ア・リトル・リトル・ハッピー(2)
目が覚めて最初にやるのは、洗濯乾燥機の中から使えそうな着替えを掘り出して、見てくれ良くシワを伸ばすこと。これは日課というよりも、ルーチンワークだ。それから八つ切りの薄くて安い食パンを、百円ショップでまとめ買いしたインスタントのスープで無理矢理胃に流し込む。侘しい朝食をもしゃもしゃと咀嚼しながら、手元のスマートホンでネットのニュースサイトを巡回する。
おはよう。今日もいつもと何一つ代わり映えすることのない、当たり前の日常だ。
「魔法使いの才能がある」なんて言われた時には、そりゃあ夢だって視たものだった。自分には映画や小説の主人公みたいに、普通の人には持ち得ない不思議な力がある。傘で空を飛びたいとか、みすぼらしい服をドレスに変えてしまったりとか。そこまで子供じみたものではなくても、なんかこう、楽しそうな雰囲気というのを感じて、うずうずと期待に胸を膨らませたりはしていた。
それが……このザマだ。築六十年の木造アパートで、色彩に乏しい一人暮らし。信じられるか? この建物、お父さんよりも年上なんだよ? 壁紙とか頑張って貼り替えてみても、物事には限度というものが存在している。玄関から足を数歩運ぶだけで床がきしむ。ちょっと触れた程度であっても、三回に一回は網戸が外れる。油断していればドアノブがすっぽん、とばかりに抜けて取れる。おまけに壁が薄くて、毎晩隣のアホカップルの情事の声が筒抜けだ。もう何でも良いからそのまま死んでくれ。
少し前に招待されて参加した宮屋敷家の新年会は、素晴らしく豪勢なものだった。同じ魔法使いで、こうも違うものなのか。終始圧倒されっぱなしで、栄養を摂取するのも忘れて突っ立っていることしかできなかった。世の中は不公平だ。持てる者と持てない者がいる。それは魔法使いの世界においても一切変わらない、絶対普遍の法則であった。
陰鬱な気分のまましばらくネットを徘徊してみたが、以前得た以上の情報は転がっていない様子だった。まあ確かに、あんなものは取るに足らないような些末なニュースに過ぎないだろう。だが今回に限って言えば、何らかの見えない力が介在したことが想像に難くない。こういう勘みたいなものに関しては、良く当たった。もっともそれしか取り柄がないのだから、信じて動くのみだ。
椅子の背もたれに引っ掛けてあるカバンをまさぐると、商売道具を取り出した。粗末に扱うと罰が当たる。何しろこいつがいなければ、現在のこの程度の生活ですら覚束なくなってしまうのだ。頼むよ、相棒。この古びた二十二枚の大アルカナだけが、信頼できる唯一の友だった。
客の前では、それなりに手順を踏んで、ケルト十字とかでやってみせる必要があった。演出は大事だし、タロットで最も重要なのはカードを読み解いて物語を綴ることだった。それがもっともらしければもっともらしいほど、客は喜んでくれる。当たっているかどうかは二の次だ。いや、あまりに大外れであっては話にならないが、そこはある程度できている、というのが前提条件となっている。
今回は自分のことだし、色々と端折って一枚の素引きだけで済ませることにした。携帯サイトのタロット占いだって、大体がこういう形式だ。あれもほとんど無作為で表示しているだけだろうに、人気のあるサイトとそうでないサイトに分かれているのが面白かった。それを決めているのも、大体が解釈のテキストによるところが大きい。良い占い師になるには、先ず喋りが達者でなければ。師匠にもそう言われていたが、如何せんそればかりはどうにも得意にはなれそうになかった。
引き当てたカードは、『力』の掲示だった。獅子を抑え込む女性という、見るからにパワフルな絵柄だ。さて、これはどのように解釈をおこなうべきか。強い意志を持ってことに当たるべき、かな。大丈夫、そんなことは解っている。
根気を持って、コツコツとやっていくしかないとは思っていた。情報が不足しているが、案外魔法使い同士のネットワークというのは使えるものだった。この辺りで網を張っていれば、きっと何らかの手掛かりが得られるに違いない。
ふぅ、と大きく溜め息を吐いて、椅子から立ち上がった。どうせ午前中は、ほとんど客なんか見込めない。かといって、日中ずっとこのアパートの中にいたら、塞ぎ込んで精神的に死んでしまいそうだった。
通過儀礼の時に視えた、あの壮絶な未来のビジョンが脳裏をよぎる。師匠は平穏で何もないことを良しとして、それとは異なる道を進むように助言してきた。今なら、どうだろうか。己の行くべき道を決める権利を持っているのは、あくまでも自分自身だ。
