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第七話

 ヘルマン・エグナーは一本の電話を受けていた。電話の相手は、かの有名なグスタフ・グライリヒである。受話器を握るヘルマンの手は少し震えていた。

「おたくの娘さんだがね、明日の夕方にはビブリオシュタットに着くだろう。何もなければ、あと四日もすれば、ご自宅の前まできちんとお送りできるはずだが」

 受話器から聞こえてくる声は、低く強い。グスタフはユーディーから定期的な連絡を受けていた。その報告をクライアントであるエグナー氏に伝えるのが、かつて戦場を駆けた勇士の今の役割であった。

「はぁ、そうですか。分かりました。ありがとうございます。以降もよろしくお願いします」

 ヘルマンは当たり障りのない相槌を打ち、グスタフからの報告を聞いた。

「あぁ、ではまた動きがあれば報告の電話を入れさせてもらう」

 電話の向こうの老人が低い声で告げた。

「はい、そのようにお願いします」

 グスタフからの報告が終わると、ヘルマンはそう言って受話器を置いた。その瞬間、どっと疲れが襲ってきた。あの老人は、声だけでも威圧感がある。

「明日の夕方に、ビブリオシュタット……」

 報告された、自分の養子の所在を反芻する。それから、ヘルマンは眉間を押さえて、目を瞑った。すると見計らったように、書斎のドアがノックされる。どうぞと言う前に、扉が開かれた。そこに立つのは、高価な首飾りを胸元に光らせる彼の妻だった。

「アマンダ、まだ仕事が残っている。後にしてくれないか」

 夫の言い分を全く無視して、アマンダは口を開いた。

「私の娘はまだ来ないのかしら?」

 ヘルマンは心の中で溜め息を吐いた。今まで母親らしいことを何一つしてこなかったくせに、今になってあの養子のことを「私の娘」とアマンダは言う。

「今、グライリヒ氏から報告の電話があったところだ。何事もなくこちらに向かってきているとのことだ。あと四、五日もすれば、私達の娘に会えるよ」

「早く会いたいものだわ」

 アマンダは少し焦れている様子だった。まだ四、五日もかかるのかと、内心では思っていることだろう。しかし、オーステンシュタットからはそれなりの道程があるのだから、こればかりはどうしようもない。ヘルマンとて、妻の機嫌を取るために街と街の距離を縮めることはできない。

 そのとき、書斎の電話が再び鳴った。

「この話は、また夜にでもしよう。まだ仕事があるんだよ」

 ヘルマンは電話を横目で見ながら、妻に言った。

「ええ、わかったわ」

 アマンダは無表情に部屋を出て行った。

「明日、夕方、ビブリオシュタット……」

 ヘルマンはうわごとのようにもう一度呟いてから、受話器を取った。



 その翌日の朝早く、ユーディーとエファはスピンデルドルフの駅に居た。前日の天気の悪さを全く感じさせない、秋の朝日が駅舎の中に差し込んでいる。エファにとっては一日中日傘を手放せない陽気になりそうだった。

「今日も長い電車移動になるけど、昨日の疲れは抜けた?」

 ユーディーは隣を歩くエファを気遣った。

「はい、おかげさまで」

 前日とは違い、エファは自分でトラベルバッグを持っていた。そして、昨日トラベルバッグを持っていたユーディーの左手を、もう片方の手で握っている。昨晩、ユーディーの手を握って眠ったのをきっかけに、エファはユーディーの手を握るようになった。そして、その際決まってユーディーの顔色を上目遣いでうかがうのだった。ユーディーは悪い気がしなかったので、小さく笑ってそれを受け入れた。手を握ってくるエファの力加減が優しすぎて、ちょっとくすぐったいのだけが困りものだった。

「じゃあ、行こうか」

 小さな駅舎の中、チケットカウンターまで二人は進んだ。人影はまばらで、外から聞こえる小鳥の鳴き声がやけに大きく聞こえる。

 ユーディーはカウンターの向こうに座る、落ち着いた雰囲気の駅員に、静かに告げた。

「ビブリオシュタットまで、二枚」

 乗車券を受け取ると、二人は改札を抜けてホームへ出た。日陰を探して、その下に潜ると二人は手をつないで電車を待った。心地良い沈黙の中、小鳥のさえずりが三回目に聞こえた後で、ビブリオシュタットに向かう電車がホームに入ってきた。

 電車が止まり、二人の目の前でドアが開く。ユーディーが先に立ち乗車する。それからエファの手を引いて、彼女を車内に引き入れた。車内の中程、誰も座っていないボックス席の前で二人は足を止める。頭上の荷物棚に荷物を押し込んでから、二人は向かい合って腰を下ろした。

「次はビブリオシュタットの街に泊まる予定だよ。到着は午後四時くらいになるかな」

 ユーディーはミリターリーコートの内ポケットから手帳を取り出し、スケジュールを確認して、エファにもそれを伝えた。

「ビブリオシュタットには、大きな図書館があるんですよね」

 エファは紅い目を、サングラスの奥で輝かせている。

「うん、よく知ってるね。本好きなのかい?」

「はい、オーステンシュタットに居た頃は毎日本ばかり読んでいました」

 ユーディーはエファの年齢に似合わない頭の良さの理由が、少し分かった気がした。

 電車は揺れを伴い、音を立てて動き始めた。

「始めは、外に出て遊ぶことができなかったので、他にすることもなく本を読みはじめたのですが、気付いたら本の虫でしたね」

「ビブリオシュタットの図書館はこの国で一番の蔵書数らしいから、何か気に入った本が見つかるといいね。もっとも何日も滞在する訳じゃないから、図書館では一冊か二冊読むのがやっとかもしれないけれど……」

「いいんです。読めなかったとしても、沢山の本がある空間って素敵だと思いますから。私、本もですけど、図書館そのものも好きなんです」

 エファは本当に嬉しそうに、そう言った。

「もし、図書館でどうしても読みたい本を見つけたら、街の古本屋を回ってみるのもいいかもしれない。ビブリオシュタットは図書館だけじゃなくて、古書店が多いことでも有名だから」

「図書館で読み切れそうにないページ数の本があったら、それもいいかもしれませんね」

 エファの期待は、ますます大きくなったようだ。

 ユーディーは、エファの為にビブリオシュタットでの滞在を、予定より少しだけ伸ばしてもいいかなと考えていた。

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