ア・リトル・リトル・ハッピー(1)
吐き出した息が、白い塊となって空気の中に溶け込んでいく。それが無数に固まって、ぎっちぎちのおしくら饅頭みたいになった曇り空だ。辺りは薄暗い闇の底に沈んでいて、今の時刻がどのくらいなのかすらはっきりとしなかった。確か、まだ午後になったばかりといった頃合いのはずだ。なるほどこんな場所に引きこもっているのだとするならば、良からぬことばかりを考えるようになってしまうのは当然の摂理だろう。
「陰気臭い場所だねぇ。そりゃ頭の一つもおかしくなるよ」
澱んだ世界のただ中にあって、カザネの金色の髪はソウタを導く希望のきらめきだった。無造作な癖っ毛のショートヘアーは、どこにいても目立つ澄み切った白金だ。これで脱色もしていなければ、ヘアカラーも何も使っていない。これで瞳が判りやすい青だったりしたのなら、高校の生活指導ももう少し穏便な対応をしてくれていたかもしれない。
残念ながら、カザネの目はやや色素の薄いブラウンだった。『力』に染まると、こちらも眩しい金色に変わる。もっともその状態を目の当たりにして五体満足でいられた人間は、今のところ人類ではソウタ以外には存在していない。ソウタだけが知っている、カザネのちょっとした豆知識だった。
「ソウタ兄、息上がってない?」
「馬鹿言うな。そこまでヤワじゃない」
カザネはくるりとソウタの方を振り返ると、きしし、とイタズラっぽく笑ってみせた。高校の制服の上に、ピンクのダウンジャケットを着込んでいる。冬真っ盛りの山の中ともなれば、もう少し重装備でもおかしくないはくらいだ。大きめのモッズコートをまとったソウタには、身震いしそうな肌寒さが感じられている。疲れよりもむしろ、そちらの方が心配だった。
「カザネ、寒くないか?」
「んー、まだ平気。若いからかな。ソウタ兄みたいにガリガリでもないし」
言われるほどに痩せているつもりもないのだが。ソウタは大量の白い息を吐き出した。カザネの状態に問題はない。であれば、残りはソウタの仕上がり次第だ。ソウタは表情を引き締めると、じっと正面を見据えた。枯れ木ばかりが続く斜面の向こう側に、ちらちらと民家の影が見え隠れし始めていた。
「あそこだね」
カザネもそれを認めると、歩みを止めて姿勢を低くした。しなやかなその動きは、狩りに長けた肉食動物を想起させる。そうだ。カザネの本質は、紛うことなき野生の猛獣そのものだった。荒れ狂い、獲物を嬲り、食い殺す。カザネの中で燃え盛る烈火の如き情動を判っていてなお――
ソウタはカザネのことを、美しいとすら感じていた。
「カザネ、判っているな? この先は――」
「判ってる」
ソウタの言葉に被せるようにして、カザネは力強く首肯してみせた。口先では、何とでも言える。ここに来るまでの道すがらでも、既に幾度となく確認を取り合っていた。引き返すという選択があるのなら、恐らくはこれが最後の機会だ。ソウタはカザネの隣に並ぶと、目の前に広がる光景をゆっくりと見回した。
人の住まない、地図からも消えた集落。ぽつぽつと建っている木造の古い家屋は、どれも漏らさずに倒壊寸前だった。人の暮らしている気配など、当然のように感じられない。この場所に辿り着くには、国道を離れて相当山の中にまで入り込まなければならなかった。無軌道な若者たちであっても、流石にそこまでの根性は保持していないものだと思われた。
ただ間違いなく、『ここ』には心的な『重さ』を伴った存在が感じられた。明確な痕跡など、どこを切り取っても見付けられようはずがない。これが感じられるのは、同じ『魔法使い』だけだった。
――警告。許可なくこの場所に立ち入ることなかれ。
辺りを埋め尽くしている目に見えない質量は、わかり易く表現すればそういう類の拒絶の意思だった。
「この先に進めば、僕たちは間違いなく『彼ら』に弓を引く者となる」
ソウタの眉根が寄せられて、深くシワが刻まれた。この国に住む魔法使いなら、それが意味することを誰だって良く理解している。無謀とか、無益とか。蛮勇なんて簡単な言葉で片付けられる性質のものでは、決してない。
それなのに、カザネの表情はどこか晴れやかで……むしろこれから起こる出来事に対して、期待に胸を膨らませている様子だった。あたかも、明日の遠足が待ちきれないとでも言わんばかりだ。わくわくとして、目を輝かせて。待ちきれなくて堪らない。
