良い湯と煩悩
「あの、マーガレット嬢。今更だが、無理行って本当にすまない。
家族の方はいつ頃帰って来るんだい?きちんと挨拶がしたいんだ。」
室内に入れた安心感で冷静になれば、婦女子の家に無理やり入り込んだ自分が大変非常識であることに気がついた。玄関に立ったまま、情けなくも涙と鼻水を拭い、アベルはマーガレットに尋ねた。
一般のご家庭であれば、強引に入り込んだ怪しい男なぞすぐに叩き出される。
キョトンとしたマーガレットはちょっと考えて、遅くなるから気にしないで、それより泥を何とかしないと、と早口で言い、奥の部屋へ入っていってしまった。
入り込んでおいて勝手だが、自分の非常識な状況に何とも尻の座りが悪い。
だからといって今から帰る気は全くない。マーガレット嬢には本当に感謝している。
アベルは典型的な”逸れ人”のトラウマ持ちだった。
成人前の子供だったころ、精霊の森に迷い込んでしまったのだ。
不幸な運命の巡り会わせだったのだろう。迷っているうちに、幼くして亡くなった幼馴染の”逸れ人”に出会ってしまった・・・・・・。
未だにうなされる夜もある。
ただ、”逸れ人”は精霊の力があるところにしかいないため、ほぼ討伐対象にはならない。
精霊は神聖な森深くに居り、人間が近寄らなければ良いだけなのだ。
そもそも討伐は浄化のできる僧侶に依頼される。
騎士は”逸れ人”と関わらなくてもやっていける。
ただ騎士達は、勇敢なことと怖いもの知らずを同じくする風潮がある。
いくら騎士は”逸れ人”は討伐しないと言っても、こんな弱点を持っている騎士であれば言わずもがな。
アベルは未だに下っ端扱いだった。
アベルは泥を周りに付けないように玄関の三和土から立ったまま室内を眺めた。
小さなログハウス風な家は思ったよりきれいに整えられていた。
掃除は行き届いているようだし、室内は女性らしい雰囲気の家具や小物で彩られていた。
この家はどうやら大人が二人で住んでいるようだ。椅子が2脚なのはもちろん外套を掛けるフックも擦れて色が変わっているのは2か所。部屋もここから見る限り2部屋のようだった。
子供用品はざっと見て無いようだった。同じく大型の狩りの道具なども無く、男の住んでいる雰囲気も嗅ぎ取られなかった。
暫くするとマーガレットは布の包みを二つ抱えて部屋から出てきた。
「お待たせ、アベルさん。早速だけど、明るいうちにお風呂に入ってもらえる?
いつまでも玄関に立たせておいてごめんね。私も汚いから一緒に行って案内するよ。
はいこれ着替えと手ぬぐいね。さあ行くよー、ついてきてー。」
布の包みを一つアベルに渡して、くるりと身を翻してまた家の廊下の奥へ進んでいく。
「・・・・・・一緒に?」
アベルは何か聞き間違いをしたのかと確認しようとしたら、マーガレットが首だけこちらを向けてまた言った。
「あー、騎士様は口が堅いと思うけど。お風呂のことは内緒にしてね。」
「!!」
アベルは声が出なかった。みるみる顔が赤くなっていく。
風呂を一緒に使うって、そしてそれは内緒のことって!噂のハニートラップ!?
心の中で叫んだ。
任務なんだ・任務なんだ・任務なんだ・任務なら良いんだ?
これから起こるかもしれない未知なる体験に変な動悸が止まらない。
アベルは軽そうな見た目をしているが、一六歳で直ぐに騎士の試験に受かり早三年、男社会育ちなのである。
察してあげて欲しい。
マーガレットはアベルの様子には気が付かず、こっちこっち、と言いながら部屋を通り過ぎてさらに奥に歩いていった。
突き当りの壁の前につくと、マーガレットは慣れた手つきで壁を横にスライドさせた。隠し扉だった。
アベルは隠し扉に驚き、さらにその先に目を見張った。そこからは岩の裂け目でできた小道が続いていたのだ。
この小屋は確か切り立った岩壁を背にして立っていたように思った。
岩の裂け目を隠して建ててあるようだ。
風呂場は外にあってもおかしくないが、何故このように隠す必要があるんだろう?
