第四話
出発の日は雨だった。
オーステンシュタット駅舎の前、平和記念モニュメントは雨滴に曝され黒く光っている。モニュメントを囲むロータリーには幾台かの送迎車が停まっている。脇の歩道では傘が踊る。
ユーディーは駅舎入口の軒下で、それらの全てを注視する。時折思い出したように、灰色のミリタリーコートの内ポケットから銀色の懐中時計を取り出して時間を確認する。それを繰り返している間も、軟派な男や身なりの良い紳士から何度も声をかけられたが、その全てを軽くあしらった。
遅れてはいけないと、待ち合わせ場所へ早めに来たことをユーディーは軽く後悔していた。無骨なミリタリーコートの下は、黒いブラウスと白いプリーツスカートを合わせていたが、スカートの丈が短いので、茶色い編み上げブーツとスカートの間の素肌を秋雨が運ぶ冷気が刺す。寒さを恨みながらコートの裾を押さえていると、ロータリーに一台の黒い軽自動車が停まった。
雨滴を弾いて後部座席が開き、黒染めの生地に白いフリルの付いた長袖のワンピースドレスを着た少女が姿を現した。歳は十をようやく超えたばかりといった幼さで、細い金縁に丸く暗いブルーのガラスが入ったサングラスが目を引いた。手に提げたワインレッドのトラベルバッグが少し重そうだ。頭には背の低いシルクハットをのせていて、赤いリボンが巻いてあった。帽子から肩に垂れる髪の毛は、雪のようにきらめく白髪であり、肌もそれに劣らず白い。タイツに包まれた脚を伸ばして、車の中からエナメルの靴を濡れたロータリーに降ろす。その可憐さはさながらスズランの妖精だと、ユーディーは柄にも無く思う。完全に車外に出た少女は傘を広げ、運転手に一言二言告げてからドアを閉めた。走り去る車を背に、少女は駅舎の入口へぺたぺたと歩いてきた。どこかおぼつかない印象を与える足取りの少女はユーディの前で足を止めた。
もし、と少女はすこし震えるような声でユーディーに話しかけた。ユーディーは軽く腰を落として視線を下げた。
「私、エファ・エグナーという者ですけれど」
少女、エファは上目遣いでユーディーの顔を窺う。サングラスの奥の瞳が淡い紅色である。
「あの、人違いでしたらごめんなさい。貴女はグライリヒ氏の……」
「正解」
言葉を探しつつ喋るエファを、ユーディーは穏やかな口調で遮った。
「ユーディット・グライリヒ。君のボディガードだ」
エファは安堵の表情を浮かべた。
「よかった。人違いでなくて。まさか貴女のような綺麗な女性が、と思い不安だったのですが」
「女じゃ信用を貰えないかな」
エファはいいえと小さく首を横に振った。むしろ良かった、男の人は苦手だからと付け加える。
「そうか、なら良かった」
エファは歳の割に随分と丁重で落ち着いた話し方をする。ユーディーが祖父に愚痴った子守り仕事は単なる杞憂に終わりそうであった。
「早速だけど列車に乗ろう。詳しい話は列車の中でしようか」
二人の少女は、駅舎の中へと入った。
オーステンシュタットの駅は地方都市の駅としては妥当な規模で、設備は一通り整っているが、広すぎるということも無かった。外観は歴史的な建築物のそれを保つが、戦争後に改装された構内は洗練されて小綺麗である。申し訳程度に設置された売店で、ユーディーはチョコレートとボトル売りのスパークリングミネラルウォーターを二本買った。それから切符を求めて窓口へ向かう。その間、エファはユーディーの後を静かに付き従った。
「スピンデルドルフまで。二枚お願いするよ」
ユーディーが告げると、ガラス向こうの熟練駅員が二枚の切符を手許の小窓から滑らせた。ユーディーは料金と引き換えに切符を受け取る。振り向いて、一枚をエファに渡すと彼女は料金の心配をした。
「君の両親から、報酬とは別に十分すぎる旅費をもらっている。万事心配ないよ」
二人は、改札を抜けホームへ向かった。
ホームでは雨の音がよく響く。鉛色の空から落ちる雨は、激しくない。いつまでも降り続きそうな気さえする冗長なシャワーだ。
「寒くない?」
ユーディーは傍らに慎ましく立つエファを気遣った。清潔なコットンのように真っ白なエファの顔がその言葉を誘ったのだ。いいえ、と彼女は首を振った。
