第九話
図書館を出た二人は、ホテルへ向かって歩き出していた。大通りを一旦駅へ戻る形で進み、途中の小路に入ればホテルにたどり着くはずである。
大通りを戻る途中で、詩集の充実をすすけた看板に掲げる古書店が二人の目をひいた。
「ここならさっきの詩集が売っているかもしれないね」
「そうですね。少し見ていってもいいですか?」
「うん。構わないよ」
十代の少女二人が、年季の入った古書店に入る光景は珍しい。店主も若い客の来店に、少し驚いた様子で、いらっしゃいと声をかけた。他に客の姿は無い。
個人経営の小さな古書店ゆえに、人の行き来できるスペースはとても狭い。しかも二人は旅の荷物を持っていたので、店内を動き回るのは困難に思えた。そこで、ユーディーは入口の脇でエファの荷物を引き受けて、エファの本探しを待つことにした。
「すみません。ありがとうございます」
エファはそう言ってから、店の奥を見に行った。
暗い店内の棚には、雑多に大量の本が詰め込まれている。本のジャンルこそ分類されているものの、この中から目当ての一冊を見つけ出すのは骨が折れそうだった。それ以前に、あの詩集がこの店にあるのかどうかさえもわからない。
それでもエファは紅い目を輝かせて、詩集を集めた棚に並ぶ背表紙を確認した。
しばらく本棚を眺めた末に、棚の一番右下に黒い装丁の本を見つけた。一番目立たない場所にあったが、真っ黒い装丁が特徴的だったので見つけることができた。
エファは棚からその本を引き抜き、手に取った。図書館で見たものと同じ、白い花が表紙に描かれた詩集である。少し埃をかぶっていたけれど、それ以外は綺麗な状態であった。
すぐさまエファはそれを店主の座るレジへと持って行った。
「お嬢ちゃんのような若いお客さんは珍しいね」
老翁の店主は愛想よく笑う。
「そうなんですか」
「普段は年寄りのお客ばかりでね。あぁ、その本をご所望かね」
「はい」
店主は一旦詩集を受け取り、値段を確認してエファに告げた。エファが代金を支払うと、店主は乾いた布で埃を拭き取って渡してくれた。
エファは詩集を持って、ユーディーのところへ戻った。
「どうやらお目当ての本があったみたいだね」
ユーディーはエファの手許を確認し、それから満足げなエファの表情を見て、目を細めた。
「はい、運が良かったです」
エファも詩集を胸に抱いて、相好を崩した。
「それじゃあ、その本はホテルまで大事に手に持って行くといい。鞄はボクが持って行くよ」
「えっ、そんな、悪いですよ」
「いいんだ。このくらい構わないよ」
「えっと、それでは……お言葉に甘えることにします」
エファはユーディーの言葉に従い、トラベルバッグを持ってもらうことにした。
そして二人の少女は、小さな古書店を後にした。
外はすっかり夜の色になり、空気は冷たさを強めていた。
「ちょっと遅くなってしまったね。ホテルへ急ごうか」
二人は少し歩みを速めて、ホテルへ続く小路へと入った。
そのとき、ユーディーは突然冷たい空気の中に、それより冷めた殺気を感じ取った。
「エファ、ボクから離れないで」
エファを動揺させないよう、なるべく落ち着いた声色でユーディーは言った。
「えっ? あ、はい」
エファは、急にユーディーの雰囲気が変わったので不思議に思いながらも、言葉に従ってボディガードに身体を寄せた。
ユーディーは、この殺気がどこから発せられ、その対象は誰なのかを考えた。
小路に人影はない。おそらく、いま曲がってきた大通りの人達に紛れているのだろう。しかし、大通りを歩いていたときは、殺気を感じてはいなかった。小路に入った途端に殺気を感じたということは、この小路向けられて発せられているということだ。つまりは、自分たちが狙われているのだと、ユーディーは理解した。
そして、この張りつめた空気には、わずかな乱れがあった。しかも敵意や悪意を隠そうとしていない。したがって、この殺気の主はプロでないことが推測できる。プロならば、事に及ぶ刹那だけ研ぎ澄まされた殺気を放つはずだ。少なくとも、手練でない事は確かだった。