アベルは風呂と内緒という言葉がつながりそうでもやもやしたが、マーガレットはもう先に行ってしまっていた。慌ててアベルも扉をくぐった。
五分ほど歩くと水の流れる音が聞こえてきた。川が近くを通っているようだ。
それからすぐ、唐突に岩の裂け目が終わって突然開けた場所に出た。
アベル達は川岸に接した大きなすり鉢状のフチに出てきた。
鉢の底には水が溜まって泉になっており、湯気が出ている。見事な温泉だった。
すぐ横を流れる川の水を引き込む取り入れ口もあり、温度調節もできるようだ。
頭上の岩壁が川に削られてできたのか、うまく張り出して屋根のように辺りを半分ほど覆っている。
今いる足元から温泉までなだらかにすり鉢状に沿って、大小不揃いな石で階段が作られていた。
「・・・・・・素晴らしい温泉だね!」
アベルは初めて見る光景に感動してマーガレットに話しかけた。
温泉という、地の底から湯が湧き出る泉があると話に聞いたことはあった。
だが実際に見たのは初めてだった。
しかしマーガレットは慣れた足取りで温泉を超えて、川の方へ降りていってしまった後だった。
ここからは岩に阻まれて頭しか見えない。アベルも急いで階段を下りて行った。
「温泉?都会の人はお風呂を温泉っていうんだ?
でも、町へ帰ってもこれは内緒にしてね。
身分の高い方々の耳でも入ったら取り上げられちゃうっておばあちゃんが言ってたから。
もちろんアベルさんは秘密を守ってくれるよね?」
マーガレットが離れたところから声を上げる。
・・・・・・風呂と秘密が繋がった。アベルはちょっとがっかりしたが、同じくらいほっとした。
ハニートラップを避ける技量はまだない(そもそも経験がない)下っ端騎士なのだ。
それにこれだけ見事な温泉だったら、強欲な権力者は取り上げてしまうに違いない。
実はアベルも下級貴族(弱小貧乏)の三男坊だが、守るべきものを虐げて喜ぶ輩では断じてない。
「もちろん。一宿一飯の御礼はしても、恩をあだで返すことはないよ!
・・・・・・ってなにしてんのさ!?」
やっと追いついたアベルはマーガレット見てぎょっとした。
「 ? 見ての通り洗濯だよ。
アベルさんも洗濯しておかないと明日の服無いでしょ。
早く洗わないと日が暮れて真っ暗になるって。
ランプなんて持って来てないからねー。」
マーガレットは着ていた服を脱いでいた途中だった。温泉脇の川で洗うのだ。もちろん収穫物も洗うつもりだ。
だが素肌に弦ひもで結びつけたナイフは片時も外さない。知らない人は信用しない。
おばあちゃんの教えはちゃんと守っているよ。
内職は別だけど!
おばあちゃんの教えは、伝わっているようで伝わっていないようで。
「マーガレット嬢!!!服を、服を着ろっ。早く!!!」
「何で?まだお風呂にも浸かってないよ。
あーいいよいいよ、アベルさん先にどうぞ。順番なんてきにしないよー。」
アベルが思わず見てしまったのは、土を落とした茶色の髪にこげ茶のくりっとした目をした華奢な女性の半裸だった。
真っ直ぐにこちらを見る目は澄んでいて、身体は大人のようなのに、まるで子供のようだった。
そんな目で見られたら。
やましい感情を持った自分の方が恥ずかしくなるじゃないか!
こちらの意図をわかってくれないマーガレットのために、アベルはマーガレットの作業と風呂が終わるまで、両の掌で顔を覆って蹲っていた。
言葉の足りない子供の話に勝手に期待した青年は、何とか日没までに風呂と洗濯を終えることができたとさ。