本当に、どうしようもない妹分だ。カザネを見ていると、ソウタはそれだけで諸々の不安が吹き飛んでいった。大丈夫だ。カザネがそうしていてくれるのなら、ソウタはそれだけで強くなれる。
「平気だよ。宮屋敷なんて、怖くない」
困ったものだ。恐れを知らな過ぎて、思わず笑みが零れそうになる。宮屋敷に楯突くということが何を意味しているのか、本当に判っているのだろうか。カザネは魔法使いではない。それ故に、宮屋敷の名前の持つ権威などどこ吹く風だ。
ソウタや二人の師であるアキミツが、どれほどの苦労をしたと思っているのか。とはいえ、こうすることを選んだのはソウタ自身だった。カザネと共に、宮屋敷という組織に反旗を翻す。一歩間違えれば――いや、そんな微妙なラインはとっくに踏み越えている。
これは確実に、命取りだ。
ぞわり、とソウタの背筋に悪寒が走った。気付かれた。急激に周囲の気配が濃密なものと化した。まるで空気に押し潰されてしまいそうなくらいの、強烈な意思が充満し始めている。夢に沈めるつもりか。相手もどうやら、手加減なしでぶつかってくるつもりだった。
それは確かに、そうあるべきだろう。向こうだって、何者がここを訪れたのかぐらいは把握している。狩生ソウタと、狩生カザネ。この二人がわざわざこんな場所にまでやってきた理由など、考えるまでもないことだった。
「いこう、ソウタ兄。見せてやろうよ、あたしたちの――」
カザネの言葉が、心強い。ソウタの心はもう、とっくに決まっていた。例え何に逆らってでも、ソウタはカザネと共にある。全てを諦めて、認めてしまった。狩生ソウタは、同じ屋根の下で暮らすこの生意気な妹分を……愛していると。
「不揃いな連携、って奴をさ!」
ソウタの目の前で、カザネは大地を蹴って宙を舞った。きらきらと輝く金色の髪の向こうで、恐るべき野獣はうっとりと目を細めて微笑みを浮かべていた。
さあ、狩りの時間だ。
スマートフォンに設定された目覚まし時計の電子音が、部屋の隅々にまで行き届いている。これで起きない人間がいるとすれば、聴力に問題があると見做されるだろう。ベッドの上で丸まったシーツの塊が、もぞもぞと蠢いた。
「……だぁあ! うるさい!」
隙間から白い右手だけがにゅうっと飛び出してきて、スマートフォンがありそうな位置をごそごそとまさぐり始めた。ベッドサイドの、充電用クレードルのある辺り。場所としては惜しいが、なかなか掴むことができないでいる。そんなことをしている間に、目眩滅法に振り回される掌に弾き飛ばされて、スマートフォンは絨毯の上に転げ落ちてしまった。
事態は更に悪化した。こうなったらシーツの中から出る以外に、目覚まし機能を止める術はなかった。「ぐぅう」と恨みがましく一声上げると、ようやくカザネは居心地の良い布団の世界から顔を持ち上げた。
起き抜けは髪がボサボサになるから好きじゃない。眠くて死にそう。おまけに、昨日受けた精神的なダメージがちっとも回復してくれなかった。なんだよ、チキショウ。どうしてご丁寧に目覚まし時計なんてセットしてからベッドに入ったんだ。馬鹿みたいじゃないか。
相変わらず大音響の電子音が鳴り響く中で、カザネはしばらくぼんやりと座っていた。本棚からは漫画本が雪崩のように転げ落ちている。普段は行儀よく並べられているぬいぐるみたちも、そこかしこに散らばってまるで屍の山だ。学生カバンはでろでろとだらしなくその中身をぶちまけて、手付かずの宿題と共に放置されている。これをやったのは全部、部屋の主であるカザネだ。昨夜の記憶が蘇ってきて、カザネはむむぅっと顔をしかめた。
微かに、階段を昇ってくる気配がした。目覚ましの音がいつまでも止まらないから、ソウタが様子を確かめにきたのだろう。そんなことは判っている。だが、カザネの部屋に一体何の用があるというのか。判っている。目覚ましの音が止まらないから様子を確かめにやってくる。
で、だ。
ソウタがカザネの部屋に、何の用があるというのか。判っているけど、判りたくない。胃の奥がムカムカとしてきた。後一分弱で、恐らくは部屋のドアがノックされる。「カザネ、目覚ましが鳴っているぞ?」とか何とか、声をかけてくるに違いない。それが嫌ならば、さっさとベッドから降りて目覚ましを止めれば良い。
そんなの、絶対に嫌だ!
