、ごく最近駅のガード下に魔法使いがどうのこうのという話を聞いた気がした。確か、占い師だったか。良く当たると評判らしいが。なるほどカザネが予想した通りに、そいつは魔法使いであったようだ。
さて今カザネが置かれている事態がそうであるとして、問題点が一つ。それは人の運命を占うのに、ここまで他者に対して攻撃的な意思を持つ魔法を扱う必要はない、ということだった。
「どちらさん? あたしになんか御用?」
丁度良い。暴れ足りなかったところだ。カザネは学生カバンを脇に放り投げた。ソウタの件もそう。タケヒロの件もそう。少しばかりさかのぼって、くっそ気持ち悪い見も知らない裸のオッサンの件もそう。どいつもこいつも一緒くたにして、丸めてポイしてやりたい気分だった。
相手が魔法使いなら、遠慮なんかいらないだろう。カザネのことを知らないならモグリだし、知っててこれならぶっ飛ばしても何の文句もない。今度は宮屋敷にも異言語話者にも、ツッコまれる要素はゼロだ。
「『結社』に戻りなさい。獣」
ビンゴだ。カザネは一声吠えると、大きく右腕を振り被った。さあ、遊ぼうぜ。今日は特に機嫌が悪いんだ!
カザネの帰りが遅い。夕食の支度を終えると、ソウタは壁にかかっている時計を確認した。学校はとっくに終わっているはずなので、何処かで道草を食っているのは確実だった。家に帰りづらい、というのは察している。だからこそなるべく平静を装っていたのだが、ソウタは対応を間違えてしまったのだろうか。
カザネの気持ちなんて、充分過ぎるほどに理解していた。理解しているからこそ、ソウタもあれこれと苦心している。
ソウタだって、できることならカザネと共に幸せになりたいと考えないこともなかった。ただしそれには、宮屋敷と敵対するという強烈なオマケがついてくる。魔法使いであるソウタがその重大な覚悟を受け入れるのは、流石に一筋縄ではいかないものがあった。
それさえなければ、ソウタはむしろカザネのことを――
「ソウタ、コランから報告だ」
ベリルが食卓の上に飛び乗ってきた。いつもならこれで、三十分はお説教だ。しかし今はそれどころではない。ソウタはそれを聞いただけでうなずくと、エプロンを外して玄関へと走り出した。
「場所は駅前、ガード下辺り。理由は判らないが、完全に見失ったとのことだ」
「コランが?」
コランは、宮屋敷で特殊な訓練を受けている猫だ。魔法使いを相手に後れを取ることなど、まず有り得ない。その監視の目を潜るとなると、相手は余程の使い手であるのかもしれなかった。
「あるいは滅茶苦茶運が良かったか、のどちらかだな」
馬鹿げている。運で全てが解決できるなら、アカシックレコードなんか意味をなさない。宮屋敷を頂点とする魔法使いの一員であるのなら、そんなことは常識だった。
夜の街に飛び出すと、ソウタはベリルを伴ってカザネのいる駅前に向かって疾走を開始した。