「雨、好きです私。晴れの日は眩しすぎるので」
エファがそう言うと、ユーディーも陰鬱な雨が落ち着いた心地よいものに変わる気がした。それからしばらく二人は線路に落ちる雨を黙って見つめていたが、アナウンスと列車の轟音で沈黙は破られた。
その列車はローカル線で、通勤の時間帯からもズレていたので哀愁が漂う程に空いていた。二人は扉近くのボックス席に陣取った。シートは硬いが清潔だった。二人が腰を落ち着けると、軽い揺れを伴って列車は動き出す。エファの対面に座るユーディーは、コートのポケットから畳まれた数枚の紙を取り出して話を切り出した。
「今回の依頼の書類なんだけど、ちょっと乱雑に扱いすぎたかな。後悔している」
差し出されたその書類は上質な紙であったが、折り目が付いているだけでなく、ポケットに入れていたせいで皺が寄っていた。ユーディーは少しばつの悪そうな顔を作った。
「いいえ、お気になさらず」
エファは静かに受け取ると、畳まれた紙を開いて軽く目を通す。その間にユーディーが口頭での説明を加えた。
「一枚目はボクがキミのボディガードとして雇われたことを証明する書類。キミの父親とボクの祖父のサインが入っている。二枚目以降は依頼に関しての細かい規約とかだけど、キミがそんなに気にするような内容でもないかもね。暇があったら目を通しておいて。ただひとつ大事なのは……」
有事の際は自分の指示を守ってもらうことだ、とビジネスライクに告げた。
「なにか質問は?」
「銃はお持ちですか?」
紙に落としていた視線を上げてエファが恐る恐る尋ねる。ユーディーは意外な質問に面食らったが、客観的に見れば自身を護衛する者に対する質問として妥当であるともいえた。彼女はベルトの脇に提げたローライドなヒップホルスターからアンティークなリボルバーを抜いて、エファの前に差し出してみせた。
「仕事柄一応、ね。コレの出番が無ければその方がいいんだけど」
「銃は怖いものだとばかり思っていましたが、貴女は持ち物も綺麗なんですね」
エファが銃を褒めたのだと理解するのに、多少の時間を要した。サングラス越しの瞳を輝かせながら銃を見つめていたが、触れようとはしない。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。ボクも気に入っているんだ。もっとも、ボクのおじいさんは骨董品だといって、最近の銃を持たせようとするけどね」
ユーディーはそのあとに、しかし性能は満足のゆくもので護衛に問題は無いと付け加える。エファは穏やかな笑顔で応じた。列車は十分な加速を得て、車窓の景色はいそがしく流れる。ユーディーはリボルバーをホルスターに戻した。そして売店の紙袋から先程買った品を取り出し、チョコレートとガラスボトルのスパークリングミネラルウォーターの一本をエファに差し出す。更なる質問を促した。エファは差し出された品を慎ましやかに受け取ってから答える。
「質問……ではないのですが、あまりお気遣いなさらないで下さい。こういうのも、なんだか悪い気がしてしまって。私も持ち合わせがありますので」
受け取った品に目配せをした。
「さっきも言ったけど、キミの両親のお金だ。旅に必要なものを買っただけだし、キミが気に病むことはないよ。キミのお金はキミが好きなように使えば良い」
ユーディーは手許に残していたもう一本のボトルを開けた。
「そう、ですか。わかりました。いただきます」
雲が厚みを増して、空の光は更に弱く、雨足は強くなっていた。シルクハットを脱いだ白髪の少女は、ボトルを開けて少し水を飲んだ。
「キミはボクに気を遣っているか、もしくは知らない人間だから緊張しているのかな。そういう風にみえる。でも旅路は泊まりもあるし、長いよ。その間ずっと一緒なんだ。あまり気は張らないほうがいい」
座席に身を縮めて座り、チョコレートの欠片を小動物のように齧るエファを、ユーディーはなるべく親しげな声色で諭した。とは言っても難しいだろうけどねと、エファの態度へフォローも加えた。そして、慣れない笑顔で笑った。エファの、新雪の肌にさっと朱が差した。