八つ切りの食パンが、せめて四つ切りに出来る未来だってあっても良い。宮屋敷の言うことに従って、この先に幸せなんてあるのか。魔法使いの全てが、アカシックレコードの見せる幻想に夢を抱く訳じゃない。
ラッキーカラーの空色の上着に袖を通すと、少しだけ気分が上向いてきた。よし。今日こそきっと、良いことがある。そう信じて、玄関から力強くその日の一歩を踏み出した。
文字通り、嵐のような朝食だった。不機嫌の塊と化したカザネは、考えられる限りの行儀の悪さを尽くして食事を摂った。音を立てる、溢す、引っ繰り返す。わざとやっているのだから、注意なんかしても無駄だ。ソウタはその姿を、冷ややかに見つめているしかできなかった。
で、それが更に気に食わなかったのだろう。最後にドガシャン、と力強く食器をテーブルに叩き付けて、カザネは無言のままダイニングを出ていった。「ごちそうさま」は、ちゃんと言うこと。食器は食べた後、流しまで持っていくこと。歩く時はドスドスと足音を立てない。ああそれから、出されたものは残さずきちんと食べる、だ。もう無作法の一つ一つを数え上げるのですら、馬鹿馬鹿しくなってくる。
「いってきます!」
玄関でそう大声でがなり立ててから、カザネははっとしたように口許を手で押さえた。慣れない不良生活は、あっさりとボロを出してしまった。ぐぐぐ、と怒りで顔をくしゃくしゃにして、それから猛スピードで外に飛び出していく。「いってらっしゃい」の声が届いたのかどうかは、微妙なところだった。無理に聞かせてもやることも可能だったが、その先に待ち構えているのは誰も望んでいない延長戦で間違いなかった。一人になった家の中で、ソウタはふぅ、と肩を落とした。
「困ってるみたいだね」
テーブルの下から、緑の瞳の黒猫がするり、と姿を現した。ソウタの使い魔、ベリルだ。気持ち良さそうに伸びをして、ソウタの顔を見上げてきた。気楽なものだ。ソウタはベリルに背を向けると、朝食の後片付けを始めた。
「判っているなら何か助け船でも出してくれても良いのに」
「冗談じゃないね。他人の、それも人間の色恋沙汰なんて面倒なだけだ。御免被る」
ベリルはテーブルの上に飛び乗ると、後ろ足でぽりぽりと首筋を掻いた。コランの方は、いつも通りカザネについていったのだろう。実に仕事熱心で助かる。猫たちは共有意識で繋がっているので、カザネに何かあればベリルを通じてすぐにソウタに連絡が入ることになっていた。
とは言っても、相手はカザネだ。基本的には何かが「あった」後の話になってしまう。それのせいで宮屋敷からはいつも苦情が寄せられていた。うるさい連中だ。カザネはあれで上手くやっている。そのことはソウタも良く理解していた。周りがどう思っているかは知らないが、カザネはソウタにとっては今やごく普通の女の子だった。
「……しかしそうだな、ソウタはカザネに対してもう少し歩み寄ってやっても良いのではないか?」
「歩み寄るって、どういうことさ」
洗い物を終えると、ソウタは手を拭いて自分の部屋へと向かった。着替えて、出勤の支度をしなければならない。今日の予定では確か、午前中に商品の搬入があるとのことだった。ソウタでも一応は、男手としてカウントされている。カザネの言う通り、もう少し運動でもして鍛えた方が良いのか。この後で力仕事が待っているのかと思うと、少々気持ちが落ち込んできた。
「恋人は無理にしても、もう少し女性として意識ぐらいはしてやるとか」
「無茶を言うな」
血の繋がっていない、年頃の女の子と二人暮らし。この状態に、ソウタがどれだけ苦しんでいると思っているのか。カザネはアキミツから託された、大切な妹分だ。宮屋敷からの命がなくても、ソウタは可能な限りその傍に寄り添って生きていくと決めていた。その代わり――
「そうなってしまったら、僕もカザネも身の終わりだ」
魔法使いはその力を師によって覚醒させられる際、アカシックレコードから未来の幻視を受け取ることができる。未来の姿は常に揺らいでいて、不確定ではある。それでもある程度の確度を持った光景が、新規参入者とその師匠の内側にのみ投影される。
ソウタがアキミツから通過儀礼を施された時に視たのは、金色の髪を持つ少女の姿だった。年下で、美しくて、可愛らしくて。ソウタはその少女に、すっかり魅せられてしまった。