カザネはばふん、とシーツに頭からくるまるとベッドの上に倒れ込んだ。充電状態にあるスマートフォンは、元気に目覚ましの電子音を奏で続けていた。実に耳障りで、仕事熱心だ。手足を曲げて縮こまって、カザネはぎゅうっと瞼を閉じた。もう、なんだってこんな目に遭わなきゃならないんだ。
「カザネ、目覚ましが鳴ってるぞ。起きる時間だ」
ノックと共に聞こえてきたソウタの言葉は、ほぼほぼ想定していた通りだった。ふんだ。カザネは両手で耳を塞いだ。何にも聞こえません。目覚ましの騒音も、ソウタの声も。今のカザネには、一切通用しないんですからね。
ドアが開けられる気配がした。鍵なんて上等なものは取り付けられていない。必要だってない。今までもそう思っていたし、これからだってそうだ。これは信頼の証と、それともう一つ。昨日はそういう話をしていたつもりだったんですけどね。
本当に、どうしてこんなことになっちゃったんだか。
「朝ご飯できてるからな。遅刻するなよ」
目覚ましの音が止まった。まあ、概ね毎朝こんな感じだ。寝坊したカザネを、ソウタが優しく起こしてくれる。「ほら、カザネ、起きろ」「うーん、後五分くらい良いじゃん」このやり取りが楽しかったのに。
それですらできなくなっちゃったじゃないか。なんだこれ。
ソウタが部屋から出ていくのが判った。やっぱりちょっと、そっけない気がする。昨日の今日だからか。これはみんな、カザネのせいなのか。腹立たしい。やり場のない怒りが、ムラムラと湧き上がってきた。
「くっそ、ふざけんな!」
シーツを撥ね退けると、カザネは枕を掴んでドアに向かって放り投げた。ばふん、と跳ね返って床の上に転げ落ちる。カーテンの隙間から覗く春の陽射しが、舞い上がるホコリをキラキラと照らし出していた。
狩生カザネは、高校二年生だ。髪の色がピカピカの白金なので、良く欧米人と間違われる。残念ながら、生粋の日本人……であると本人は思っている。正直なところ、生まれは良く判っていなかった。ただ、朝ご飯は白米と塩鮭とお味噌汁が最高だし、英語の成績は自分でも呆れるくらいに悪い。中身の方は最早どうしようもないくらいに日本人だった。
色々とあって、今はやや広さを持て余すくらいの一軒家に、兄の狩生ソウタと二人で暮らしている。兄、というのは戸籍上の話だ。カザネとソウタは、実際には何ら血は繋がっていない。更には二人の父親代わりをしていた狩生アキミツとも、二人は直接の血縁関係はなかった。
この辺りの説明を他人にするのはややこしいので、敢えて普段は口にしないことにしていた。ソウタもカザネも、ちょっと特殊な事情があって同じ屋根の下で暮らしている。ぶっちゃけて言ってしまえば、ソウタは魔法使いであるアキミツの弟子であり、カザネはソウタの妹弟子という扱いだった。
魔法使いとか、本当に何の冗談かと思う。実際カザネは、魔法使いの才能なんてこれっぽっちも持ち合わせていなかった。ソウタがたまに妙なことをするのを、ぽかぁんとアホ面を晒して眺めていることしかできない。何でも千人に一人くらいの割合で、魔法使いの素質を持つ人間とやらがいるらしい。きちんとした通過儀礼と修行を受ければ、魔法使いの親玉である宮屋敷とかいう一族から免許皆伝がもらえるという。
カザネにとってそれは、割とどうでも良いことだった。何しろカザネ自身は魔法使いなんかではないし、なりたいとも思わなかった。あれは言うほど便利そうなものでもない。それが本能的に判ってしまうくらいには、カザネはその手のものには鼻が効いた。
それよりも何よりも――カザネはその魔法使いたちから、監視される立場にある者だった。
「いよう、起きてきたのかよ」
階段を降りてリビングに入ると、ソファの上で丸くなっている黒猫がカザネに向かって声をかけてきた。瞳が青だから、カザネの使い魔であるコランだ。『使い魔』なんて言いながら、ちっとも使われてくれないし、指示も聞いてくれない。日がな一日カザネの周辺でゴロゴロとしていて、お目付け役の一人……じゃなくて、一匹という感じだった。昨日だってカザネの友達の森塚マキに撫でられて、だらしなく咽喉なんかを慣らしていた。本気でムカつく猫だ。
「で、仲直りとかは終わった感じか?」
あ、ダメだ。
猛烈なスピードで、カザネはコランに向かって飛び掛かった。このクソ猫は、本当に余計なことばかり言いやがる。猫同士は共通意識で繋がっているので、今頃はソウタの使い魔のベリルどころか、この町中の猫が知っているに違いない。コランを抹殺したところで、もう全ては手遅れだ。判っている。判ってはいるけど、止められない。
コランも伊達に、魔法使いに仕えるものとして選ばれてはいなかった。ひらり、と素早く身を躱してダイニングの方に走っていく。ああ、畜生。ソウタのいる方に逃げやがった。ソファの上に変な体勢で着地して、カザネは忌々しげにその背中を見送った。
アキミツのいなくなったこの家で、ソウタと二人で暮らし始めてそろそろ七年が経つ。カザネだって、これでも立派な女子でいるつもりだった。血が繋がっていないと知っている年上の男性と、どんな気持ちで同棲していると思われているのか。これでも充分に機会を伺って、じっくりと時間をかけて勝負を挑んだつもりだったのに。
「カザネ? 早くしないと学校に遅れるぞ?」
「うるさぁい!」
昨日の夜、カザネはソウタに告白をして――見事に撃沈した。それなのに、ソウタの態度はいつもとあまり変わらなかった。むしろ普段よりも冷たいくらいだ。
せめてもうちょっとは気にしてくれたって、良いじゃないか。ソウタの馬鹿。朴念仁。真面目人間。それと後えーっと……運動不足!