それならば、いまの自分の装備で十分エファを守ることができる。ユーディーは瞬時にそう判断を下し、さり気なくヒップホルスターに手をかけた。
それから四歩進んだところで、大通りの物陰に立っていたロングコートの男が、足早に小路へと入ってきた。ユーディーはすぐに銃を撃てるように、心を準備した。
エファは、いつも自分に優しく笑ってくれるユーディーが鋭い眼光を宿している様を、訳もわからず見上げる事しかできなかった。
男は少女達の後ろ三メートル程の距離まで近づいた。
「あの……」
エファが不安にかられ、ユーディーに声をかけようとした瞬間、男はエファに向かって飛びかかる勢いで地面を蹴った。それとほぼ同時にユーディーは身体をひねって、振り向きざまに銃を抜き、そのまま男に向かって引き金を引いた。
秋の闇夜に、虫の鳴き声よりもはるかに大きな銃声を響かせて、弾丸は男の肩に命中した。男は弾を受けた衝撃で、突き飛ばされたように尻餅をついて倒れた。モスグリーンのロングコートの右肩に赤黒い染みが広がっていく。
エファは何が起こったのか全く理解できず、ただ紅い目を丸くすることしかできなかった。
一方ユーディーは己の射撃に対して、心の中で悪態をついた。彼女の狙いでは、弾丸は男の心臓を貫くはずだった。しかし、左手に持っていたエファと自分の旅の荷が、勢いよく振り向いたときに予想以上の遠心力を生み、そのために銃口がわずかに外に流された。結果、弾は男の肩に当たり、致命傷とはならなかった。
すぐにもう一発撃てば、男は始末できる。しかし、男が致命傷を回避したことで、ユーディーの中に迷いが生じた。この男を殺さずに、目的を吐かせるべきではないかという迷いが。
そのわずかに生じた隙をついて、男は立ち上がり、逃げるために大通りへと走り出した。
ユーディーはその背中を狙って銃を撃とうとした。
そのとき、動揺したエファがユーディーの右腕を掴んだので、狙いが少しぶれてしまった。
そのまま撃っても、男の背中に当てることはできたかもしれない。けれども、エファを万が一にも傷つけたくないという想いが、彼女の顔の近くで銃を撃つことを躊躇わせた。
男はすぐに大通りの人の流れに消えた。
ユーディーは、腕にしがみついているエファをできるだけ優しい声色でなだめて、リボルバーをホルスターに戻した。
それからすぐに銃声を聞いた野次馬が小路の入口に集まってきた。
少しの間をおいて、若い男の警官が小路に入ってきて二人の少女に話しかけた。
「一体何があったんだね?」
ユーディーはボディガードのライセンスをミリタリーコートのポケットから取り出し、警官に見せた。
「彼女の護衛中、この道で知らない男に教われたので、発砲した」
ごく簡潔に、ユーディーが警官に状況を説明する。警官はライセンスを確認しながら、質問をはじめた。
「その男はどこに?」
「ボクが撃った弾が肩に当たったから、大通りへ逃げていったよ」
「どんな男だった?」
「モスグリーンのコートを着ていて、背はボクより少し高いくらいだった。髪は黒かったと思う。顔は暗かったからはっきりとは見えなかったよ」
「なるほど」
警官は手帳に何事かを書き込んでから、ライセンスをユーディーに返した。
「教われる理由に、心当たりは?」
彼は横目でエファの方を見た。エファはビクリと小さく身体を震わせる。
「いや、全く」
ユーディーは答えた。
それからいくつかの細かい質問をして、警官は去っていった。帰り際に野次馬を散らしていってくれたので、小路は静けさを取り戻した。
静寂の中、エファは目の前で起こったことに今更恐怖を覚え、不安に震えた。
ユーディーはその震える小さな身体を、そっと腕の中に抱き寄せた。
「さあ、ホテルへ行こう」
「……はい」
エファの髪は秋月の光を受けて、月と同じ銀色に揺れていた。