カザネには、出会う前から出会っていた。アキミツですら、カザネとは何の面識もない頃の話だ。不思議な感覚だった。ソウタはいつもカザネと一緒にいた。手を繋いで歩いていた。笑い合っていた。仲が良い、という言葉で片付けられる関係ではない。ソウタはその未来において、カザネと恋に落ちていることを悟った。
問題は、その後だった。カザネと結ばれた未来の、その行き着く先。そこに待っていたのは――この国の魔法使いたちの総元締めである宮屋敷に、反旗を翻す二人の姿だった。
「宮屋敷に歯向かうということが何を意味するのか、ベリルにも解っているだろう?」
「そりゃあ、まあな」
ベリルもコランも、カザネとソウタを監視するために宮屋敷から派遣されてきている。ソウタが通過儀礼で垣間見た幻視を、宮屋敷は危険であると判断したのだ。
だが、ソウタとカザネを引き離すことまではしなかった。カザネが強硬に反対したのと、後はアキミツの遺言に従ったためだ。アキミツが遺言書を残していたとは、カザネもソウタも預かり知らないことだった。アキミツの残した言葉は、宮屋敷の上層部と異言語話者の一部だけの間で共有されている。そこにしたためられている内容は、極秘扱いなのだそうだ。
その中身が何であれ、ソウタはアキミツの遺志によりカザネの後見人となるように宮屋敷から指示された。四の五の言われなくとも、そうするつもりだった。目付け役として、ベリルとコランが二人の下に寄越された。後は異言語話者の連中だ。こちらもことある毎にソウタやカザネの生活に干渉してきて、正直うるさくてたまらない存在だった。
「でもその先に何があるのかは、判ってないんだろう?」
ソウタが視た幻視は、二人が宮屋敷に戦いを挑むところまでで終わっていた。そこで二人とも、命を落としてしまうのかもしれない。あるいは、まだ確定していない何らかの未来が待っているのかもしれない。今の魔法使いたちには自由にアカシックレコードを俯瞰する力はないので、それは判然としないままだった。
「幻視なんてのは解釈によって、どうとでも扱えるものだからね」
宮屋敷の現頭首は、カザネの後見人となるために訪れたソウタと対峙した際にそんな言葉をかけてきた。宮屋敷の頭首の姿を、ソウタはそれ以前には遠目にだけ見たことがあった。しかしいざ実際に向かい合ってみると、色々とボリューミーで圧迫感のある若い女性だった。赤い下縁の眼鏡が、きらりと光を放つ。くつくつという笑い声からして、いかにも「魔女」という呼ばれ方に相応しい印象だった。
「心配せずとも、私はアキミツ氏を信頼している。その遺児である二人のことも、同じように信頼しているさ」
宮屋敷頭首の対応は有難かったが、ソウタには腑に落ちないことばかりだった。何故、アキミツの遺言は開示されないのか。何故、異言語話者がここまで介入することを認めるのか。何故、危険な幻視を受け取ったソウタはカザネと共にいることを許されるのか。
そして何故――宮屋敷はあの『結社』について、固く口を閉ざすのか。
「ベリルは知っているんだろう? 僕がどうしてカザネの後見人として認められたのか?」
「当然だ。更にはそれが極秘事項であるということも、よーく知っている」
着替えを終えて玄関に立つと、ソウタはベリルを見下ろして「ふん」と鼻を鳴らした。生意気な使い魔だ。ここに人の心が読めるとかいう『銀の鍵』でもあれば、ベリルを通じて世界中の猫たちから情報を拝借してやれるのに。いや待て、『銀の鍵』は猫にも効果があるのだろうか? 訊いて確かめてみようにも、残念ながらソウタにはそんな物騒な化け物の知り合いはいなかった。
いるのは一人だけ。どうしようもないじゃじゃ馬。ソウタの麗しき解き放たれた獣だ。
「じゃあ仕事にいってくる。何かあったら連絡を――」
そこまで言いかけて、ソウタは玄関にぽつんと小さな巾着袋が放置されているのに気が付いた。それを準備しておいたのはソウタなのだから、見間違えようがない。あの馬鹿。思わず声を失って眉間を抑えたソウタを見上げて、ベリルは目を細めて「ククッ」と含み笑いを漏らした。
「朝も早くから仲直りのためにと、腕によりをかけて作った弁当を忘れられるとは。堪えるなぁ?」
「……もういい。黙っててくれ」
カザネには本当に悪いことをしたと思っている。ソウタだって、自分の気持ちに正直になれれば苦労なんてしない。弁当の入った巾着を拾い上げると、ソウタはその日何度目か判らないくらいの大きな溜め息を吐いた。




