第一章 恋来 一幕 偽りからのスタート その1
ゆっくり読んでいってね!
三ヶ月という時間は、高校に入りたての若者にとって親しい友好関係を築くのに十分なように見えた。尤もお互い面識のないクラスメイトたちがよそよそしさを葬り去って会話するようになるには桜を散らすまでも無かったようである。
丘の上の広い校舎は、在都の私立のような瀟洒な雰囲気や学術的な気風とは無縁な白塗りの簡素なもので何の面白みもないが、実際にそこへ通う者からしてみれば、所謂内部進学が居ないので私立のように直参と外様で分裂するようなこともなく平穏で、各々のクラスも水溶液のように、恐ろしく平等であった。そんな環境に大方の生徒は従順だったが、中には健気に粋がる手合いもわずかながらいるようだった。
田原美嘉は、自らも今年の四月からこの環境に身を置き不満を感じながら、しかしそのどちらの性質の人間も好ましく思っていなかった。だが、焦りと無気力を同時に育むこの水溶液に、あるいは意図的に居続ける自分を怜悧な目で見つめるもう一人の自分。この認識は美嘉にとってある程度の心地良さがあった。この手の最近の若者に見られるオプティミスティックなニヒリズムを、権力への反抗から過激な行動に走る熱をすら失っている現代日本社会というバックボーンを無視して、彼女の個人的な性質に原因を求めるのはナンセンスである。何にせ美嘉は、こんな片田舎で女生徒をやるにしては少しばかり賢すぎたといえる。
四限終了のチャイムが鳴って昼食の時間になると、教師の退室を待たずして教室はざわめき出し、クラスメイトたちは購買に走ったり、友人同士で机を並べ始める。美嘉はアヤとユカがこちらに椅子を引きずってくるのを待って、鞄から取り出した弁当を自分の机に広げた。北海道のすがすがしい初夏の晴天を享受するには窓際にある美嘉の机は特等席だったから、いつも友人の方から集まってくるのだった。友人と言っても、美嘉にとっては入学式の日に偶然会話を交えた人間、という域を出ていはしなかったが。
「ねぇ美嘉ぁ、やっぱ今日の四限ってマジサイテーだよね。昼メシの前に田中の顔なんか見たくねーっての。授業も全然わかんないし!」
アヤは席に着くなりごちた。今日の四限は数学で、数学担当の田中という教師は生徒にあまり人気がなかった。目つきのイヤらしい加齢臭のするオヤジ、というのが大方の風評だった。
だが美嘉は、田中教授の授業の分かりやすさはかなりのものだと思っていた。もっとも数学に限らず大方の授業中は居眠っているのだが。
「……ああ、そうだな」
「余裕じゃーん、美嘉ぁ。ひょっとして完璧?」
「いや、さっぱりだ。寝ていたから」
言いながら弁当を口に運ぶ。ユカは口に手を当てて小さく笑った。
瞬間、教室の前の扉が勢いよく開かれた。
三人は同時にそちらに目線を向けたが、アヤとユカはすぐに目をそらした。教室も静まり返ったのは一瞬だけで、元のざわめきをすぐに取り戻した。だが、クラスの誰もが今入ってきた長身の男を遠巻きに観察しているのが良く分かった。
異物の扱いとはこんなものかと、美嘉は妙な具合に感心した。美嘉には教室におけるこの男の存在が不必要なほど醜悪に見えたが、それは反抗というものを道徳的にではなく、審美的に見てであった。
男の名は確かノゾムといった。
あまり良い噂を聞かない男だ。学年は美嘉たちと同じ一年のはずだけれども、入学の時から毎日のように女を変えて遊び回っているならず者だと忠告が回ってきたこともあった。もっとも、そんな忠告が飛び交ってなお変える女の居ることが、この学校の女の程度というものを逆しまに現しているといえようが。
今しがた不当な評価を得ている数学教師を目の当たりにしたばかりでなおくだらぬ人の噂を信じる軽率さが美嘉にあったわけではないが、ゆっくりとこちらに近づいてくるにつれて分かるノゾムのあまりの身なりの滑稽さに
(やはりこういう人間なのか。私は、こうはなるまい)
思いを強くした。
ノゾムは全体的に茶色い髪の一部を更に脱色して違う色に染め分け、アクセントをつけるカラーリングを施してい、だらしなく着た制服にネックレスや銀色のブレスレットを合わせている。耳のピアスが窓からの光に反射してきらと輝いた。
美嘉はピアスを男がしているのを見ると嫌な気持ちがした。女の装身具を男が身につけているのがなんで男伊達なのだ、と思う。
さて美嘉の方がどう思おうとも、すでに、教室に入ってきた時にノゾムとは目が合ってしまった。ノゾムはポケットに手を突っ込み、にやにやしながらその高い丈を前にかがめるようにしてこちらに近づいてきた。
(どうなったって私は知らんぞ)
他人事のように美嘉は思った。
「こんちわー、俺、隣のクラスのノゾムって言うんだけどー。知ってる?」
誰にともなしに言った。
「ねー、俺と友達になってよー」
ノゾムは歯を剥き大袈裟に笑ってみせた。そこから若さを抜けば下卑た笑いにしかならぬものでも、年端のゆかぬ少女たちから見れば快活なものに見えるらしく、学校の噂に依れば、『爽やかな笑い』らしい。
目の前まで寄られると、身の丈一四七センチに過ぎない美嘉にはやはりノゾムはかなり大きく見えた。だが、 美嘉はこの男から何の羨望や魅力も覚えないことに、無表情で箸を進めながらも小気味良さを感じていた。
「あれー、無視? いいじゃん、友達になろうよ。せっかくの高校生活なんだしさあ。番号交換しようぜ!」
気配でクラスのほとんどがこちらを注視しているのがわかる。
(私は、こうはなるまい)
美嘉はまた、そう心で唱えた。
「えぇーどうしよ。まぁいいよ、交換しよ!」
そんな中、急にアヤがそう言い、美嘉は驚いて彼女を見つめた。
「マジで! ヒャハハハ! やりぃー!」
ノゾムはそう言うと、アヤとPHSの番号を交換し、来た時と同じ前かがみの歩きで教室を出て行った。瞬間、それまでクラスを覆っていた何か分からぬ緊張のようなものが無くなったようにみえた。
クラスの各々が勝手に食事を再開しだし、こちらへの注目がとかれると、まだPHSの画面を確認しているアヤに
「お前、あんな輩と。何を考えているんだ」
美嘉が質すと、
「えー別に良いじゃん。アタシ、イケメン大好きだからぁ! フフッ!」
悪びれもせず、得意げな笑顔でアヤはそういった。
ユカはどうしていいか分からないというように、美嘉とアヤの顔を交互に見ている。美嘉は諦めたようにいった。
「そりゃあ何しようがお前さんの自由だがね、くれぐれも厄介ごとが私の方にまで及ぶような事はしてくれるなよ」